日本刀 伝備州長船兼光 NTHK(日本刀剣保存会)優秀作鑑定書付 【解説】 概要 本作は、鎌倉時代末期の元弘年間(1331-1334年)に活躍した長船派の巨匠、伝備州長船兼光(でんびしゅうおさふねかねみつ)と極められた一振りです。 兼光(活動時期:1328-1360年頃)は景光の子であり、鎌倉末期の初期作においては父の作風を色濃く受け継いでいます。その刃文は、緻密で整った直刃調や、丁子乱れ(ちょうじば)を焼くのが特徴です。 南北朝時代に入るとその作風は変遷し、当時一世を風靡した正宗(相州伝)の影響を受け、よりダイナミックなものへと変化します。後期の作には、沸出来(にえでき)の「のたれ乱れ」が見られ、明るく冴えた結晶が刃縁に現れます。そのため、彼の後期作品は相模国(現在の神奈川県)を拠点とした相州伝との関連が極めて強いとされています。 また、「兼光」が誰を指すかについては諸説あります。一説には、初代である「大兼光」と、後の「延文兼光」の二代に分かれるとする説がありますが、江戸時代には一人説が一般的であり、今日でも多くの学者が一人説を支持しているため、未だ定説はありません。 備前長船派の歴史 長船派は鎌倉時代中期の光忠(みつただ)を始祖とします。備前長船派は備前国において最大の流派であり、時の権力者や名だたる武将から数多くの注文を受けました。彼らの作は「長船物」と呼ばれ、武士たちに深く愛用されました。 同派の中でも、長光、真長、景光は「長船三作」として知られています。また、長光、兼光、長義、元重の四名は「長船四天王」と称される名工です。 備前国は中国山地に近く、刀剣制作に不可欠な原料である砂鉄が豊富でした。さらに、吉井川の流域に位置していたため、水や炭の確保にも恵まれていました。この地質学的利点が、高品質な刀剣の量産を可能にしたと考えられます。備前における作刀の歴史は古く、平安時代末期(12世紀後半)にはその基礎が築かれていました。これら初期の刀工は「古備前」と呼ばれ、その伝統を継承した長船派は鎌倉中期以降、大いに繁栄しました。 彫物 本作には「梵字(ぼんじ)」が彫り込まれています。梵字はサンスクリット語の音節で、仏教の神仏を象徴し、加護を祈る神聖な記号として用いられました。 なかでも「カーン」は、武士の間で最も崇敬された守護神の一人である不動明王を象徴しています。また「カンマーン」は、不動明王の真言を凝縮した聖なる文字です。戦国時代の武士たちは、戦場における信仰心と精神的な強さの象徴として、これらの宗教的な意匠を甲冑や兜、そして刀剣に刻みました。 太刀拵 本刀は太刀(たち)拵に収められています。太刀は平安時代から室町時代初期にかけて、主に甲冑を着用した武士が騎馬戦にて片手で扱うために用いられました。 太刀は刃を下に向けて腰から吊るす「佩(は)く」形式をとっており、地上にいる敵を馬上から素早く斬り下ろすのに適した構造となっています。その華やかな外装から、太刀様式の刀剣を所有することは、武士にとって権威と地位の象徴でもありました。


























Osafune (Bizen) · 備前 · 1323-1370頃
藤代 最上作
現在3点販売中
説明書は兼光の項を常に一つの定文で起こす。すなわち「景光に続く長船派の嫡流である」[[c:1]]と。光忠・長光・景光と続く長船嫡流の四代、景光の子であり、南北朝期の備前を代表する刀工である。現存する年紀作は鎌倉時代末期の元亨元年(一三二一)から南北朝期の貞治に及ぶ約四十五年の長きに亘り、応安に及ぶとして約五十年と数える記載もある。あまりに長いこの作刀期間から、初代・二代の存在を考える説が古くから提起され、その分岐点には定説がない。後代の作者は世に「延文兼光」と称される。
