為継は、通説によると、郷義弘の子で、越中則重に師事したと伝えられる刀工です。また義弘、則重との関連性から、越中国鍛冶であると思われ勝ちですが、実際に押形として残されているのは、『越前国藤原為継』銘、これらには『延文二年(一三五七)』、『応安二年(一三六九)』の年紀が入っています。現存品としては、『濃州住藤原為継』銘が僅かにあるのみで、その中に『応安七年(一三七四)』の年紀があることにより、応安二年から同七年の間に美濃に移住したものと考えられています。大和から移住した志津兼氏、同じく越前から移住した金重と共に、美濃鍛冶の源流を成したとされる名工です。 作風は、地に黒みがある北陸物特有の地鉄に則重風の鍛え、刃文は沸出来の烈しい乱れを基本とします。 本作は、薙刀直し脇差しで、『為継』の極めが付されています。 寸法一尺七寸八分強、鎬高く、身幅しっかりとした菖蒲風スタイル 板目に杢目、流れ肌を交えて所々大模様にうねる地鉄、互の目乱れ主体の刃は、刃中金筋、砂流しが幾重にも重なって烈しく掛かって刃縁が判然としません。 とにかく地刃の沸の烈しい働きは見応え十分、凄まじいものがあります。 地刃に少し鍛え肌もありますが、郷義弘、越中則重の技を美濃に伝えた越前為継の特徴が良く示された一振りです。



Mino (Hokurikudo Soshu-den, the Norishige line) · 美濃 · 1345-1350頃
現在3点販売中
為継は刀身に「濃州住藤原為継」と銘し、この銘こそが本工を読む鍵である。越中呉服郷の江則重の門人と伝え、一説に江義弘の子ともいい、相州伝を北陸道より運んで美濃に住した。説明書はその師承に慎重である。現存する作には越前・美濃いずれの銘文もあって、説明書は「越前と美濃の両方の銘文がある」[[c:1]]と記す一方、越中住と切ったものは皆無で、判者は「越中住ときったものはない」[[c:2]]と述べる。年紀作が則重の鎌倉末より二世代下る南北朝後期の貞治・応安に収まるため、剣書は則重との師承を一代の直伝というより一代を隔てて受け継いだ作風と解し、則重や義弘との直接の結びつきを年代の上から無理とする。本工は相州伝が北国へ、内陸へと運ばれた姿、美濃の鍛冶に身を置いた則重の手として読むのがよい。
その典型の作風は、判者が言い切るところのもの、すなわち則重風の鍛に美濃の刃である。説明書はこれを率直に、「則重風の鍛に美濃風の互の目尖り刃を焼いて一種の作風を示している」[[c:3]]と記す。肌立つ板目の上にのたれを焼き、これに美濃の尖り刃を交え、沸は強く深く、なかんずく砂流しが本工の見どころというべき頻りさで長くかかって金筋を伴う。匂口は冴え立たず、沈みごころの抑えた線となり、その下の地鉄は黒ずむ。則重風の湿ったのたれに美濃の鋭い尖りを与え、黒く沸の豊かな地に焼くというこの組合せが、一見して為継と読ませるところである。
地鉄は終始変わらぬところである。板目に杢・大板目を交え処々柾がかって流れ、肌立ち時に開いて、地沸厚く地景が入り、地鉄は北国の趣濃く黒みをおびる。説明書は本工の極め物に通じる共通点として、「板目が肌立って黒ずみ」[[c:4]]、沸出来で匂口の沈むものを挙げ、否定の見どころとして本流の作に「直刃はない」ことを記す。その地に対して刃文は、浅いのたれに互の目・尖り刃を交えるのが最も多く、足・葉入り、働きのある作では刃縁に飛焼・湯走りを交える。帽子は乱れ込んで頻りに掃きかけ、小丸に返るか、磨上げた薙刀直しの多くでは焼詰め風となる。
記録は二つの様にきれいに分かれる。大半は作風から極められた大磨上無銘の刀で、延びた、あるいは大きな鋒をもつ南北朝の幅広い刀身であり、ここに則重風が最もよくあらわれる。これに対して稀な在銘・年紀作が立つ。極めて少なく、応安年紀の短刀を戦前の重要美術品の筆頭とし、応安七年(一三七四)紀の菖蒲造薙刀直し太刀、藤原為継作と切る生ぶ茎の太刀を含む。説明書は本工自身の作のうちに対比を引き、有銘作には美濃風が強く、無銘極めには則重風がよくあらわれるとし、有銘作はやや粗びるものがある一方で「無銘極めのものには、なかなかよい出来のものがあり」[[c:6]]と率直に評する。
