【銘】 広正(日本美術刀剣保存協会 刀剣保存鑑定書 附) 【解説】 本作は室町時代後期、相模国(現在の神奈川県)にて活躍した広正による短刀です。広正の名は数代にわたって継承されており、本作はその末葉の作と推測されます。 初代広正は名工・正宗の門人と伝えられ、相州伝の奥義を継承しました。延文から貞治年間(1356〜1361年頃)にかけて相模国で打たれた初代の作品は、現存するものが極めて稀なことで知られています。 その後、文明年間(1469年頃)に至り、名を継いだ広正は相模から上野国(現在の群馬県)へと移り、在地領主である小幡家に仕えました。広正の作風は精緻な彫物に定評があり、不動明王や倶利伽羅龍(剣に龍が巻き付く意匠)などの見事な彫口は、当時から高い人気を博していました。 【相州伝について】 広正がその技を極めた「相州伝」は、鎌倉時代中期に誕生した作刀伝統です。当時、大和伝や山城伝はすでに高い完成度を誇り、多くの名工を輩出していましたが、相模国を含む関東の地では、作刀技術は未だ発展の途上にありました。 1185年に成立した鎌倉幕府において、初代将軍・源頼朝は政治的安定のための法整備を最優先としたため、お抱えの刀工を育成する余裕がなく、当初は武器の調達を大和や山城といった他国の刀工に依存していました。 しかし、幕府の基盤が固まるにつれ、鎌倉武士たちからの武器需要は爆発的に増加します。これに応えるべく、五代執権・北条時頼は、山城国から粟田口国綱、備前国から備前三郎国宗という二人の名工を招聘しました。さらに七代将軍・惟康親王も備前より福岡一文字助真を招き入れます。 これら名工たちの交流が相州伝の礎を築きました。その後、粟田口国綱の養子とされる新藤五国光が登場し、その技は行光へと引き継がれます。そして行光の門人であり、日本刀史上最も著名な刀工の一人である正宗によって、相州伝は完成の域に達し、その名は天下に轟くこととなりました。正宗が確立した様式は、後世の刀工たちの模範となり、古刀期から新刀期に至るまで、大坂の井上真改や江戸の水心子正秀など、多くの名工に多大な影響を与え続けました。 【時代背景】 本作が制作された室町時代後期は、いわゆる「戦国時代」にあたります。絶え間ない軍事衝突と政治的不安が続く中、武士にとって高品質な武器、とりわけ日本刀の需要はかつてないほど高まりました。 刀剣は武士の地位や権威の象徴であると同時に、戦場における生死を分かつ実戦具でもありました。刀は「武士の魂」の延長として扱われ、実戦のみならず儀礼においても重要な役割を果たしました。各地の戦国大名が自軍の武力を強化しようと努めた結果、名工の手による優れた刀剣の需要は一層の広がりを見せたのです。 この時代の刀剣製作は、単なる兵器としての供給に留まらず、武士の精神性を体現する美術品としての側面も色濃く反映されています。





























相州伝 · 相模 · 1469-1487頃
刀剣大鑑 上位37%
現在2点販売中
廣正の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
相州伝 · 相模
時期区分: 末相州· 1356–1868
現在15点販売中
末相州は、南北朝の広光・秋広の代を承け、室町期に入って相模で営まれた相州伝の継続である。現存遺品に即せば、室町中期を遡るものはなく、室町後期から戦国期にかけてが本区分の中心をなす。その軸となる工が綱広で、銘鑑には初代を建武とする伝もあるが、確かな在銘は天文年紀のものが最も古く、通説はこれを初代として、二代を天正、三代を慶長、四代を寛永、五代を万治頃と伝える。綱広は広正の子孫で、初め名跡を継いだが、後北条家の氏綱に召されて小田原に居を移し、綱の一字を賜って改銘したと伝え、その名跡は新々刀期にまで連なった。鎌倉にはこの綱広らが住し、これと別に小田原には康春・康国・総宗・景総らが在住して、これらを小田原相州と称する。広次もまた相州鎌倉に住して明応・天文の頃に活躍し、室町後期を代表する相州鍛冶の一人に数えられる。