今井永武(いまいえいぶ)は、文政元年(1818年)から明治15年(1882年)にかけて活動した京都の金工家である。武者小路の紙商笹屋忠兵衛の四男として生まれ、幼くして一条家の臣、今井小三郎の養子となったが、養父の死後一条家の臣籍を去り、後藤系の仕入彫師・藤木久兵衛のもとで修業した。一乗門となる和田一真とは修業時代の同門であり、独立後はやはり一乗門の重鎮である船田一琴と深く交わり、常に一琴の手腕を引き合いに自らも切磋琢磨し、門人の指導にあたったといわれている。号は亨斎、武鉄とも称した。茶を好み、酒を嗜まず、盆栽草花を愛し、精神修養の糧とし、漢文を春日潜庵(椿竜)に学び、和歌もよくしたと伝えられている。
永武の作風は、後藤一乗の作風を基盤としつつ、独自の華麗な色絵を特色とする。赤銅魚子地を高彫し、金、銀、赤銅、素銅など多彩な色金を象嵌して、花鳥、人物、故事などを題材とした作品を多く手掛けた。特に草花の類を得意とし、「草花の類は彼の最も得意とするところであり」と評される。大小鐔においては、表は鉄、裏は白銅の合鍛で昼夜鐔とし、表は高彫象嵌色絵、裏は片切彫、毛彫、鋤彫、金平象嵌と表裏で彫法を替えるなど、意匠を凝らした作例も見られる。また、大小揃金具においては、中国の故事に因む題材を主として纏め、丹念な高彫と綿密な象嵌色絵で、描写、彫技ともに見事な手腕を披露している。作銘には「平安城住」と冠するものがある。
永武の作品は、「一乗風の影響が色濃く表れた彫技をもって上品に仕上がっている」と評されるように、一乗派の様式を踏襲しつつも、その繊細な彫技と華麗な色絵によって独自の境地を開いた。その作風は「濃密華麗な色絵に特色を示している」と評され、後藤一乗門下にあっては、最も草花の類を好んで彫り、多彩な色金を駆使して華麗に仕上げる作風は、永武ならではの個性として高く評価されている。総金具の拵においても、各金具に四季それぞれの花を高彫色絵にするなど、その意匠と技量の高さが窺える。