本工を分かつものは、師から借りたものではなく、その自身の刀身から読まれる。すなわち、より大きく揺れるのたれ乱れであり、説明書はこれをもって他の美濃相伝の手から直接に分かち、その作が「志津、金重とは異っている」[[c:7]]とする。則重その人と比べれば差は程度と冴えの差で、地肌は則重ほど肌立たず地景も少く、判者はある一刀に「師則重程地景が目立たない」[[c:8]]と評し、地鉄は相州本国の上工の明るさに対して黒ずむ。その作域はときに他の俤にも及び、磨上の一刀は「大和尻懸風の出来」[[c:9]]と極められて、本工の修めた地方の相伝が一流のみに止まらぬことを示す。
収集の観点では、為継は殆ど極めを通じて出会う南北朝の名である。国宝はなく、重要文化財もない。その記録は戦前の重要美術品と、多くの回次に亘る重要刀剣の長い列を通じ、その名の拠り所たる在銘・年紀作が最も稀である。説明書はその僅かな在銘作を、現存の少なさゆえに、また長寸の在銘作の一層の乏しさゆえに、頗る貴重とする。所有の記録は乏しい。一対が熱田神宮に伝わり、応安の短刀は戦前の赤星鉄馬の蒐集を経、現在の所在は多く伝わらない。極められた無銘の刀は時に市場にあらわれ、伝為継が重要の相伝物の中に折々に見えるが、在銘・年紀の濃州住藤原為継はそれとは別格の、名を定める証であり、私蔵の一口はこの分野でより稀な出会いに属する。その無銘の一刀を説明書は端的に「為継の典型的な一刀」[[c:10]]と称え、これが収集家の現実に望み得る最上のものである。
爲繼の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
相州伝 · 相模
時期区分: 相州· 1288–1385
現在41点販売中
板目に杢を交えた地鉄に地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに織りなされて明るく冴える鍛え、これが相州(鎌倉後期から南北朝期にかけての相州伝の古典的全盛期)を貫く核である。この区分は始祖新藤五国光が粟田口由来の精緻な小板目と直刃の基盤の上に、地刃ともに沸を主体とする鍛えを据えたところに始まる。国光の門から行光、正宗、則重が出て技術が大成し、続いて正宗の系から養子貞宗、越中の郷義弘が出て、伝統が頂点に達した。さらに南北朝期に入ると相模国にあって時代的にも技術的にも貞宗の次に位置する広光と秋広が現れ、十四世紀後半まで本流が続く。鎌倉幕府の府たる鎌倉を母体とし、その滅亡から南北朝の動乱という時代背景のなかで、姿は身幅広く寸延びた豪壮なものへと推移していった。 作風は説示にいう板目に杢交じり、地沸厚くつき、地景頻りに入る鍛えを土台とし、刃文はのたれを基調に互の目を交え、匂口深く沸厚くつき、金筋・沸筋・砂流しが頻りにかかって匂口明るく冴える点にある。郷義弘の作では、正宗・則重に比べて地景・金筋は穏やかながら、刃中に沸足がよく働き、地刃が一段と明るく冴え、肌合に柾ごころを交え、帽子を一枚風に深く焼くのが見どころとされる。広光・秋広に至ると、板目が肌立ちごころとなり、丁子に互の目を交え、飛焼・棟焼を交えて皆焼となり、頭の丸い団子丁子を交える刃文がこの時代に始まる。これらは母体である粟田口の抑制された直刃の源流からは遠く隔たり、沸の働きを前面に押し出した展開である。一方、後続の末相州(室町期の継続と衰退)が、こうした皆焼や帽子の一枚焼きといった形を継承しつつ地刃の冴えと沸の質を次第に薄めていくのに対し、本区分は地刃ともに明るく冴え、働きが豊富である点で截然と区別される。秋広の彫物が後の正広・広正、さらに室町末期の相州鍛冶の先駆となったことも、本区分が型を確立した側であることを示す。 収集家がこの区分を別格とするのは、正宗を頂点に、貞宗、そして正宗十哲の筆頭に挙げられる郷義弘という頂の刀工を擁するからである。鑑定上の要点は、郷義弘・貞宗ともに在銘作が皆無であるため、地刃の明るい冴え、沸足の働き、柾ごころ、一枚風に深く焼く帽子といった作域から極めることにある。代表作には金象嵌銘の兜切り江や名物中川江があり、宇和島伊達家、小田原藩大久保家、薩摩の島津家など大名家への伝来が説示に記される。秋広には延文二年から至徳四年に及ぶ年紀作があり、銘の切り方の変遷とともに資料的価値を支えている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト刀剣、刀装具、骨董等1点ものにつきましては、キャンセル待ちのお客様がおられる場合がございますので、ご返品のご連絡は商品到着後3日以内、ご返送は8日以内にお願いいたします。ご返金は商品ご返送到着後即日に致します。
