船田一琴は、出羽庄内鶴岡の出身で、岩本寛利門である船田寛常の子として文化九年(一八一二)に生まれた。幼くして父に死別し、母の再婚により熊谷義信に養われ、文政九年十五歳の折に江戸に出て熊谷義之に学び、同十一年、十七歳の時に後藤一乗の門に入って、京都において七年間修業した。やがて江戸に戻って独立し、出羽庄内の酒井家の抱え工となり、文久三年、五十二歳で歿している。本姓は船田、号は一琴、本名は義長で、船田一琴義長、船田一琴、あるいは単に一琴と銘する。
説明は彼を一乗門下の高弟、鬼才と記す。今井永武・橋本一至・中川一匠・和田一真らと共に一乗門の五虎と称せられ、加納夏雄は「一琴は其第一にして最も高肉彫に長ず」と賞讃した。高彫・片切彫共に上手であるが、特に甲鋤彫においては他の追随を許さず、師の一乗をして「甲鋤彫は我が及ばざるところである」と歎じしめたと伝える。
素材は後藤系の修業に由来する正統のもので、小柄・笄は赤銅魚子地に高彫・金紋・色絵、裏哺金とし、目貫は金地容彫とする。鐔・縁頭では赤銅槌目地や石肌地に甲鋤彫・毛彫を施し、金・銀の平象嵌を配する。四君子図の大小揃について説明は「深浅自在の甲鋤彫が見事であり」、金銀の平象嵌が赤銅地によく映えて画面は清麗とした風情に満ちるとする。
画題は一乗門と後藤家のもので、四君子は一乗門の最も得意とする画題とされ、這竜は後藤家の掟物である。藩主酒井家の命により弘化二年、三十四歳の時に製作した龍三所物は、後藤家の古作に範をとり、「特に肉置が豊かで力感に溢れ」、角・頬・足に三角タガネを効果的に用い、「同作中の白眉と称すべき作」とされる。同作の別の説明は竜を一琴の作としては珍らしい図とし、その技量は師に迫るとして「力と技量に溢れた作品である」と評する。赤銅のみの高彫で細身の龍を表した三所物については「本作は凛々として覇気が漲る一琴の力作である」と評される。四分一磨地に金平象嵌で翁を表した小柄については「流石に一乗門下の逸材であることを知らされる」と記す。
説明は一貫して師との比較で彼を測り、その技量は師に迫るとする。後藤一乗の下画により大を一琴、小を橋本一至が製作した四君子図大小鐔は、作風が一乗そのものであり、説明はここから「一乗銘の作品の中にはこのように多くの門人のうちの代作が含まれていたと推することができよう」と資料的価値を説く。
指定は重要刀装具十一点で、うち二点が特別重要刀装具に進み、いずれも一琴の銘がある。年紀は弘化二年から嘉永年間を経て文久二年に及び、「武陽射向里」の添銘を持つものも多い。藩主酒井家の命による作には、弘化二年の龍三所物や安政二年の四神図三所物があり、後者は庄内酒井家に伝来した。また赤銅のみの龍図三所物は池田隆雄の箱書を伴い、龍獅堂の箱に納められている。