作風は貞和・観応(一三四五〜五二)を境に二分される。康永頃までの作品は太刀・短刀共に姿が尋常で、直刃調に互の目を交えるか、父より継いだ片落ち互の目を焼き、指定書の繰り返す評語のとおり「総じて父景光風を踏襲した感」[[c:3]]のものである。貞和・観応頃から姿が大柄となり、以後はほとんどの指定書が同じ一文を繰り返す。「それまでになかったのたれ主調の刃文が出現し、文和・延文頃にこれが多く見られる」[[c:4]]と。大どかなのたれと角互の目は共に「兼光の得意とするところ」[[c:5]]とされ、ある特別重要刀剣の説明は角互の目を主体とした焼刃を「兼光が終始得意とした構成」[[c:6]]と記す。前代までの丸く返る帽子に対し、本工の帽子は乱れ込み、しばしば突き上げて先が尖る。
大柄の作においても鍛えは崩れない。地鉄は板目に杢を交え、元から先まで肌のゆるみや荒れを見せず、地沸が微塵に厚くつき、細かな地景が入り、乱れ映りが鮮明に立って鉄が冴える。初期の生ぶ在銘作では、よくつんだ小板目に直ぐ映りや棒映りが立つ。刃文は総じて匂勝ちに小沸がつき、腰元に金筋・砂流しがかかり、処々に小さな飛焼や湯走り風の働きを交え、足・葉がよく入る。彫物もまた本工の見どころで、梵字・護摩箸・素剣に加え、とりわけ「草の倶利伽羅」は兼光と倫光の作にまま見られる独特の構図と記される。
後期作の現存の多くは大磨上無銘の刀である。身幅広く元先の幅差が目立たず、大鋒に結ぶ延文・貞治型の体配がそれで、傍らに身幅広く重ね薄い寸延び平造の短刀・小脇指が立ち、さらに指表に銘を切り当初から打刀として造られた平造長寸の作があって、上杉家伝来の「水神切」がその記録に残る例である。大磨上の多い作域としては在銘が存外に多く、ここに集う指定作では在銘百十口に対し無銘九十八口、長銘は「備前国長船住兼光」[[c:9]]「備州長船住兼光」と切り、年紀を添えるものが多い。後期の強い沸について説明書は留保を付して「相州伝の影響を受けてか」[[c:11]]と記し、「沸も強調していることから、世に相伝備前と称されている」[[c:12]]と続ける。古い指定書はさらに一歩を、ただし問いとしてのみ進める。のたれへの転換に「相州正宗との関係と、初・二代の交替が考えられる」[[c:13]]と。正宗門人の伝は課題として開かれたまま、事実としては断じられていない。大磨上無銘の多くには本阿弥光徳・光遜らの金象嵌極めが付され、審査はその多くを首肯している。
備前のうちでの位置は、継いだものと開いたものとで定まる。片落ち互の目は長船嫡流中、景光から兼光へとのみ受け継がれた軸であり、のたれは本工自身の加えたもの、備前鍛冶として本工が切り開いた大どかな乱れである。その盛期の作風は門下・周辺を通じて長船後期に伝わり、説明書は関連作を兼光周辺の作刀と読み、本工の好んだ草の倶利迦羅は倫光に再び現れる。
藤代の格付は最上作。指定を受けた作は二百三十七口に上る。国宝はないが重要文化財は十三口を数え、名のある作はそこに集まる。説明書に「名物大兼光や上杉景勝御手選び三十五腰の太刀」[[c:14]]と挙げられる二口(共に重要文化財)、そして金象嵌に羽柴岡山中納言秀詮すなわち小早川秀秋の所持を伝える名物「波游兼光」である。特別重要刀剣は四十口で刀工中最多、重要刀剣を合わせれば二百二口に達する。伝来も深く、六十九口に来歴が録され、足利尊氏・上杉謙信・上杉景勝・豊臣秀吉・藤堂高虎、黒田家・伊達家・細川家・前田家・尾張徳川家の名が連なる。杉原伯耆守重長の遺物として徳川家光に納められた一口、長州藩永代家老の益田家に伝来した一口もある。重要文化財・重要美術品の諸作は神社・美術館・旧家に文化財として収まり、徳川美術館・佐野美術館・永青文庫が記録上の所蔵者に見える。蒐集家にとってこの工は、同位の名工に比べれば全く手の届かぬ存在ではなく、特別重要・重要の諸作は時に市場に現れる。しかしその多くは秘蔵されて動かず、在銘年紀の一口が現れることは稀であって、現れれば刮目すべき機会となる。
兼光の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