為継は、通説によると、郷義弘の子で、越中則重に師事したと伝えられる刀工です。また義弘、則重との関連性から、越中国鍛冶であると思われ勝ちですが、実際に押形として残されているのは、『越前国藤原為継』銘、これらには『延文二年(一三五七)』、『応安二年(一三六九)』の年紀が入っています。現存品としては、『濃州住藤原為継』銘が僅かにあるのみで、その中に『応安七年(一三七四)』の年紀があることにより、応安二年から同七年の間に美濃に移住したものと考えられています。大和から移住した志津兼氏、同じく越前から移住した金重と共に、美濃鍛冶の源流を成したとされる名工です。 作風は、地に黒みがある北陸物特有の地鉄に則重風の鍛え、刃文は沸出来の烈しい乱れを基本とします。 本作は、薙刀直し脇差しで、『為継』の極めが付されています。 寸法一尺七寸八分強、鎬高く、身幅しっかりとした菖蒲風スタイル 板目に杢目、流れ肌を交えて所々大模様にうねる地鉄、互の目乱れ主体の刃は、刃中金筋、砂流しが幾重にも重なって烈しく掛かって刃縁が判然としません。 とにかく地刃の沸の烈しい働きは見応え十分、凄まじいものがあります。 地刃に少し鍛え肌もありますが、郷義弘、越中則重の技を美濃に伝えた越前為継の特徴が良く示された一振りです。



Mino (Hokurikudo Soshu-den, the Norishige line) · 美濃 · 1345-1350頃
現在3点販売中
為継は刀身に「濃州住藤原為継」と銘し、この銘こそが本工を読む鍵である。越中呉服郷の江則重の門人と伝え、一説に江義弘の子ともいい、相州伝を北陸道より運んで美濃に住した。説明書はその師承に慎重である。現存する作には越前・美濃いずれの銘文もあって、説明書は「越前と美濃の両方の銘文がある」[[c:1]]と記す一方、越中住と切ったものは皆無で、判者は「越中住ときったものはない」[[c:2]]と述べる。年紀作が則重の鎌倉末より二世代下る南北朝後期の貞治・応安に収まるため、剣書は則重との師承を一代の直伝というより一代を隔てて受け継いだ作風と解し、則重や義弘との直接の結びつきを年代の上から無理とする。本工は相州伝が北国へ、内陸へと運ばれた姿、美濃の鍛冶に身を置いた則重の手として読むのがよい。
その典型の作風は、判者が言い切るところのもの、すなわち則重風の鍛に美濃の刃である。説明書はこれを率直に、「則重風の鍛に美濃風の互の目尖り刃を焼いて一種の作風を示している」[[c:3]]と記す。肌立つ板目の上にのたれを焼き、これに美濃の尖り刃を交え、沸は強く深く、なかんずく砂流しが本工の見どころというべき頻りさで長くかかって金筋を伴う。匂口は冴え立たず、沈みごころの抑えた線となり、その下の地鉄は黒ずむ。則重風の湿ったのたれに美濃の鋭い尖りを与え、黒く沸の豊かな地に焼くというこの組合せが、一見して為継と読ませるところである。
地鉄は終始変わらぬところである。板目に杢・大板目を交え処々柾がかって流れ、肌立ち時に開いて、地沸厚く地景が入り、地鉄は北国の趣濃く黒みをおびる。説明書は本工の極め物に通じる共通点として、「板目が肌立って黒ずみ」[[c:4]]、沸出来で匂口の沈むものを挙げ、否定の見どころとして本流の作に「直刃はない」ことを記す。その地に対して刃文は、浅いのたれに互の目・尖り刃を交えるのが最も多く、足・葉入り、働きのある作では刃縁に飛焼・湯走りを交える。帽子は乱れ込んで頻りに掃きかけ、小丸に返るか、磨上げた薙刀直しの多くでは焼詰め風となる。
記録は二つの様にきれいに分かれる。大半は作風から極められた大磨上無銘の刀で、延びた、あるいは大きな鋒をもつ南北朝の幅広い刀身であり、ここに則重風が最もよくあらわれる。これに対して稀な在銘・年紀作が立つ。極めて少なく、応安年紀の短刀を戦前の重要美術品の筆頭とし、応安七年(一三七四)紀の菖蒲造薙刀直し太刀、藤原為継作と切る生ぶ茎の太刀を含む。説明書は本工自身の作のうちに対比を引き、有銘作には美濃風が強く、無銘極めには則重風がよくあらわれるとし、有銘作はやや粗びるものがある一方で「無銘極めのものには、なかなかよい出来のものがあり」[[c:6]]と率直に評する。
