鎌倉時代は備前の頂点である。伝えでは一文字派の工が後鳥羽上皇の御番鍛冶に列し、世紀の半ばには光忠が長船派を興して、注文は公家からも武家政権からも流れ込んだ。国宝刀剣の数で備前に並ぶ国はない。
Yoshitsugu of the prestigious Aoe school ranks among the finest swordsmiths of the late Kamakura period, rated jojo-saku – highly superior – by Fujishiro. Said to be the son of Tôshichirô Yoshitsugu, he bore the honorary title of Uemon no Jô, later raised to Saemon no Jô during the Karyaku era. Dated signatures are recorded from the second year of the Genkô era (1322) through to the Kôei era (1342-1345), placing this blade squarely within his productive period. Certain works by Yoshitsugu have attained Tokubetsu Jûyô, Jûyô Bijutsuhin, and Jûyô Bunkazai status, making this attribution one of considerable significance. The blade was first attributed to Yoshitsugu by Hon’ami Tenrai in 1935, who signed the ô-suriage nakago in gold inlay (kinpun-mei) and prepared both a washi-paper origami and a fine hakogaki – signed wooden box. Tanobe Michihiro later examined the blade and added a comprehensive sayagaki confirming the attribution. The steel displays all the hallmarks that collectors associate with the Aoe school: a ko-itame-hada interspersed with the distinctive namazu-hada (catfish skin) – dark clustering spots of nie in the body – and clear dan-utsuri, the layered linear reflection in the ji that is so characteristic of this tradition. The hamon is a bright suguha-chô worked in fine ko-nie, slanting in places to form saka-chôji, adding further elegance to the temper line. The sword is presented in a superb late Edo period uchigatana-koshirae with a structured glossy black-lacquer saya sprinkled with mother-of-pearl accents. The kojiri is rendered in intricate plum blossom metalwork, the tsuba is signed Goshu Soheishi Nyudo Soten and depicts the legend of Shuten-doji, and the fuchi-kashira is attributed to Mogarashi Sôten in Edo (1700-1780) with the Seven Sages of the Bamboo Grove motif. The menuki show Ebisu-ten and Daikoku-ten on a cart. All koshirae fittings hold NTHK-NPO Kanteisho certificates of authenticity.

