吉次は備中国青江派の刀工で、鎌倉時代末期より南北朝時代初期にかけて活躍した。備中は十一世紀初頭の『新猿楽記』が既に「備中ノ刀」を挙げる刀剣の国であり、青江派は高梁川下流域を中心に栄え、鎌倉中期頃までを古青江、それ以降南北朝期にかけてを青江と汎称する。諸記録は「助次・頼次・直次らと共にこの時代の同派を代表する刀工の一人」と繰り返し記し、古い記録は端的に「中青江の代表工」と呼ぶ。年紀は嘉暦・元徳が遺り、元徳二年紀の生ぶ太刀の記録は「元徳の年号は貴重である」とする。長銘は右衛門尉に平姓を冠し、居住地は「備中国青江住」と「備州万寿住」の両様に切られ、「居住地銘の相違が指摘される」。
作風の基調は、この期の青江の直刃の最も穏やかな姿である。嘉暦三年紀の小太刀は「直刃を得意とする吉次の本領が遺憾なく発揮された一口」と評される。中直刃が処々浅く小さくのたれ、小互の目・小丁子・小乱れを交え、小足・葉に逆足が入るが、逆ごころは部分的に留まる。匂口は締まりごころに小沸がつき、明るく冴え、金筋・砂流しが細かにかかり、腰元に湯走りが断続して二重刃風となる。短刀は細直刃にほつれを交え、刃区を焼き込む点が注目され、左兵衛尉直次の元徳元年紀の短刀にも「同様の態が見受けられ興味深い」とされる。嘉暦三年紀の短刀は「静穏な直刃出来の焼刃は、小沸がよくついて、滋味に溢れている」と記される。
鍛えは小板目がよくつみ、小杢・流れ肌を交え、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入る。地斑がしばしば現われて澄肌を交え、金象嵌銘の刀は「縮緬肌状」を呈し、元徳年紀の太刀は地斑交じりの鍛えが「かな色深く冴える」。淡く乱れ映りが立ち、小品では「棟寄りに乱れ映り・刃寄りに筋状の映り立ち」、所謂段映りとなる。帽子は直ぐに小丸、時に先尖りごころ、または僅かに掃きかける。二字銘短刀の映りの景色と締まって明るい直刃の匂口は「いかにも青江らしく」と評される。
「吉次の短刀の遺例は稀有であり、同工の作域を知る上で資料的にも貴重である」とされ、小太刀も「同派には珍しい小太刀の作例」である。佩裏に二字銘を切る太刀は「長銘作よりは時代が遡ると鑑られる」。名跡の端には世代の問題が立つ。重要美術品の記録は尾張徳川家伝来の折返銘の刀を銘鑑の貞和頃の吉次に該当するとし、嘉暦短刀の工をその「先代であろう」と記す。本間は「青江の個銘の極めは賛否があろう」と注意を添え、指定の記録は穏やかな直刃の短刀が「南北朝期の同派の作とは趣きを異にしている」と作風の上で線を引く。
いま一つの作域は大磨上無銘の極めの刀である。鍋島家の金象嵌銘の刀は「地刃の出来は鎌倉末期の青江派の典型的のもの」とされ、享保九年本阿弥光忠折紙の附帯する無銘刀は両度の記録で「吉次極めの中でも傑出した出来映え」、「手持ちの重い頑健な刀姿」と賞される。極めには率直な留保も残る。内藤家伝来の刀は「一見備前元重などとも鑑せられるもので、吉次と断定することは困難である」とされつつ、鎌倉末期の青江の作と位置づけられる。一派の中で吉次の直刃は最も静かな極にあり、右衛門尉平の銘字は直次の左兵衛尉と対をなす。
藤代の格付は上々作。公の指定は十七口を数え、特別重要刀剣二口・重要刀剣十口の計十二口がこの二つの級にあり、重要美術品三口、重要文化財は藤島神社所蔵の在銘の一口、ほかに皇室・毛利家の伝来を有して京都国立博物館に納まる在銘の一口がある。十七口のうち十一口が在銘、五口が無銘の極めで、鍋島家の刀は金象嵌の極め銘を帯びる。伝来は名家を経る。金象嵌銘の刀は肥前小城鍋島家に伝わり、『土屋押形』に「原城一番乗りのとき祖先の佩刀」と記される島原の乱の藩祖元茂の佩刀であり、村上内藤家の刀は「太閤拝領青江吉次」と伝えて天正十八年小田原陣の拝領にかかる。折返銘の刀は尾張徳川家より徳川黎明会に現存し、嘉暦の重美短刀は佐野美術館の所蔵である。重要文化財と社寺・博物館の所蔵品は文化財として永く守られ、蒐集家が現実に出会い得るのは特重・重要の十二口に限られるが、市に現れることは稀であり、現れた折には青江の静かな直刃の佳品として指標となる。