元徳元年十二月、備中の直次は小振りの平造短刀に「備中州住左兵衛尉直次」と銘し、裏に年紀を切った。本阿弥ならぬ鑑定の場で、NBTHKはこれを「同工の高い技術を明示した佳品」と評する。直次は高梁川下流域に鍛えた備中青江派の刀工で、諸記録は同派を鎌倉中期頃までの古青江と、それ以降南北朝期にかけての青江とに大別する。銘鑑はその活躍期を嘉暦頃とし、左衛門尉・左兵衛尉を名乗り、吉次らと共に鎌倉末期から南北朝初期にかけて同派を代表する刀工の一人に数えられる。作風はこの期の青江派の刀工らしく、直刃を基調としたものが多い。
その見どころは、丁子の華やかさではなく締まった中直刃にある。匂口が締まって明るく冴え、小互の目・角がかった互の目を交え、いわゆる末青江の特色とされる逆足が刃区へ向けて入る。身幅の広い刀では中直刃に匂口締まり、逆足・小足・葉が入って匂口が冴え、帽子はつき上げごころに先尖って返る。北口家の刀について判者は「全てに同工、同派の特色が示されている」と記す。
地鉄は備中の地が存分に出る。小板目に杢を交えて所謂縮緬肌となり、地斑が交じり、一派の証である澄肌が交じる。短刀では小板目がよくつんで地沸が微塵に厚くつき、淡く乱れ映りが立ち、無銘刀では板目が肌立って澄肌を交え、荒目の沸がつく。元徳の短刀は刃区を焼き込み、「焼刃の匂口がしまって明るく冴えわたっている」点が特筆される。帽子は直ぐないし浅くのたれて小丸に、または先尖って返る。
遺例は体配により二つの作域に分かれる。在銘年紀の作が資料の中核で、左兵衛尉を冠した元徳元年の短刀は生ぶ茎に細鏨の長銘を切り、身幅広い刀は「備中国住人直次作」と銘して、磨上げられても折返銘に長銘を残す。諸記録は「左兵衛尉を冠する銘文のものは稀有」とし、それらに元徳・正慶・建武の年紀が遺ると記す。いま一つは極めの磨上太刀で、大磨上無銘または茎尻に国名の一部を残すのみ、尋常な中直刃に僅かに逆がかる小足を末青江の特色とよく読む。銘鑑は初二代を読み、二代を暦応〜延文とするが、判者はその説を引きつつ遺品の分割を強いない。
一派の中で同工を分かつものは、借りた比較ではなく自作の上に記される。諸記録は「直次をはじめとする鎌倉時代末期の青江派の特色がよくあらわれた」一口を挙げ、また「鎌倉末期の直刃の青江物の典型」とし、小丸の帽子と大筋違の鑢を同派の見どころとする。逆足を交えた穏やかな中直刃は、匂出来の直刃と逆丁子乱れを見せる同派の南北朝最盛期の直前に立ち、その標準作はまさに末青江の作風である。無銘の極めの刀について判者は「地がねはよく、出来もよい」とし、太刀姿と作風から時代にも極めにも無理がないとする。新潟の短刀では「銘字も典型的で、大筋違の鑢目も掟通り」と評される。
遺る記録は小さく、その殆どが指定の域にある。指定を受けた作は五口で、内二口が特別重要、三口が重要、藤代は上作とする。「地刃が極めて健全」な北口家の刀、「この頃の青江派の作風をよくあらわしたもので健全で出来が優れてい」る特別重要の刀と、出来のよさが繰り返し記される。国宝・重要文化財はなく、大名家の伝来も記録されないが、収集家が現に接し得るのは特別重要・重要のいずれか、即ち鎌倉末期の青江の作風を余さず示す在銘年紀の短刀か、折返銘になお工名を残す磨上の刀である。世に出るのは時折にすぎず、生ぶ在銘の作は、諸記録自らが資料的価値の高いものとして扱う類のものである。