備前伝 · 備前
現在232点販売中
備前国邑久郡長船の地に興り、鎌倉時代中期から室町時代末期に至るまで連綿と鍛刀を続けた、刀剣史上最大の流派である。事実上の祖は光忠で、近忠の子と伝えるが近忠の作刀が知られないため、長船本流の起点はこの工に置かれる。古伝はその源を古備前正恒の一類が長船に移り住んだことに求め、光忠はその流れを承けて一門を興したと説く。すなわち本流派は、古備前の地盤の上に、丁子を主調とする華麗な作風をもって自立した備前鍛冶の本系である。光忠の下に長光、真長、景光らが輩出し、以後、相伝備前の兼光・長義・元重、室町初期の応永備前を経て末備前に至るまで、備前伝の中核を担い続けた。 作風は備前伝を基盤とし、よく錬れて杢を交えた板目に地沸が微塵につき、地景が細かに入り、地に乱れ映りが鮮明に立つ鍛えを共通の地とする。この乱れ映りこそ、在銘無銘を問わず一門の作を備前へ繋ぎ止める最も確かな標である。刃文には世代ごとの軸がある。草創の古長船にあって光忠は蛙子丁子を看どころとし、子の長光は頭の丸いふくらみのある丁子を加え、孫の景光は片落ち互の目を完成して逆がかりの足を看どころとした。この光忠、長光、景光の三代が長船嫡流の背骨をなし、近景がその影として景光をほぼ完璧に映し、真長は同じ地に締まる匂口の直刃を得意とした。南北朝期に入ると兼光が嫡流を承けつつのたれ主調の大模様を加え、相州伝を摂取した相伝備前の作風が現れる。長義は耳形の刃を看どころに兼光以上に相州伝を強調し、長重と兼長がこれに連なり、義景は匂口の沈むところに、元重は焼頭の揃った角ばる刃と青江気質に、それぞれ別系の個性を示した。体配もまた時代を映し、鎌倉の腰反り高い太刀から、南北朝の身幅広く大鋒の延文貞治型へ、さらに応永備前では古作への復古を志して優美な太刀姿と丁子刃が甦る。康光と盛光を双璧とする応永備前は、腰の広く開いた互の目とローソクの芯と称する尖り返る帽子を看どころとし、その腰開き互の目と棒映りは末備前へと受け継がれた。長光景光以来の梵字、三鈷剣、倶利迦羅、八幡大菩薩などの刀身彫もまた、末備前まで絶えず継承された一門の標である。 鑑定にあっては、まず鮮明な乱れ映りで一門を備前と読み、次に世代と系統の看どころで工を分かつ。蛙子丁子は光忠、丸い頭の丁子は長光、逆がかる片落ち互の目は景光、のたれと角互の目は兼光、耳形の刃は長義、角ばり逆がかる刃と蝉の羽根の肌は元重、ローソクの芯の帽子は応永備前という具合に、看どころが系統と時代を指し示す。嫡流の光忠、長光、景光、兼光は藤代の最上作に列し、なかでも長光は重要文化財の指定数が全刀工中最多で、嫡流の作には名物大般若長光や小龍景光をはじめ、織田信長、徳川家康、上杉謙信ら天下を握った者の手を経た作が多い。相伝備前の長義や兼長、応永備前の康光や盛光もそれぞれ重きをなし、別系の元重もまた南北朝備前の大きな名を保つ。嫡流の在銘作が市に現れることは稀で、大半は大磨上無銘の極めとして伝わるが、長光のごとく銘を惜しまなかった工の作はなお蒐集家の手の届く範囲にある。後世への影響は計り知れず、本流派の作風と刀身彫の伝統は末備前を通じて室町備前の主流をなし、備前伝そのものの規範となった。
NTHKの最高位で、年に一度の審査において、出来・保存状態・資料的価値の傑出した作に与えられます。通常の鑑定書より上位の評価です。
NTHK(日本刀剣保存会)は、NBTHK(1948年設立)に先立つ1910年に創立された、日本で最も古い刀剣鑑定団体です。長く会を率いた会長の没後、NTHKとNTHK-NPOの二つに分かれ、いずれも審査を続けています。NTHKの鑑定書は、点数と審査員の所見を併記する詳細な審査表が特徴で、特に無銘作の極めに定評があります。
Returns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.
