橋本一至は通称を玄治といい、文政三年(1820年)、京都に生まれた。十六歳の時、後藤一乗のもとに入門し、十六年の修行を経て嘉永三年(1850年)に師の許しを得て一至と名乗り独立、夕秀舎と号した。一琴の手紙によると、先輩である一琴が特に一至には目をかけて指導したとあり、「一乗門下では一、二の手利きであると称揚」されている。嘉永四年から文久二年の十三年間、一乗が幕命により江戸勤めの際は師に随行し、師の協力工として活躍した。京に帰ってからは広幡家の家臣となり帯刀を許された。明治の廃刀令以後一時は彫金を断念したが再び鏨をとり、明治十年第一回内国勧業博覧会への出品を皮切りに数多くの名誉に輝き、明治二十九年(1896年)に七十七歳で没した。二代一至(芳太郎)も存在するが、初代に隠れてしまい詳細が表立っておらず、真の二代作と確認できる作品は非常に少ない。
一至の作風は「一門中最も師一乗に近く」、特に細緻な彫法で上品に彫り上げた花鳥図などを得意とした。鉄磨地、赤銅魚子地、四分一磨地など多様な素材を用い、高彫、据紋象嵌、色絵、金銀平象嵌、片切彫など、多種多様な技法を駆使する。作風は時代によって変化が見られ、初期には師である一乗を彷彿とさせる緻密な彫技が見られるが、後年には魚子地から磨地に移行し、片切毛彫平象嵌から高彫に彫り上げるなど、新しい感覚を取り入れた作風も見られる。大小揃金具においては、春、夏、秋、冬の鳥と草花を一作に纏めるなど、独自の意匠も見られる。
橋本一至は「名工の誉れが高い」刀装金工である。その作は「技術も殆んど一乗とえらぶところのない優品」と評され、一乗門下の中でも特に優れた技量を持っていたことが窺える。花鳥図を得意とし、その表現は写実的でありながらも、情趣豊かで、見る者に深い印象を与える。大小揃金具においては、画面の余白をうまく生かし、色絵を控え目だが要所に効果的に使うことにより、情景を醸し出す効果を発揮している。注文主には公家の中御門家もおり、その作品は当時の上流階級にも愛好されたことがわかる。