販売店の記載のまま
青江 · 備中 · 1326-1332頃
藤代 上々作 · 刀剣大鑑 上位8%
現在1点販売中
吉次は備中国青江派の刀工で、鎌倉時代末期より南北朝時代初期にかけて活躍した。備中は十一世紀初頭の『新猿楽記』が既に「備中ノ刀」を挙げる刀剣の国であり、青江派は高梁川下流域を中心に栄え、鎌倉中期頃までを古青江、それ以降南北朝期にかけてを青江と汎称する。諸記録は「助次・頼次・直次らと共にこの時代の同派を代表する刀工の一人」[[c:3]]と繰り返し記し、古い記録は端的に「中青江の代表工」と呼ぶ。年紀は正中・嘉暦・元徳が遺り、元徳二年紀の生ぶ太刀の記録は「元徳の年号は貴重である」[[c:23]]とする。長銘は右衛門尉に平姓を冠し、居住地は「備中国青江住」と「備州万寿住」の両様に切られ、「居住地銘の相違が指摘される」[[c:24]]。
作風の基調は、この期の青江の直刃の最も穏やかな姿である。嘉暦三年紀の小太刀は「直刃を得意とする吉次の本領が遺憾なく発揮された一口」[[c:7]]と評される。中直刃が処々浅く小さくのたれ、小互の目・小丁子・小乱れを交え、小足・葉に逆足が入るが、逆ごころは部分的に留まる。匂口は締まりごころに小沸がつき、明るく冴え、金筋・砂流しが細かにかかり、腰元に湯走りが断続して二重刃風となる。短刀は細直刃にほつれを交え、刃区を焼き込む点が注目され、左兵衛尉直次の元徳元年紀の短刀にも「同様の態が見受けられ興味深い」[[c:25]]とされる。嘉暦三年紀の短刀は「静穏な直刃出来の焼刃は、小沸がよくついて、滋味に溢れている」[[c:26]]と記される。
鍛えは小板目がよくつみ、小杢・流れ肌を交え、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入る。地斑がしばしば現われて澄肌を交え、金象嵌銘の刀は「縮緬肌状」を呈し、元徳年紀の太刀は地斑交じりの鍛えが「かな色深く冴える」[[c:27]]。淡く乱れ映りが立ち、小品では「棟寄りに乱れ映り・刃寄りに筋状の映り立ち」[[c:11]]、所謂段映りとなる。帽子は直ぐに小丸、時に先尖りごころ、または僅かに掃きかける。二字銘短刀の映りの景色と締まって明るい直刃の匂口は「いかにも青江らしく」[[c:12]]と評される。
「吉次の短刀の遺例は稀有であり、同工の作域を知る上で資料的にも貴重である」[[c:28]]とされ、小太刀も「同派には珍しい小太刀の作例」[[c:29]]である。佩裏に二字銘を切る太刀は「長銘作よりは時代が遡ると鑑られる」[[c:30]]。名跡の端には世代の問題が立つ。嘉暦短刀の重要美術品の記録は、その工を銘鑑が貞和頃に置く吉次の「先代であろう」と記し、その貞和頃の吉次の折返銘の刀は後代の工の項に収める。本間は「青江の個銘の極めは賛否があろう」[[c:15]]と注意を添え、指定の記録は穏やかな直刃の短刀が「南北朝期の同派の作とは趣きを異にしている」[[c:16]]と作風の上で線を引く。
いま一つの作域は大磨上無銘の極めの刀である。鍋島家の金象嵌銘の刀は「地刃の出来は鎌倉末期の青江派の典型的のもの」[[c:17]]とされ、享保九年本阿弥光忠折紙の附帯する無銘刀は両度の記録で「吉次極めの中でも傑出した出来映え」[[c:18]]、「手持ちの重い頑健な刀姿」[[c:19]]と賞される。極めには率直な留保も残る。内藤家伝来の刀は「一見備前元重などとも鑑せられるもので、吉次と断定することは困難である」[[c:31]]とされつつ、鎌倉末期の青江の作と位置づけられる。一派の中で吉次の直刃は最も静かな極にあり、右衛門尉平の銘字は直次の左兵衛尉と対をなす。
藤代の格付は上々作。公の指定は十六口を数え、特別重要刀剣二口・重要刀剣十口の計十二口がこの二つの級にあり、重要美術品二口、重要文化財は藤島神社所蔵の正中三年三月日紀の在銘太刀(図版解説に板目に直刃と記す)と東京国立博物館所蔵の元徳二年紀の太刀の二口である。後者は毛利家より明治天皇に献上されたもので、本間による御物台帳に所載される。十六口のうち十口が在銘、五口が無銘の極めで、鍋島家の刀は金象嵌の極め銘を帯びる。伝来は名家を経る。金象嵌銘の刀は肥前小城鍋島家に伝わり、『土屋押形』に「原城一番乗りのとき祖先の佩刀」[[c:21]]と記される島原の乱の藩祖元茂の佩刀であり、村上内藤家の刀は「太閤拝領青江吉次」[[c:22]]と伝えて天正十八年小田原陣の拝領にかかる。嘉暦の重美短刀は佐野美術館の所蔵である。重要文化財と社寺・博物館の所蔵品は文化財として永く守られ、蒐集家が現実に出会い得るのは特重・重要の十二口に限られるが、市に現れることは稀であり、現れた折には青江の静かな直刃の佳品として指標となる。