日本刀 伝備州長船兼光 NTHK(日本刀剣保存会)優秀作鑑定書付 【解説】 概要 本作は、鎌倉時代末期の元弘年間(1331-1334年)に活躍した長船派の巨匠、伝備州長船兼光(でんびしゅうおさふねかねみつ)と極められた一振りです。 兼光(活動時期:1328-1360年頃)は景光の子であり、鎌倉末期の初期作においては父の作風を色濃く受け継いでいます。その刃文は、緻密で整った直刃調や、丁子乱れ(ちょうじば)を焼くのが特徴です。 南北朝時代に入るとその作風は変遷し、当時一世を風靡した正宗(相州伝)の影響を受け、よりダイナミックなものへと変化します。後期の作には、沸出来(にえでき)の「のたれ乱れ」が見られ、明るく冴えた結晶が刃縁に現れます。そのため、彼の後期作品は相模国(現在の神奈川県)を拠点とした相州伝との関連が極めて強いとされています。 また、「兼光」が誰を指すかについては諸説あります。一説には、初代である「大兼光」と、後の「延文兼光」の二代に分かれるとする説がありますが、江戸時代には一人説が一般的であり、今日でも多くの学者が一人説を支持しているため、未だ定説はありません。 備前長船派の歴史 長船派は鎌倉時代中期の光忠(みつただ)を始祖とします。備前長船派は備前国において最大の流派であり、時の権力者や名だたる武将から数多くの注文を受けました。彼らの作は「長船物」と呼ばれ、武士たちに深く愛用されました。 同派の中でも、長光、真長、景光は「長船三作」として知られています。また、長光、兼光、長義、元重の四名は「長船四天王」と称される名工です。 備前国は中国山地に近く、刀剣制作に不可欠な原料である砂鉄が豊富でした。さらに、吉井川の流域に位置していたため、水や炭の確保にも恵まれていました。この地質学的利点が、高品質な刀剣の量産を可能にしたと考えられます。備前における作刀の歴史は古く、平安時代末期(12世紀後半)にはその基礎が築かれていました。これら初期の刀工は「古備前」と呼ばれ、その伝統を継承した長船派は鎌倉中期以降、大いに繁栄しました。 彫物 本作には「梵字(ぼんじ)」が彫り込まれています。梵字はサンスクリット語の音節で、仏教の神仏を象徴し、加護を祈る神聖な記号として用いられました。 なかでも「カーン」は、武士の間で最も崇敬された守護神の一人である不動明王を象徴しています。また「カンマーン」は、不動明王の真言を凝縮した聖なる文字です。戦国時代の武士たちは、戦場における信仰心と精神的な強さの象徴として、これらの宗教的な意匠を甲冑や兜、そして刀剣に刻みました。 太刀拵 本刀は太刀(たち)拵に収められています。太刀は平安時代から室町時代初期にかけて、主に甲冑を着用した武士が騎馬戦にて片手で扱うために用いられました。 太刀は刃を下に向けて腰から吊るす「佩(は)く」形式をとっており、地上にいる敵を馬上から素早く斬り下ろすのに適した構造となっています。その華やかな外装から、太刀様式の刀剣を所有することは、武士にとって権威と地位の象徴でもありました。


























Osafune (Bizen) · 備前 · 1323-1370頃
藤代 最上作
現在3点販売中
説明書は兼光の項を常に一つの定文で起こす。すなわち「景光に続く長船派の嫡流である」[[c:1]]と。光忠・長光・景光と続く長船嫡流の四代、景光の子であり、南北朝期の備前を代表する刀工である。現存する年紀作は鎌倉時代末期の元亨元年(一三二一)から南北朝期の貞治に及ぶ約四十五年の長きに亘り、応安に及ぶとして約五十年と数える記載もある。あまりに長いこの作刀期間から、初代・二代の存在を考える説が古くから提起され、その分岐点には定説がない。後代の作者は世に「延文兼光」と称される。
