【相州伝の興り】 かつて日本は京都の朝廷によって統治され、その守護は僧兵たちが担っていました。しかし、治承四年(1180年)に平氏と源頼朝の間で内乱が勃発。建久三年(1192年)、頼朝は相模国鎌倉に幕府を開き、日本は将軍を頂点とする武家政治の時代へと突入しました。 新興勢力である鎌倉幕府に仕えるため、諸国から名工たちが鎌倉の地へと集まりました。その中には、かつて朝廷に仕えた粟田口派の職人たちも含まれていました。彼らの作風は、精緻な肌(地鉄)に小板目が詰み、穏やかな刃文を焼くものでした。鎌倉の地で、これら京の技法と他国の伝法が融合し、後に日本刀の最高峰と称えられる「相州伝」が確立されることとなります。 この発展において中心的な役割を果たしたのが、粟田口の系譜を引く新藤五国光であり、その門下からは行光や、伝説的な名工として知られる正宗が輩出されました。 【行光について】 行光は、それ自体が日本刀史上屈指の名工として知られていますが、同時に「刀聖」と仰がれる正宗の父、あるいは師としてもその名を馳せています。古書には行光を正宗の実父とする記述も見られますが、実際には養子、あるいは兄弟弟子であった可能性が高いと考えられています。彼らは共に鎌倉時代末期、短刀の名手として名高い新藤五国光の門下で研鑽を積みました。 同門には異彩を放つ名工・則重もおり、行光はその三門下の中でも筆頭格(兄弟子)であったと目されています。この時期、彼ら一派の活躍によって、新藤五国光が礎を築いた相州伝は、独自の完成された様式として確立されました。 なお、鑑定の権威である藤代氏は、これら相州伝草創期の刀工たちを、いずれも最高位の技術を持つ「最上作」として格付けしています。
行光は、正宗則重等と共に師新藤五国光の創始した相州伝をさらに発展させ完成した。 行光は正宗よりはやや先輩とみられ、現存する有 銘作は短刀に限られている。作風は古来の刀剣書によると多彩で、直刃以外に乱れ刃や、まま皆焼があることなどが記されているが、無銘極め のものは直刃或は浅い穏やかな乱れ刃が多く、地刃は総じて新藤五風である。 この刀は、板目に杢が交じった鍛えに、地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに入り、 かねが冴え、刃文は小のたれに小乱れ・小互の目等が交 じり、物打辺より上が直刃調となり、 沸が厚くつき、金筋・砂流しがかかり、匂口が明るく冴えるなどの出来口をあらわしている。殊に地刃が 明るく冴え、刃中に著しくかかる金筋・砂流しの働きは見事で、本作が相州上工の作であることは明らかであり、行光の極めは充分に首肯し得 るものである。鍛えが精良で一際傑れており、地刃共に健やかな同工極めの優品である。















行光は、正宗則重等と共に師新藤五国光の創始した相州伝をさらに発展させ完成した。 行光は正宗よりはやや先輩とみられ、現存する有 銘作は短刀に限られている。作風は古来の刀剣書によると多彩で、直刃以外に乱れ刃や、まま皆焼があることなどが記されているが、無銘極め のものは直刃或は浅い穏やかな乱れ刃が多く、地刃は総じて新藤五風である。 この刀は、板目に杢が交じった鍛えに、地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに入り、 かねが冴え、刃文は小のたれに小乱れ・小互の目等が交 じり、物打辺より上が直刃調となり、 沸が厚くつき、金筋・砂流しがかかり、匂口が明るく冴えるなどの出来口をあらわしている。殊に地刃が 明るく冴え、刃中に著しくかかる金筋・砂流しの働きは見事で、本作が相州上工の作であることは明らかであり、行光の極めは充分に首肯し得 るものである。鍛えが精良で一際傑れており、地刃共に健やかな同工極めの優品である。
Soshu (Sagami) · 相模 · 1303-1306頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位1%
現在4点販売中
