戦国の世、一派は第二の主家に仕えた。小田原の後北条氏である。その庇護のもと綱広系は打刀の時代の皆焼を鍛え続け、1590年の落城とともに新刀の時代へ散った。
村正は、伊勢国桑名を拠点として活躍した刀工であり、後世「妖刀村正」の名で広く知られる存在です。 村正が「妖刀」と呼ばれるようになった背景には、徳川家との因縁をめぐる数々の逸話があります。徳川家康の祖父・松平清康、父・松平広忠が村正の刀によって命を落としたとされるほか、家康の嫡男・松平信康が切腹した際、その介錯に村正が用いられたとも伝えられています。また、家康自身も村正作の槍によって負傷したという逸話が残されています。 こうした逸話が重なったことから、村正は徳川家に災いをもたらす不吉な刀として忌避されたとされ、一説には村正の所持を禁じる触れが出されたともいわれています。そのため、現存する村正の中には、銘を削り取ったものや、銘を改変したと考えられる作例も少なくありません。 一方で、この「徳川家に祟る妖刀」というイメージを逆手に取り、徳川家に反感を抱く大名や武士たちが、あえて村正を求めたという伝承も知られています。 もっとも、村正を徳川家が一貫して恐れ、排斥していたという話については、後世に形成された伝説的な要素も大きいと考えられています。村正は当時から優れた刀工として評価され、その作品を所持していた上級武士も多かったことから、結果として村正の刀が刃傷事件などに関わる機会が多くなった可能性も考えられます。 実際には家康自身も村正を所持していたとされ、現在まで徳川家ゆかりの村正が伝来しています。こうした事実からも、村正は単なる「妖刀」という言葉だけでは語り尽くすことのできない、歴史的にも非常に興味深い刀工であったことがうかがえます。 本刀は、銘字の書風および茎の仕立てなどから、二代村正の作と鑑せられる一振です。出来栄えに優れるのみならず、地鉄・刃ともに健全な状態を保っている点も大きな魅力です。 また、本刀には刀剣研究の第一人者として知られる田野邉道宏探山先生による詳細な鞘書が記されており、本刀を鑑賞するうえでの大きな見どころのひとつとなっています。 さらに、落ち着いた趣と力強さを併せ持つ肥後風の短刀拵が付属しており、刀身のみならず拵を含めた総合的な鑑賞性の高さも本刀の魅力です。古雅で引き締まった意匠は村正の持つ鋭い印象ともよく調和し、一層存在感のある一振となっています。 村正ならではの歴史的背景と伝説性、そして刀そのものが持つ確かな出来を併せ持つ、非常に興味深く魅力ある一振です。 Active in Kuwana, the swordsmith Muramasa is legendary for creating the "Demon Blade."His ominous reputation stems from tragic ties to the Tokugawa family; lore claims his weapons killed Tokugawa Ieyasu’s grandfather and father, and injured Ieyasu himself. This cursed image allegedly led to an official ban, forcing owners to alter the signatures (mei) on their blades. However, this rejection is largely a later myth. Muramasa was simply a highly skilled smith whose popular blades frequently appeared in historical incidents. In fact, Ieyasu himself owned several pieces.This blade is attributed to the second-generation Muramasa, featuring an exceptionally healthy jihada and hamon. It includes a detailed sayagaki by Tanobe Michihiro, a top sword authority, and is housed in an elegant, dignified Higo-style koshirae. It is a masterful piece combining historical intrigue, verified artistry, and elite provenance.



