二つの朝廷が争った六十年、刀身は長大化し、長船がその需要に応えた。兼光と長義の工房は実際に戦う国人層の武士に仕え、軍勢とともに相州風が届いて相伝備前が生まれた。
磨り上げによって「備中國住」のみが残されている、佐藤寒山博士が鎌倉末期元徳から南北朝初期の青江直次と鑑定して御鞘書された太刀。青江は高梁川下流域の子位荘(こいのしょう)青江郷(注1)。鎌倉初期、この地に居住した貞次や恒次は、高梁川上流域(注2)で産した良鋼を以て名刀を打ち、後鳥羽上皇の御番鍛冶として向鎚を勤めた。直次はその末裔で左兵衛尉を任官した名手。建武の新政後、激闘する武士たちの干戈の音を聞きつつ(注3)飽くまで篤実に作刀し、建武二年十月日紀の「備中国住人左兵衛尉直次作」の太刀(重文)や、大徳川伝来で本阿弥光温極めの「直次磨上之 本阿(花押)」の刀(重美)等の名作を遺している。 この太刀は身幅重ね充分で、棒樋が掻かれて姿引き締まり、腰反り高く中鋒の、典雅にして美しい造り込み。杢目交じりの板目肌に青江特有の澄肌を微かに交えた地鉄は地景が太く入って肌起ち、生気が漲って晴々とした鉄色は微かに青みを帯びて冴える。中直刃の刃文は僅かに小互の目を交え、小沸が柔らかく付いて匂口締まりごころに明るく、小足、葉が盛んに入り、刃中も澄む。帽子は焼を充分に残し、浅く弛んで突き上げて小丸に返り、青江、別けても左兵衛尉直次の特色が顕著。茎に小振りに刻された「備中國住」の四字銘には衒いがなく好感がもてる。足利尊氏、楠木正成、新田義貞などの英雄が躍動した時代を偲ばせる、愛刀家の夢ともいうべき逸品である。 注1...現倉敷市。青江は倉敷駅に近く、伯備線沿い。 注2...神代郷や野馳郷(岡山県阿哲郡)、新見荘(同県新見市)の良質の鉄は租税として納められた。 注3...後醍醐天皇勢と足利尊氏勢が熾烈な攻防を繰り広げた備中福山城 は青江郷のすぐ近くである。












青江 · 備中 · 1288-1350頃
藤代 上作 · 刀剣大鑑 上位3%
現在1点販売中
元徳元年十二月、備中の直次は小振りの平造短刀に「備中州住左兵衛尉直次」[[c:1]]と銘し、裏に年紀を切った。本阿弥ならぬ鑑定の場で、NBTHKはこれを「同工の高い技術を明示した佳品」[[c:2]]と評する。直次は高梁川下流域に鍛えた備中青江派の刀工で、諸記録は同派を鎌倉中期頃までの古青江と、それ以降南北朝期にかけての青江とに大別する。銘鑑はその活躍期を嘉暦頃とし、左衛門尉・左兵衛尉を名乗り、吉次らと共に鎌倉末期から南北朝初期にかけて同派を代表する刀工の一人に数えられる。作風はこの期の青江派の刀工らしく、直刃を基調としたものが多い。
その見どころは、丁子の華やかさではなく締まった中直刃にある。匂口が締まって明るく冴え、小互の目・角がかった互の目を交え、いわゆる末青江の特色とされる逆足が刃区へ向けて入る。身幅の広い刀では中直刃に匂口締まり、逆足・小足・葉が入って匂口が冴え、帽子はつき上げごころに先尖って返る。北口家の刀について判者は「全てに同工、同派の特色が示されている」[[c:3]]と記す。
地鉄は備中の地が存分に出る。小板目に杢を交えて所謂縮緬肌となり、地斑が交じり、一派の証である澄肌が交じる。短刀では小板目がよくつんで地沸が微塵に厚くつき、淡く乱れ映りが立ち、無銘刀では板目が肌立って澄肌を交え、荒目の沸がつく。元徳の短刀は刃区を焼き込み、「焼刃の匂口がしまって明るく冴えわたっている」[[c:4]]点が特筆される。帽子は直ぐないし浅くのたれて小丸に、または先尖って返る。
遺例は体配により二つの作域に分かれる。在銘年紀の作が資料の中核で、左兵衛尉を冠した元徳元年の短刀は生ぶ茎に細鏨の長銘を切り、身幅広い刀は「備中国住人直次作」[[c:13]]と銘して、磨上げられても折返銘に長銘を残す。諸記録は「左兵衛尉を冠する銘文のものは稀有」[[c:5]]とし、それらに元徳・正慶・建武の年紀が遺ると記す。いま一つは極めの磨上太刀で、大磨上無銘または茎尻に国名の一部を残すのみ、尋常な中直刃に僅かに逆がかる小足を末青江の特色とよく読む。銘鑑は初二代を読み、二代を暦応〜延文とし、古い指定はこれに従うが、近年の説明は「鎌倉後期より南北朝初期にわたって活躍した」[[c:6]]一人の直次として記し、本稿も一項として扱う。