作風は貞和・観応(一三四五〜五二)を境に二分される。康永頃までの作品は太刀・短刀共に姿が尋常で、直刃調に互の目を交えるか、父より継いだ片落ち互の目を焼き、指定書の繰り返す評語のとおり「総じて父景光風を踏襲した感」[[c:3]]のものである。貞和・観応頃から姿が大柄となり、以後はほとんどの指定書が同じ一文を繰り返す。「それまでになかったのたれ主調の刃文が出現し、文和・延文頃にこれが多く見られる」[[c:4]]と。大どかなのたれと角互の目は共に「兼光の得意とするところ」[[c:5]]とされ、ある特別重要刀剣の説明は角互の目を主体とした焼刃を「兼光が終始得意とした構成」[[c:6]]と記す。前代までの丸く返る帽子に対し、本工の帽子は乱れ込み、しばしば突き上げて先が尖る。
大柄の作においても鍛えは崩れない。地鉄は板目に杢を交え、元から先まで肌のゆるみや荒れを見せず、地沸が微塵に厚くつき、細かな地景が入り、乱れ映りが鮮明に立って鉄が冴える。初期の生ぶ在銘作では、よくつんだ小板目に直ぐ映りや棒映りが立つ。刃文は総じて匂勝ちに小沸がつき、腰元に金筋・砂流しがかかり、処々に小さな飛焼や湯走り風の働きを交え、足・葉がよく入る。彫物もまた本工の見どころで、梵字・護摩箸・素剣に加え、とりわけ「草の倶利伽羅」は兼光と倫光の作にまま見られる独特の構図と記される。
後期作の現存の多くは大磨上無銘の刀である。身幅広く元先の幅差が目立たず、大鋒に結ぶ延文・貞治型の体配がそれで、傍らに身幅広く重ね薄い寸延び平造の短刀・小脇指が立ち、さらに指表に銘を切り当初から打刀として造られた平造長寸の作があって、上杉家伝来の「水神切」がその記録に残る例である。大磨上の多い作域としては在銘が存外に多く、ここに集う指定作では在銘百十口に対し無銘九十八口、長銘は「備前国長船住兼光」[[c:9]]「備州長船住兼光」と切り、年紀を添えるものが多い。後期の強い沸について説明書は留保を付して「相州伝の影響を受けてか」[[c:11]]と記し、「沸も強調していることから、世に相伝備前と称されている」[[c:12]]と続ける。古い指定書はさらに一歩を、ただし問いとしてのみ進める。のたれへの転換に「相州正宗との関係と、初・二代の交替が考えられる」[[c:13]]と。正宗門人の伝は課題として開かれたまま、事実としては断じられていない。大磨上無銘の多くには本阿弥光徳・光遜らの金象嵌極めが付され、審査はその多くを首肯している。
備前のうちでの位置は、継いだものと開いたものとで定まる。片落ち互の目は長船嫡流中、景光から兼光へとのみ受け継がれた軸であり、のたれは本工自身の加えたもの、備前鍛冶として本工が切り開いた大どかな乱れである。その盛期の作風は門下・周辺を通じて長船後期に伝わり、説明書は関連作を兼光周辺の作刀と読み、本工の好んだ草の倶利迦羅は倫光に再び現れる。
藤代の格付は最上作。指定を受けた作は二百三十七口に上る。国宝はないが重要文化財は十三口を数え、名のある作はそこに集まる。説明書に「名物大兼光や上杉景勝御手選び三十五腰の太刀」[[c:14]]と挙げられる二口(共に重要文化財)、そして金象嵌に羽柴岡山中納言秀詮すなわち小早川秀秋の所持を伝える名物「波游兼光」である。特別重要刀剣は四十口で刀工中最多、重要刀剣を合わせれば二百二口に達する。伝来も深く、六十九口に来歴が録され、足利尊氏・上杉謙信・上杉景勝・豊臣秀吉・藤堂高虎、黒田家・伊達家・細川家・前田家・尾張徳川家の名が連なる。杉原伯耆守重長の遺物として徳川家光に納められた一口、長州藩永代家老の益田家に伝来した一口もある。重要文化財・重要美術品の諸作は神社・美術館・旧家に文化財として収まり、徳川美術館・佐野美術館・永青文庫が記録上の所蔵者に見える。蒐集家にとってこの工は、同位の名工に比べれば全く手の届かぬ存在ではなく、特別重要・重要の諸作は時に市場に現れる。しかしその多くは秘蔵されて動かず、在銘年紀の一口が現れることは稀であって、現れれば刮目すべき機会となる。