行光は鎌倉時代末期の相模の工で、新藤五国光の門人、正宗・則重とは兄弟弟子であり、三者のうちではやや先輩とみられる。三者は師の創始した相州伝を推進し、「正宗則重等と共に師新藤五国光の創始した相州伝をさらに発展させ完成へと導いた」[[c:1]]と評される。「行光は正宗よりやや先輩とみられ、現存する有銘作は短刀に限られている」[[c:2]]ため、本工は専ら大磨上無銘の極めを通じて知られ、諸名家が秘蔵してきた。
地鉄は相州上工随一の精良さである。板目に杢・流れ肌を交えて総じてつみ、処々肌立ち、地沸が微塵に厚くつき、太い地景が頻りに入って鉄色明るく澄む。この地景の働きはいずれの作風にも一貫する核であり、古来の刀剣書もその作域の広さを述べ、「古伝書にも本工の作域の広いことが述べられている」[[c:3]]。いかなる刃文を焼こうとも、諸書が立ち返るのは一点に尽きる。すなわち「地刃がよく沸えて、地景・金筋・湯走りの働きが顕著で、沸の妙味を発揮しているところである」[[c:4]]。
穏やかで作例の多い側は師・新藤五に直結する。地景を交えた地鉄の上に、直刃あるいは浅いのたれ調の刃を焼き、小互の目・小足・葉を交え、匂口やや深く沸厚くつき、刃縁にほつれ・湯走り、刃中に細かな金筋・砂流しがかかる。「無銘極めのものは直刃或いは浅い穏やかな乱れ刃が多く、地刃は総じて新藤五風である」[[c:5]]と極められ、師との連なりが最も明らかな作風である。
豪放な側は古い解説が過小評価してきた一面で、帽子にその性格が現われる。単なる小丸ではなく、先は盛んに掃きかける。「帽子乱れ込み、盛んに掃きかけて火炎状となる」[[c:6]]ものがあり、また穏やかな作では「帽子直ぐに小丸、掃きかける」[[c:7]]とされ、時に先尖り・焼詰め風となる。帽子の下にはのたれ主調に互の目・小互の目を交えた乱れが開き、大模様の乱れや皆焼ごころに至るものまであって、金筋・砂流しが烈しく働き、匂口は深く明るい。小丸に強い掃きかけを伴って乱れ込み、時に先尖りとなる帽子は、太い地景とともに本工の鑑別の要となる。
鑑別の核は二様に共通する。太い地景、相州上工の深く明るい匂口、烈しい金筋・砂流し、そして掃きかける帽子である。作域の広さそのものが個性であり、正宗・貞宗が一段と激しく大模様であるのに対し、行光は穏やかで小模様の手を保ち、極めは新藤五・則重に寄せ、正宗・貞宗とは明確に分かたれる。藤代は最上作に列し、特別重要刀剣の指定数は全工中でも上位に位置する。在銘は短刀に限られ、名物「大島行光」をはじめ、徳川・豊臣・細川・上杉・伊達などの諸家を歴とし、国宝・重要文化財として動かぬものも多く、市場に現われることは極めて稀な巨匠である。
行光の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
相州伝 · 相模
時期区分: 相州· 1288–1385
現在46点販売中
板目に杢を交えた地鉄に地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに織りなされて明るく冴える鍛え、これが相州(鎌倉後期から南北朝期にかけての相州伝の古典的全盛期)を貫く核である。この区分は始祖新藤五国光が粟田口由来の精緻な小板目と直刃の基盤の上に、地刃ともに沸を主体とする鍛えを据えたところに始まる。国光の門から行光、正宗、則重が出て技術が大成し、続いて正宗の系から養子貞宗、越中の郷義弘が出て、伝統が頂点に達した。さらに南北朝期に入ると相模国にあって時代的にも技術的にも貞宗の次に位置する広光と秋広が現れ、十四世紀後半まで本流が続く。鎌倉幕府の府たる鎌倉を母体とし、その滅亡から南北朝の動乱という時代背景のなかで、姿は身幅広く寸延びた豪壮なものへと推移していった。 作風は説示にいう板目に杢交じり、地沸厚くつき、地景頻りに入る鍛えを土台とし、刃文はのたれを基調に互の目を交え、匂口深く沸厚くつき、金筋・沸筋・砂流しが頻りにかかって匂口明るく冴える点にある。郷義弘の作では、正宗・則重に比べて地景・金筋は穏やかながら、刃中に沸足がよく働き、地刃が一段と明るく冴え、肌合に柾ごころを交え、帽子を一枚風に深く焼くのが見どころとされる。