一派の中で同工を分かつものは、借りた比較ではなく自作の上に記される。諸記録は「直次をはじめとする鎌倉時代末期の青江派の特色がよくあらわれた」[[c:7]]一口を挙げ、また「鎌倉末期の直刃の青江物の典型」[[c:8]]とし、小丸の帽子と大筋違の鑢を同派の見どころとする。逆足を交えた穏やかな中直刃は、匂出来の直刃と逆丁子乱れを見せる同派の南北朝最盛期の直前に立ち、その標準作はまさに末青江の作風である。無銘の極めの刀について判者は「地がねはよく、出来もよい」[[c:9]]とし、太刀姿と作風から時代にも極めにも無理がないとする。新潟の短刀では「銘字も典型的で、大筋違の鑢目も掟通り」[[c:10]]と評される。
遺る記録はその殆どが指定の域にある。指定を受けた作は二十口で、重要文化財二口、重要美術品三口、特別重要刀剣五口、重要刀剣十口を数え、藤代は上作とする。「地刃が極めて健全」[[c:11]]な北口家の刀、「この頃の青江派の作風をよくあらわしたもので健全で出来が優れてい」[[c:12]]る特別重要の刀と、出来のよさが繰り返し記される。重要文化財二口は京都国立博物館などに蔵され、重要美術品には尾張徳川家・徳川家達の伝来が記録される。その外で収集家が現に接し得るのは特別重要・重要のいずれか、即ち鎌倉末期の青江の作風を余さず示す在銘年紀の短刀か、折返銘になお工名を残す磨上の刀である。世に出るのは時折にすぎず、生ぶ在銘の作は、諸記録自らが資料的価値の高いものとして扱う類のものである。
直次の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
備前伝 · 備中
現在21点販売中
青江派は備中国に興った刀工集団で、承安頃の安次を祖と伝え、高梁川下流域の子位荘・万寿荘を拠点に平安時代末期から南北朝時代後期に至るまで大いに繁栄した。十一世紀初頭の往来物『新猿楽記』が諸国の名産物として「備中ノ刀」を挙げていることは夙に知られ、その高い評価を受け継ぐ刀工群として歴史に名を刻む。鎌倉時代中期頃までのものを特に古青江と称し、それ以降南北朝期にかけてのものを青江と汎称して大別される。南北朝期には次直・次吉・守次・直次等の良工が輩出し、一派の技量は頂点に達した。 作風は時代によって明確な変遷を示す。古青江は小沸出来で匂口のやや沈んだ直刃仕立てに小乱れを交えたものが多く、鍛えには杢目が目立ってやや肌立ち、いわゆる縮緬肌状の肌合となり、地斑の交じるものが多い。同時代の備前物に比すると幾分地味で渋い味わいを醸す点に独自の風趣がある。鎌倉時代後期になると沸づきが穏やかとなり、さらに南北朝期に至ると匂口が締まり、明るく冴えた直刃、或いは延文頃に完成された特色ある逆丁子乱れの二様を見せるようになる。この期の他国の刀工が相州伝の影響を受けて沸出来をあらわしているのに対し、匂出来である点が興味深い。地鉄は小板目に小杢目を交えてよくつみ、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入り、地斑状の肌合や乱れ映りが立ち、刃寄りには二重三重の筋状の映りを形成していわゆる段映りの態を見せるなど、鍛えに独特の景色を呈する。刃文は直刃を基調に小互の目・小丁子・角がかった刃などが交じり、足・逆足・葉がよく入り、匂口が締まって明るく冴え、帽子は突き上げて尖りごころとなり、やや長く返るものが多い。 青江派は地刃共に明るく冴え渡る精美な出来口をもって知られ、指定品には「同派極めの中でも出色の出来映え」[[c:1]]「青江極めの白眉」と称される逸品が少なくない。縮緬肌に地斑と映りが交錯する鍛えの妙味、匂口の締まった冴えやかな直刃、そして逆がかった刃に飛焼が火焔の如く乱れる華やかな作域に至るまで、備中鍛冶の伝統を脈々と受け継ぐ一派の技と風格が遺憾なく示されている。 詳しく見る →
南北朝時代の備前
二つの朝廷が争った六十年、刀身は長大化し、長船がその需要に応えた。兼光と長義の工房は実際に戦う国人層の武士に仕え、軍勢とともに相州風が届いて相伝備前が生まれた。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,348口(約202口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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