兼光の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
備前伝 · 備前
現在232点販売中
備前国邑久郡長船の地に興り、鎌倉時代中期から室町時代末期に至るまで連綿と鍛刀を続けた、刀剣史上最大の流派である。事実上の祖は光忠で、近忠の子と伝えるが近忠の作刀が知られないため、長船本流の起点はこの工に置かれる。古伝はその源を古備前正恒の一類が長船に移り住んだことに求め、光忠はその流れを承けて一門を興したと説く。すなわち本流派は、古備前の地盤の上に、丁子を主調とする華麗な作風をもって自立した備前鍛冶の本系である。光忠の下に長光、真長、景光らが輩出し、以後、相伝備前の兼光・長義・元重、室町初期の応永備前を経て末備前に至るまで、備前伝の中核を担い続けた。 作風は備前伝を基盤とし、よく錬れて杢を交えた板目に地沸が微塵につき、地景が細かに入り、地に乱れ映りが鮮明に立つ鍛えを共通の地とする。この乱れ映りこそ、在銘無銘を問わず一門の作を備前へ繋ぎ止める最も確かな標である。刃文には世代ごとの軸がある。草創の古長船にあって光忠は蛙子丁子を看どころとし、子の長光は頭の丸いふくらみのある丁子を加え、孫の景光は片落ち互の目を完成して逆がかりの足を看どころとした。この光忠、長光、景光の三代が長船嫡流の背骨をなし、近景がその影として景光をほぼ完璧に映し、真長は同じ地に締まる匂口の直刃を得意とした。南北朝期に入ると兼光が嫡流を承けつつのたれ主調の大模様を加え、相州伝を摂取した相伝備前の作風が現れる。長義は耳形の刃を看どころに兼光以上に相州伝を強調し、長重と兼長がこれに連なり、義景は匂口の沈むところに、元重は焼頭の揃った角ばる刃と青江気質に、それぞれ別系の個性を示した。体配もまた時代を映し、鎌倉の腰反り高い太刀から、南北朝の身幅広く大鋒の延文貞治型へ、さらに応永備前では古作への復古を志して優美な太刀姿と丁子刃が甦る。康光と盛光を双璧とする応永備前は、腰の広く開いた互の目とローソクの芯と称する尖り返る帽子を看どころとし、その腰開き互の目と棒映りは末備前へと受け継がれた。長光景光以来の梵字、三鈷剣、倶利迦羅、八幡大菩薩などの刀身彫もまた、末備前まで絶えず継承された一門の標である。 鑑定にあっては、まず鮮明な乱れ映りで一門を備前と読み、次に世代と系統の看どころで工を分かつ。蛙子丁子は光忠、丸い頭の丁子は長光、逆がかる片落ち互の目は景光、のたれと角互の目は兼光、耳形の刃は長義、角ばり逆がかる刃と蝉の羽根の肌は元重、ローソクの芯の帽子は応永備前という具合に、看どころが系統と時代を指し示す。嫡流の光忠、長光、景光、兼光は藤代の最上作に列し、なかでも長光は重要文化財の指定数が全刀工中最多で、嫡流の作には名物大般若長光や小龍景光をはじめ、織田信長、徳川家康、上杉謙信ら天下を握った者の手を経た作が多い。相伝備前の長義や兼長、応永備前の康光や盛光もそれぞれ重きをなし、別系の元重もまた南北朝備前の大きな名を保つ。嫡流の在銘作が市に現れることは稀で、大半は大磨上無銘の極めとして伝わるが、長光のごとく銘を惜しまなかった工の作はなお蒐集家の手の届く範囲にある。後世への影響は計り知れず、本流派の作風と刀身彫の伝統は末備前を通じて室町備前の主流をなし、備前伝そのものの規範となった。
NTHKの最高位で、年に一度の審査において、出来・保存状態・資料的価値の傑出した作に与えられます。通常の鑑定書より上位の評価です。
NTHK(日本刀剣保存会)は、NBTHK(1948年設立)に先立つ1910年に創立された、日本で最も古い刀剣鑑定団体です。長く会を率いた会長の没後、NTHKとNTHK-NPOの二つに分かれ、いずれも審査を続けています。NTHKの鑑定書は、点数と審査員の所見を併記する詳細な審査表が特徴で、特に無銘作の極めに定評があります。
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