本工を分かつものは、師から借りたものではなく、その自身の刀身から読まれる。すなわち、より大きく揺れるのたれ乱れであり、説明書はこれをもって他の美濃相伝の手から直接に分かち、その作が「志津、金重とは異っている」[[c:7]]とする。則重その人と比べれば差は程度と冴えの差で、地肌は則重ほど肌立たず地景も少く、判者はある一刀に「師則重程地景が目立たない」[[c:8]]と評し、地鉄は相州本国の上工の明るさに対して黒ずむ。その作域はときに他の俤にも及び、磨上の一刀は「大和尻懸風の出来」[[c:9]]と極められて、本工の修めた地方の相伝が一流のみに止まらぬことを示す。
収集の観点では、為継は殆ど極めを通じて出会う南北朝の名である。国宝はなく、重要文化財もない。その記録は戦前の重要美術品と、多くの回次に亘る重要刀剣の長い列を通じ、その名の拠り所たる在銘・年紀作が最も稀である。説明書はその僅かな在銘作を、現存の少なさゆえに、また長寸の在銘作の一層の乏しさゆえに、頗る貴重とする。所有の記録は乏しい。一対が熱田神宮に伝わり、応安の短刀は戦前の赤星鉄馬の蒐集を経、現在の所在は多く伝わらない。極められた無銘の刀は時に市場にあらわれ、伝為継が重要の相伝物の中に折々に見えるが、在銘・年紀の濃州住藤原為継はそれとは別格の、名を定める証であり、私蔵の一口はこの分野でより稀な出会いに属する。その無銘の一刀を説明書は端的に「為継の典型的な一刀」[[c:10]]と称え、これが収集家の現実に望み得る最上のものである。
爲繼の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
相州伝 · 相模
時期区分: 相州· 1288–1385
現在41点販売中
板目に杢を交えた地鉄に地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに織りなされて明るく冴える鍛え、これが相州(鎌倉後期から南北朝期にかけての相州伝の古典的全盛期)を貫く核である。この区分は始祖新藤五国光が粟田口由来の精緻な小板目と直刃の基盤の上に、地刃ともに沸を主体とする鍛えを据えたところに始まる。国光の門から行光、正宗、則重が出て技術が大成し、続いて正宗の系から養子貞宗、越中の郷義弘が出て、伝統が頂点に達した。さらに南北朝期に入ると相模国にあって時代的にも技術的にも貞宗の次に位置する広光と秋広が現れ、十四世紀後半まで本流が続く。鎌倉幕府の府たる鎌倉を母体とし、その滅亡から南北朝の動乱という時代背景のなかで、姿は身幅広く寸延びた豪壮なものへと推移していった。 作風は説示にいう板目に杢交じり、地沸厚くつき、地景頻りに入る鍛えを土台とし、刃文はのたれを基調に互の目を交え、匂口深く沸厚くつき、金筋・沸筋・砂流しが頻りにかかって匂口明るく冴える点にある。郷義弘の作では、正宗・則重に比べて地景・金筋は穏やかながら、刃中に沸足がよく働き、地刃が一段と明るく冴え、肌合に柾ごころを交え、帽子を一枚風に深く焼くのが見どころとされる。広光・秋広に至ると、板目が肌立ちごころとなり、丁子に互の目を交え、飛焼・棟焼を交えて皆焼となり、頭の丸い団子丁子を交える刃文がこの時代に始まる。これらは母体である粟田口の抑制された直刃の源流からは遠く隔たり、沸の働きを前面に押し出した展開である。一方、後続の末相州(室町期の継続と衰退)が、こうした皆焼や帽子の一枚焼きといった形を継承しつつ地刃の冴えと沸の質を次第に薄めていくのに対し、本区分は地刃ともに明るく冴え、働きが豊富である点で截然と区別される。秋広の彫物が後の正広・広正、さらに室町末期の相州鍛冶の先駆となったことも、本区分が型を確立した側であることを示す。 収集家がこの区分を別格とするのは、正宗を頂点に、貞宗、そして正宗十哲の筆頭に挙げられる郷義弘という頂の刀工を擁するからである。鑑定上の要点は、郷義弘・貞宗ともに在銘作が皆無であるため、地刃の明るい冴え、沸足の働き、柾ごころ、一枚風に深く焼く帽子といった作域から極めることにある。代表作には金象嵌銘の兜切り江や名物中川江があり、宇和島伊達家、小田原藩大久保家、薩摩の島津家など大名家への伝来が説示に記される。秋広には延文二年から至徳四年に及ぶ年紀作があり、銘の切り方の変遷とともに資料的価値を支えている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト刀剣、刀装具、骨董等1点ものにつきましては、キャンセル待ちのお客様がおられる場合がございますので、ご返品のご連絡は商品到着後3日以内、ご返送は8日以内にお願いいたします。ご返金は商品ご返送到着後即日に致します。