吉次の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
備前伝 · 備中
時期区分: 中青江· 1235–1334
現在20点販売中
中青江 備中国青江派は、高梁川下流域の子位・万寿の地を中心に栄えた一派であり、その淵源は古く、十一世紀初頭の往来物『新猿楽記』が諸国の名産物の中に「備中ノ刀」を挙げるところに遡る。これより二世紀の後、その高い評価を受け継ぐ青江派の刀工が登場し、同地に繁栄した。同派は時代的に大別され、鎌倉時代中期頃までのものを古青江、それ以降南北朝時代にかけてのものを青江と汎称する。中青江は、この後者のうち鎌倉時代後期より南北朝時代に至る一作風期を指し、青江派の最も充実した盛期に当たる。代表工としては、逆丁子の名手として定評ある次直、これと並んで直刃に長じた次吉、鎌倉時代末期より南北朝初期にかけての同派を代表する直次らが挙げられ、ほかに守次・吉次・秀次・貞次・大隅権介貞次など、多くの良工が輩出した。なお同派には太刀銘と刀銘の両方が見られ、書下し銘の手法もままみるところである。 作風を見ると、まず鍛えは小板目肌に板目・小杢目を交えてつみ、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入る。処々に地斑状の肌合を交え、肌立ちごころに縮緬肌状を呈するものもあり、これらは同派の大きな見どころである。映りは同派を特徴づける要素であり、乱れ映りが鮮明に立つほか、棟寄りの乱れ映りと刃寄りの筋状の映りとが相俟って、いわゆる段映りを形成するものが看て取れる。刃文は中直刃ないし広直刃を基調とし、小互の目・小丁子・角ばる刃などを交え、処々逆がかって逆足を交えるのが通例である。匂口は締まりごころに小沸がつき、金筋・砂流しが細かにかかり、明るく冴える。この締まって明るく冴えた匂口こそ青江物随一の美点であり、塩相の深い様は見事である。帽子は直ぐ調に浅くのたれ、先尖りごころの小丸に返るものが多い。古青江が小沸出来で匂口のやや沈んだ直刃仕立てに小乱れを交えたのに対し、中青江は沸づきが穏やかとなり、匂出来で匂口の冴え冴えとした刃文に転じた点に画期がある。さらに南北朝時代最盛期の延文頃に至っては、華やかな逆丁子乱れが完成され、これは当時にあって青江一派の独壇場というべき個性的作域となった。鎌倉時代末期の作に窺える逆がかる態や下半の賑やかな乱れは、この後の華麗な逆丁子乱れの先駆を想起させるものである。 評価の面では、中青江は日本刀の中でも第一級の声価を得ている。古来、本阿弥家では無銘の青江物で典型的かつ出来のよいものに貞次の極めをあてる傾向があり、貞次の名は『新刊秘伝抄』に「備中物極上十五貫」と最高の代付をされるなど、同派の最高位の標識とされた。直次・次直・次吉らの在銘年紀作は元徳・延慶より貞和・観応・正平・文和・延文に及び、同工・同派を研究する上で資料的価値が頗る高い。伝来も長州毛利家・肥前小城鍋島家・大垣藩主戸田家・日州延岡藩主内藤家など名家に及び、世々珍重されてきたことが知られる。直刃の静謐な締まりと逆丁子乱れの華麗とを兼ね備え、つんだ鍛え・明るく冴えた匂口・特色ある段映りを以て、備中の伝統を最も洗練した姿で示すのが、この中青江の作風期である。 詳しく見る →
鎌倉時代の備前
鎌倉時代は備前の頂点である。伝えでは一文字派の工が後鳥羽上皇の御番鍛冶に列し、世紀の半ばには光忠が長船派を興して、注文は公家からも武家政権からも流れ込んだ。国宝刀剣の数で備前に並ぶ国はない。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトAll swords come with a three-day inspection period beginning from the date of delivery. If not satisfied, the sword may be returned within this period for a full refund of the purchase price. Outside of this period, all sales are final. Swords purchased on a layaway payment plan are not eligible for the three-day inspection period.