広光・秋広に至ると、板目が肌立ちごころとなり、丁子に互の目を交え、飛焼・棟焼を交えて皆焼となり、頭の丸い団子丁子を交える刃文がこの時代に始まる。これらは母体である粟田口の抑制された直刃の源流からは遠く隔たり、沸の働きを前面に押し出した展開である。一方、後続の末相州(室町期の継続と衰退)が、こうした皆焼や帽子の一枚焼きといった形を継承しつつ地刃の冴えと沸の質を次第に薄めていくのに対し、本区分は地刃ともに明るく冴え、働きが豊富である点で截然と区別される。秋広の彫物が後の正広・広正、さらに室町末期の相州鍛冶の先駆となったことも、本区分が型を確立した側であることを示す。 収集家がこの区分を別格とするのは、正宗を頂点に、貞宗、そして正宗十哲の筆頭に挙げられる郷義弘という頂の刀工を擁するからである。鑑定上の要点は、郷義弘・貞宗ともに在銘作が皆無であるため、地刃の明るい冴え、沸足の働き、柾ごころ、一枚風に深く焼く帽子といった作域から極めることにある。代表作には金象嵌銘の兜切り江や名物中川江があり、宇和島伊達家、小田原藩大久保家、薩摩の島津家など大名家への伝来が説示に記される。秋広には延文二年から至徳四年に及ぶ年紀作があり、銘の切り方の変遷とともに資料的価値を支えている。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns accepted on items ordered from the site when an item does not appear to be as depicted and described; buyer must notify via email within 7 days of receipt. Refund covers purchase price minus shipping, bank fees, and currency conversion. Sales on items paid in terms are final, as are sales of items personally inspected.
【相州伝の興り】 かつて日本は京都の朝廷によって統治され、その守護は僧兵たちが担っていました。しかし、治承四年(1180年)に平氏と源頼朝の間で内乱が勃発。建久三年(1192年)、頼朝は相模国鎌倉に幕府を開き、日本は将軍を頂点とする武家政治の時代へと突入しました。 新興勢力である鎌倉幕府に仕えるため、諸国から名工たちが鎌倉の地へと集まりました。その中には、かつて朝廷に仕えた粟田口派の職人たちも含まれていました。彼らの作風は、精緻な肌(地鉄)に小板目が詰み、穏やかな刃文を焼くものでした。鎌倉の地で、これら京の技法と他国の伝法が融合し、後に日本刀の最高峰と称えられる「相州伝」が確立されることとなります。 この発展において中心的な役割を果たしたのが、粟田口の系譜を引く新藤五国光であり、その門下からは行光や、伝説的な名工として知られる正宗が輩出されました。 【行光について】 行光は、それ自体が日本刀史上屈指の名工として知られていますが、同時に「刀聖」と仰がれる正宗の父、あるいは師としてもその名を馳せています。古書には行光を正宗の実父とする記述も見られますが、実際には養子、あるいは兄弟弟子であった可能性が高いと考えられています。彼らは共に鎌倉時代末期、短刀の名手として名高い新藤五国光の門下で研鑽を積みました。 同門には異彩を放つ名工・則重もおり、行光はその三門下の中でも筆頭格(兄弟子)であったと目されています。この時期、彼ら一派の活躍によって、新藤五国光が礎を築いた相州伝は、独自の完成された様式として確立されました。 なお、鑑定の権威である藤代氏は、これら相州伝草創期の刀工たちを、いずれも最高位の技術を持つ「最上作」として格付けしています。
