後藤一乗は、後藤家の掉尾を飾る名工である。寛政三年(1791年)に後藤家の分家である七郎右衛門家四代重乗の子として京都に生まれた。九歳の時、八郎兵衛謙乗の養子となり、十一歳で半左衛門亀乗について彫技を学んだ。十五歳の時、養父の死に伴い家督を相続した。兄に是乗光熙、弟に久乗光覧がいる。彼ははじめ光貨といい、ついで光行、さらに光代と名乗り、文政七年(1824年)三十四歳の時、光格天皇の御剣金具を制作した功により法橋の位を授かり一乗と号し、文久二年(1862年)には光明天皇の御太刀金具を制作し、翌年法眼に叙せられた。嘉永四年(1851年)六十一歳時に将軍家に召されて江戸に移ったが、晩年は京都にもどり、明治九年(1876年)八十六歳で歿している。
一乗の作風は、はじめ家彫の掟物である竜や獅子を手がけ、のちはそれを基礎にして写生を主としたものに転じ、草花・虫・鳥・風景などを細緻な彫法で品格高くあらわしている。作域は広く、赤銅魚子地、四分一磨地、素銅地など様々な素材を用い、高彫、容彫、象嵌、色絵といった多様な技法を駆使する。特に赤銅魚子地においては、「絹目魚子と呼称される温順な地がね」と評される緻密で美しい魚子地を特徴とする。図柄は四君子、花鳥、虫、風景など多岐にわたり、大小拵の金具一式を手がけることも多い。作風は時期によって変化が見られ、壮年期の作品は細密なものが多いとされる。嘉永頃の作品には細密でありながらも格調高い見所が多く見受けられる。また、金砂子象嵌を用いる作も存在する。銘は「後藤法橋一乗(花押)」、「後藤一乗」、「一乗(花押)」などがある。
一乗の作品は、後藤流の伝統的な美点を近代的に昇華させたものとして高く評価されている。その作風は「典雅」、「品格が高い」、「流麗」、「格調高い」と評され、繊細緻密な高彫と的確な色絵、雅びな砂子象嵌など、御家彫である後藤流の美点が、一乗の手にかかり近代的に昇華された感があると評される。また、「一乗ならではの洗練された構図と鮮やかな高彫」、「卓越した技巧と一乗独特の画題選択」、「第一人者としての自負と矜持さえもが、作品の一部を形成しているかのようである」と評されるように、その独創性と高い技術力は、他の追随を許さない。後藤家における最後の名工として、その作品は今日においても高く評価され、重要刀装具として指定されているものも多い。