後北条氏の庇護のもと、正宗・貞宗を生んだ南北朝の盛時を遠く望みつつ、皆焼の系譜を保持して相州伝を伝えたのが、この区分の刀工たちであった。 作風の核は、広光・秋広が完成させた皆焼を継ぐ点にある。鍛えは板目に杢や流れ肌を交えてやや肌立ち、地沸がつき、地景が入る。刃文はのたれ・互の目に丁子・矢筈風の刃・尖り刃などを交え、飛焼・棟焼を盛んに交えて皆焼となり、沸がよくつき、金筋・砂流しがかかる。綱広は玉状ないし三日月状の飛焼を見せる皆焼を得意とし、広次に至っては焼高く、沸の強い迫力ある皆焼を焼いて、一見すると南北朝の長谷部派を思わせるほどに到る。古典相州の頂点と分かつのは、この皆焼の扱いに見える。正宗・貞宗の代では、のたれ基調の地刃に沸が深く澄んで明るく冴え、地にこぼれた沸が湯走りをなして自在に働いたのに対し、末相州の皆焼は飛焼・棟焼を全面に散らす構成そのものを看どころとして前に押し出す傾きを帯び、地鉄もやや肌立って、鎌倉期の鉄の冴えからは一段隔たる。小田原相州はこの大筋において綱広らと大差ないが、小振りの刀姿があること、濃厚緻密な彫刻を多く備えることに特色があり、殊に総宗の倶利迦羅や八幡大菩薩・梵字の彫は巧緻と評される。 鑑定にあっては、まずやや肌立つ板目に地沸・地景が働き、飛焼・棟焼を交えた皆焼に金筋・砂流しがかかる地刃を相州の継続と読み、次に古典との隔たりを沸の深さと鉄の冴えの差、そして皆焼を誇示的に焼き出す傾きに求めて末相州と分かつ。区分内では、綱広を皆焼と玉状の飛焼に、広次を長谷部風を思わせる強い沸の皆焼に、総宗ら小田原相州を小振りの姿と緻密な彫刻に見分ける。主要工は綱広・広次・総宗で、康春・康国・景総がこれに連なる。伝来の面では、綱広に後北条家の重臣桜井大学の所持銘を有する一口があり、本区分が後北条氏の小田原を地盤として営まれた事実を裏づけている。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.
【銘】 広正(日本美術刀剣保存協会 刀剣保存鑑定書 附) 【解説】 本作は室町時代後期、相模国(現在の神奈川県)にて活躍した広正による短刀です。広正の名は数代にわたって継承されており、本作はその末葉の作と推測されます。 初代広正は名工・正宗の門人と伝えられ、相州伝の奥義を継承しました。延文から貞治年間(1356〜1361年頃)にかけて相模国で打たれた初代の作品は、現存するものが極めて稀なことで知られています。 その後、文明年間(1469年頃)に至り、名を継いだ広正は相模から上野国(現在の群馬県)へと移り、在地領主である小幡家に仕えました。広正の作風は精緻な彫物に定評があり、不動明王や倶利伽羅龍(剣に龍が巻き付く意匠)などの見事な彫口は、当時から高い人気を博していました。 【相州伝について】 広正がその技を極めた「相州伝」は、鎌倉時代中期に誕生した作刀伝統です。当時、大和伝や山城伝はすでに高い完成度を誇り、多くの名工を輩出していましたが、相模国を含む関東の地では、作刀技術は未だ発展の途上にありました。 1185年に成立した鎌倉幕府において、初代将軍・源頼朝は政治的安定のための法整備を最優先としたため、お抱えの刀工を育成する余裕がなく、当初は武器の調達を大和や山城といった他国の刀工に依存していました。 しかし、幕府の基盤が固まるにつれ、鎌倉武士たちからの武器需要は爆発的に増加します。これに応えるべく、五代執権・北条時頼は、山城国から粟田口国綱、備前国から備前三郎国宗という二人の名工を招聘しました。さらに七代将軍・惟康親王も備前より福岡一文字助真を招き入れます。 これら名工たちの交流が相州伝の礎を築きました。その後、粟田口国綱の養子とされる新藤五国光が登場し、その技は行光へと引き継がれます。そして行光の門人であり、日本刀史上最も著名な刀工の一人である正宗によって、相州伝は完成の域に達し、その名は天下に轟くこととなりました。正宗が確立した様式は、後世の刀工たちの模範となり、古刀期から新刀期に至るまで、大坂の井上真改や江戸の水心子正秀など、多くの名工に多大な影響を与え続けました。 