行光は、正宗則重等と共に師新藤五国光の創始した相州伝をさらに発展させ完成した。 行光は正宗よりはやや先輩とみられ、現存する有 銘作は短刀に限られている。作風は古来の刀剣書によると多彩で、直刃以外に乱れ刃や、まま皆焼があることなどが記されているが、無銘極め のものは直刃或は浅い穏やかな乱れ刃が多く、地刃は総じて新藤五風である。 この刀は、板目に杢が交じった鍛えに、地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに入り、 かねが冴え、刃文は小のたれに小乱れ・小互の目等が交 じり、物打辺より上が直刃調となり、 沸が厚くつき、金筋・砂流しがかかり、匂口が明るく冴えるなどの出来口をあらわしている。殊に地刃が 明るく冴え、刃中に著しくかかる金筋・砂流しの働きは見事で、本作が相州上工の作であることは明らかであり、行光の極めは充分に首肯し得 るものである。鍛えが精良で一際傑れており、地刃共に健やかな同工極めの優品である。















行光は、正宗則重等と共に師新藤五国光の創始した相州伝をさらに発展させ完成した。 行光は正宗よりはやや先輩とみられ、現存する有 銘作は短刀に限られている。作風は古来の刀剣書によると多彩で、直刃以外に乱れ刃や、まま皆焼があることなどが記されているが、無銘極め のものは直刃或は浅い穏やかな乱れ刃が多く、地刃は総じて新藤五風である。 この刀は、板目に杢が交じった鍛えに、地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに入り、 かねが冴え、刃文は小のたれに小乱れ・小互の目等が交 じり、物打辺より上が直刃調となり、 沸が厚くつき、金筋・砂流しがかかり、匂口が明るく冴えるなどの出来口をあらわしている。殊に地刃が 明るく冴え、刃中に著しくかかる金筋・砂流しの働きは見事で、本作が相州上工の作であることは明らかであり、行光の極めは充分に首肯し得 るものである。鍛えが精良で一際傑れており、地刃共に健やかな同工極めの優品である。
Soshu (Sagami) · 相模 · 1303-1306頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位1%
現在4点販売中
行光は鎌倉時代末期の相模の工で、新藤五国光の門人、正宗・則重とは兄弟弟子であり、三者のうちではやや先輩とみられる。三者は師の創始した相州伝を推進し、「正宗則重等と共に師新藤五国光の創始した相州伝をさらに発展させ完成へと導いた」[[c:1]]と評される。「行光は正宗よりやや先輩とみられ、現存する有銘作は短刀に限られている」[[c:2]]ため、本工は専ら大磨上無銘の極めを通じて知られ、諸名家が秘蔵してきた。
地鉄は相州上工随一の精良さである。板目に杢・流れ肌を交えて総じてつみ、処々肌立ち、地沸が微塵に厚くつき、太い地景が頻りに入って鉄色明るく澄む。この地景の働きはいずれの作風にも一貫する核であり、古来の刀剣書もその作域の広さを述べ、「古伝書にも本工の作域の広いことが述べられている」[[c:3]]。いかなる刃文を焼こうとも、諸書が立ち返るのは一点に尽きる。すなわち「地刃がよく沸えて、地景・金筋・湯走りの働きが顕著で、沸の妙味を発揮しているところである」[[c:4]]。
穏やかで作例の多い側は師・新藤五に直結する。地景を交えた地鉄の上に、直刃あるいは浅いのたれ調の刃を焼き、小互の目・小足・葉を交え、匂口やや深く沸厚くつき、刃縁にほつれ・湯走り、刃中に細かな金筋・砂流しがかかる。「無銘極めのものは直刃或いは浅い穏やかな乱れ刃が多く、地刃は総じて新藤五風である」[[c:5]]と極められ、師との連なりが最も明らかな作風である。
豪放な側は古い解説が過小評価してきた一面で、帽子にその性格が現われる。単なる小丸ではなく、先は盛んに掃きかける。「帽子乱れ込み、盛んに掃きかけて火炎状となる」[[c:6]]ものがあり、また穏やかな作では「帽子直ぐに小丸、掃きかける」[[c:7]]とされ、時に先尖り・焼詰め風となる。帽子の下にはのたれ主調に互の目・小互の目を交えた乱れが開き、大模様の乱れや皆焼ごころに至るものまであって、金筋・砂流しが烈しく働き、匂口は深く明るい。小丸に強い掃きかけを伴って乱れ込み、時に先尖りとなる帽子は、太い地景とともに本工の鑑別の要となる。