Sengo (Ise) · 伊勢 · 1521-1528頃
藤代 上々作 · 刀剣大鑑 上位17%
現在1点販売中
村正は室町時代後期の伊勢国を代表する刀工で、桑名の地に在住した。現存する上限の年紀は文亀元年(一五〇一)で、それには「右衛門尉村正」と銘しており、説明書は「通説では文亀を初代、天文を二代、天正を三代としており、その中、二代とされているものが最も技術が優れ、作刀も多く現存し、且つ茎の銘字も流暢で巧みである」[[c:16]]と記す。本項はその二代、天文頃の村正であり、指定を受けた作は四十一口を数える。ある刀については「最も上手で世に知られている村正はこれである」[[c:3]]とまで評される。俗に正宗の弟子と伝えられた説を、説明書は「俗に正宗の弟子と伝えられたが不当」[[c:17]]と退け、実際の同時代の美濃・島田・京の刀工の間に位置づける。なお代別については確固とした説がないと添えるものがあり、古い説明書は永正・天文の年紀を二代に充てる。
その見どころとして説明書が筆頭に挙げるのは表裏の揃いである。すなわち「表裏の刃文が目立って揃うところが村正の特色であり」[[c:4]]、「箱がかった刃文や、乱れの谷が刃先に近くなる点も同工の見どころである」[[c:5]]という。本作風の刃文は互の目・のたれに箱がかった刃・複式互の目・尖り刃・山形の乱れを交え、乱れの頭が割れ、谷が刃先にせまる。匂口は締りごころに小沸が叢につき、時に沈みごころとなり、砂流しがしきりにかかる。帽子は乱れ込み、または直ぐに小丸、掃きかけて尖りごころとなり、返りは深く、棟焼に続くものもある。
これを載せる姿は、何よりも平造・三ツ棟の短刀と寸延びの小脇指で、身幅広く、反り浅く先反りがつき、フクラの枯れる室町後期の典型であり、内反りの小振りの一群も交じる。刀は寸の詰った先反りの強い打刀で、菖蒲造の作もある。鍛えは板目に流れ肌・柾ごころを交えてやや肌立ち、地沸がつき、白けごころのものが多い。茎は生ぶで下半が目立って細るたなご腹となり、「たなご腹も二代から殊に著しくなる」[[c:6]]と記され、太鏨大振りの二字銘を切る。その流暢で力強い銘字そのものが二代の見どころとされ、まれに「勢州桑名住村正作」[[c:7]]の長銘がある。指定作四十一口中四十口が在銘である。唯一の無銘は号「揚羽」の脇指で、生ぶ無銘ながら古く銘をすりつぶしたものと読まれて二代と極められ、本阿弥光徳指料と伝える。底銘でかすかに二字銘の残る脇指があり、その裏の金象嵌は大久保忠寛の題字であって極め銘ではない。短刀の一口には後嵌の金短冊銘「夢告」がある。
本則の傍らに作域が分かれる。中直刃・細直刃の穏やかな短刀があり、「来派の作などをねらったもので成功しており、間々同作にはこれがある」[[c:8]]と評される。刀では腰元に大互の目や箱がかった刃を焼き、上半を直刃調として下半と上半の焼刃を異にする。また飛焼・棟焼が盛んとなって皆焼風に至る一群があり、同工には珍しいとするものと、まま見られる出来とするものとが併存する。さらに槍が多く、素槍・大身槍・珍しい片鎌十文字槍を合わせて指定作中七口を占め、「槍の製作にも長じていた」[[c:9]]ことが知られるとされ、ある大身槍は「蓋し名槍と称すべきである」[[c:10]]と賞された。相州小田原鍛冶俊次・俊広との三人合作刀も現存し、資料的価値も高いと評される。
鑑定上の紛れについて説明書は率直である。「一見すると末関の兼定等に紛れる」[[c:11]]といい、兼芝の名も挙げ、島田物に似るとし、京の平安城長吉については「平安城長吉と酷似する」[[c:12]]とまでいい、何らかの関係があったと思われると添える。これらと分けるのが前述の見どころ、すなわち表裏の揃い、箱がかった刃、刃先にせまる乱れの谷、締りごころの匂口と叢沸、そしてたなご腹の茎と太鏨の銘字である。一門の正重・正眞は同様の作風を示すが、ここでも茎が決め手となり、村正の茎棟が角に切られるのに対して正重は丸く肉がつくとされる。皆焼は同工にあっては時折の作域に止まり、本領はあくまで表裏の揃う乱れ刃にある。
藤代の極めで上々作。二代の指定作は四十一口で、すべて重要刀剣であり、国宝・重要文化財に封ぜられたものはない。しかし銘を減らしたのは歴史そのものである。説明書は「徳川家に祟るとか、持主に祟るなど云う伝説があって、その為に無銘となったものが多い」[[c:13]]と記し、現存有銘の刀は比較的に稀であるという。名跡の行方についても説明書は分かれ、「徳川将軍家の忌避にふれてか名跡が絶えている」[[c:14]]とするものと、「同銘が相継ぎ新刀に及んでいる」[[c:15]]とするものが併存する。指定刀に博物館・神社の所蔵は録されておらず、伝来の列記もなく、記録の上では私蔵の間を伝わってきた。生ぶ茎にたなご腹、太鏨の二字銘を備えた二代村正が市に現れることは稀であり、多くの銘を消したその伝説こそが、遺された有銘作への求めを一層強くしている。