【時代背景】 本作が制作された室町時代後期は、いわゆる「戦国時代」にあたります。絶え間ない軍事衝突と政治的不安が続く中、武士にとって高品質な武器、とりわけ日本刀の需要はかつてないほど高まりました。 刀剣は武士の地位や権威の象徴であると同時に、戦場における生死を分かつ実戦具でもありました。刀は「武士の魂」の延長として扱われ、実戦のみならず儀礼においても重要な役割を果たしました。各地の戦国大名が自軍の武力を強化しようと努めた結果、名工の手による優れた刀剣の需要は一層の広がりを見せたのです。 この時代の刀剣製作は、単なる兵器としての供給に留まらず、武士の精神性を体現する美術品としての側面も色濃く反映されています。





























相州伝 · 相模 · 1469-1487頃
刀剣大鑑 上位37%
現在2点販売中
廣正の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
相州伝 · 相模
時期区分: 末相州· 1356–1868
現在15点販売中
末相州は、南北朝の広光・秋広の代を承け、室町期に入って相模で営まれた相州伝の継続である。現存遺品に即せば、室町中期を遡るものはなく、室町後期から戦国期にかけてが本区分の中心をなす。その軸となる工が綱広で、銘鑑には初代を建武とする伝もあるが、確かな在銘は天文年紀のものが最も古く、通説はこれを初代として、二代を天正、三代を慶長、四代を寛永、五代を万治頃と伝える。綱広は広正の子孫で、初め名跡を継いだが、後北条家の氏綱に召されて小田原に居を移し、綱の一字を賜って改銘したと伝え、その名跡は新々刀期にまで連なった。鎌倉にはこの綱広らが住し、これと別に小田原には康春・康国・総宗・景総らが在住して、これらを小田原相州と称する。広次もまた相州鎌倉に住して明応・天文の頃に活躍し、室町後期を代表する相州鍛冶の一人に数えられる。後北条氏の庇護のもと、正宗・貞宗を生んだ南北朝の盛時を遠く望みつつ、皆焼の系譜を保持して相州伝を伝えたのが、この区分の刀工たちであった。 作風の核は、広光・秋広が完成させた皆焼を継ぐ点にある。鍛えは板目に杢や流れ肌を交えてやや肌立ち、地沸がつき、地景が入る。刃文はのたれ・互の目に丁子・矢筈風の刃・尖り刃などを交え、飛焼・棟焼を盛んに交えて皆焼となり、沸がよくつき、金筋・砂流しがかかる。綱広は玉状ないし三日月状の飛焼を見せる皆焼を得意とし、広次に至っては焼高く、沸の強い迫力ある皆焼を焼いて、一見すると南北朝の長谷部派を思わせるほどに到る。古典相州の頂点と分かつのは、この皆焼の扱いに見える。正宗・貞宗の代では、のたれ基調の地刃に沸が深く澄んで明るく冴え、地にこぼれた沸が湯走りをなして自在に働いたのに対し、末相州の皆焼は飛焼・棟焼を全面に散らす構成そのものを看どころとして前に押し出す傾きを帯び、地鉄もやや肌立って、鎌倉期の鉄の冴えからは一段隔たる。小田原相州はこの大筋において綱広らと大差ないが、小振りの刀姿があること、濃厚緻密な彫刻を多く備えることに特色があり、殊に総宗の倶利迦羅や八幡大菩薩・梵字の彫は巧緻と評される。 鑑定にあっては、まずやや肌立つ板目に地沸・地景が働き、飛焼・棟焼を交えた皆焼に金筋・砂流しがかかる地刃を相州の継続と読み、次に古典との隔たりを沸の深さと鉄の冴えの差、そして皆焼を誇示的に焼き出す傾きに求めて末相州と分かつ。区分内では、綱広を皆焼と玉状の飛焼に、広次を長谷部風を思わせる強い沸の皆焼に、総宗ら小田原相州を小振りの姿と緻密な彫刻に見分ける。主要工は綱広・広次・総宗で、康春・康国・景総がこれに連なる。伝来の面では、綱広に後北条家の重臣桜井大学の所持銘を有する一口があり、本区分が後北条氏の小田原を地盤として営まれた事実を裏づけている。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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