鑑別の核は二様に共通する。太い地景、相州上工の深く明るい匂口、烈しい金筋・砂流し、そして掃きかける帽子である。作域の広さそのものが個性であり、正宗・貞宗が一段と激しく大模様であるのに対し、行光は穏やかで小模様の手を保ち、極めは新藤五・則重に寄せ、正宗・貞宗とは明確に分かたれる。藤代は最上作に列し、特別重要刀剣の指定数は全工中でも上位に位置する。在銘は短刀に限られ、名物「大島行光」をはじめ、徳川・豊臣・細川・上杉・伊達などの諸家を歴とし、国宝・重要文化財として動かぬものも多く、市場に現われることは極めて稀な巨匠である。
行光の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
相州伝 · 相模
時期区分: 相州· 1288–1385
現在46点販売中
板目に杢を交えた地鉄に地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに織りなされて明るく冴える鍛え、これが相州(鎌倉後期から南北朝期にかけての相州伝の古典的全盛期)を貫く核である。この区分は始祖新藤五国光が粟田口由来の精緻な小板目と直刃の基盤の上に、地刃ともに沸を主体とする鍛えを据えたところに始まる。国光の門から行光、正宗、則重が出て技術が大成し、続いて正宗の系から養子貞宗、越中の郷義弘が出て、伝統が頂点に達した。さらに南北朝期に入ると相模国にあって時代的にも技術的にも貞宗の次に位置する広光と秋広が現れ、十四世紀後半まで本流が続く。鎌倉幕府の府たる鎌倉を母体とし、その滅亡から南北朝の動乱という時代背景のなかで、姿は身幅広く寸延びた豪壮なものへと推移していった。 作風は説示にいう板目に杢交じり、地沸厚くつき、地景頻りに入る鍛えを土台とし、刃文はのたれを基調に互の目を交え、匂口深く沸厚くつき、金筋・沸筋・砂流しが頻りにかかって匂口明るく冴える点にある。郷義弘の作では、正宗・則重に比べて地景・金筋は穏やかながら、刃中に沸足がよく働き、地刃が一段と明るく冴え、肌合に柾ごころを交え、帽子を一枚風に深く焼くのが見どころとされる。広光・秋広に至ると、板目が肌立ちごころとなり、丁子に互の目を交え、飛焼・棟焼を交えて皆焼となり、頭の丸い団子丁子を交える刃文がこの時代に始まる。これらは母体である粟田口の抑制された直刃の源流からは遠く隔たり、沸の働きを前面に押し出した展開である。一方、後続の末相州(室町期の継続と衰退)が、こうした皆焼や帽子の一枚焼きといった形を継承しつつ地刃の冴えと沸の質を次第に薄めていくのに対し、本区分は地刃ともに明るく冴え、働きが豊富である点で截然と区別される。秋広の彫物が後の正広・広正、さらに室町末期の相州鍛冶の先駆となったことも、本区分が型を確立した側であることを示す。 収集家がこの区分を別格とするのは、正宗を頂点に、貞宗、そして正宗十哲の筆頭に挙げられる郷義弘という頂の刀工を擁するからである。鑑定上の要点は、郷義弘・貞宗ともに在銘作が皆無であるため、地刃の明るい冴え、沸足の働き、柾ごころ、一枚風に深く焼く帽子といった作域から極めることにある。代表作には金象嵌銘の兜切り江や名物中川江があり、宇和島伊達家、小田原藩大久保家、薩摩の島津家など大名家への伝来が説示に記される。秋広には延文二年から至徳四年に及ぶ年紀作があり、銘の切り方の変遷とともに資料的価値を支えている。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns accepted on items ordered from the site when an item does not appear to be as depicted and described; buyer must notify via email within 7 days of receipt. Refund covers purchase price minus shipping, bank fees, and currency conversion. Sales on items paid in terms are final, as are sales of items personally inspected.