村正の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
相州伝 · 伊勢
現在5点販売中
村正派は伊勢国桑名を本拠とし、室町時代後期から戦国の世にかけて栄えた一門である。現存する上限の年紀は文亀元年(一五〇一)で、「勢州桑名住右衛門尉藤原村正作」[[c:1]]と居住地・俗名・刀工銘を完備した長銘がこれを伝え、この定点から通説は文亀を初代、天文を二代、天正を三代とする。一門の祖たる初代村正がその名を負う作風を定め、技量最も優れ作刀も多く現存する天文頃の二代がこれを大成し、門には正重・正眞を出した。世に正宗の弟子と伝える俗説は早くより行われたが、年紀の記録を前に当を得ぬものとして退けられ、本派はあくまで室町末期近くにはじまる刀工と位置づけられる。その作風は美濃・島田・末相州と共通するところを持ち、なかでも京の平安城長吉と特に近く、長吉とは何らかの関係があったとも、師弟関係にあったとも説かれる。日蓮宗への帰依は鉄の上に直に読め、刃に妙法蓮華経の題目を切り、梵字・蓮台・八幡大菩薩を彫る作があることから、当時伊勢地方に同宗の信仰の少なくなかったことがうかがわれる。 本派を貫く第一の特色は、刃文の表裏が目立って揃うことである。互の目・のたれを基調に箱がかった刃を交え、乱れの谷が刃先にせまり、その乱れが表裏で鏡のように対応する。匂口は締りごころに小沸が叢につき、時に沈みごころとなって砂流しがしきりにかかる。帽子は直ぐに小丸、または乱れ込んで掃きかけ、覇気ある作では返りを深く棟焼に続ける。これを載せる姿は、平造・三ツ棟で身幅広く寸延びた短刀・小脇指、および寸の詰った先反りの強い打刀で、フクラの枯れる室町後期の典型を示す。鍛えは板目に流れ肌・柾ごころを交えてやや肌立ち、地沸つき、鉄色心持ち黒みがかって白けごころを帯びるものが多い。茎は生ぶで下半が著しく細るたなご腹となり、太鏨大振りの二字銘を切るのを常とする。一門のうちにも度合の差があり、初代村正の手が二様の銘と信仰の作に分かれるのに対し、二代はたなご腹と流暢な銘字が殊に著しい。正重は同じ千子の手をより肌立たせ、より強く沸づかせて放胆に開き、正眞はこれを引き締めて地肌が少しつむ傾向にあり、上半を穏やかな直刃に納める。皆焼はいずれの工にあっても時折の作域に止まり、本領はあくまで表裏の揃う乱れ刃にある。 鑑定の勘所は、まずこの表裏の揃いと、刃先にせまる乱れの谷、締りごころの匂口と叢沸、そしてたなご腹の茎と太鏨の銘字にある。一見すると末関の兼定・兼芝に紛れ、島田物に似、平安城長吉とは酷似するため、これらと分けるにはこの見どころに立ち返らねばならない。一門内では茎が決め手となり、村正の茎棟が角に切られるのに対し、正重はいかにも丸く肉がつくとされる。切れ味の評は古来高く、後の世にその作が忌まれた一因ともなった。すなわち徳川家に祟る、持主に祟るとの妖刀伝説が行われ、その忌避にふれて銘を消されたものが多く、現存有銘の刀は比較的に稀である。名跡の行方についても、忌避にふれて絶えたとする説と、同銘相継いで新刀に及んだとする説が併存する。伝来には大名家のものが残り、妙法蓮華経の刀は茎棟に銀象嵌「鍋信」とあって鍋島信濃守勝茂の所持と伝え、初代の脇指の一口は織田信長の指料と伝えて織田木瓜紋の合口を附し、正眞の一刀は将軍より拝領して水野家に下る。この水野家の刀は伊勢を憚って「山城国正真」と国名を改めて切られ、その隠された出自そのものが妖刀の評の重さを物語る。後の世がその名を消そうとした工の作であればこそ、年紀確かで表裏の揃う村正一門の作が世に現れることは、一箇の画期として今に求められている。 詳しく見る →
室町時代の相州
戦国の世、一派は第二の主家に仕えた。小田原の後北条氏である。その庇護のもと綱広系は打刀の時代の皆焼を鍛え続け、1590年の落城とともに新刀の時代へ散った。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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