荒木東明は文化十四年(一八一七)に京都で生まれ、十三歳の時、後藤東乗に師事し「東」の一字を許されて東明と名乗った。後に後藤一乗の門に学び「一斎」の工名を許されて一斎東明と銘し、吟松亭とも号した。ある説明は彼を「幕末金工界の大御所、後藤一乗門の高弟」と記す。京都の画家林蘭雅について下絵を学び、特技である粟穂の彫刻は蘭雅との研究により考案されたものといわれ、この粟穂をもって当時から著名であったという。
粟穂は東明の名声のすべてである。説明は、粟穂は七粒の円錐形を成して一花とし、穂先が鋭く、周囲へと零れんばかりに実るとし、ある脇指拵では粟穂の実は三条に連なって中央が一段と盛上り、特殊鏨を打込んで立体的に表現したと記す。特別重要刀装具の大小揃金具については、その風情を「正に東明の真骨頂である」とする。また、この彫技を真似て数多くの粟穂作品が制作されているが「如何なる名工も東明の技に到達出来ず」とし、他の金工中、粟穂に関する限りでは「古今、東明に及ぶものがない」と評する。
素材は後藤系の修業に由来する正統のもので、多くは赤銅魚子地に高彫色絵、金・素銅の据紋を施し、小柄は裏哺金、目貫は金無垢地容彫とする。特別重要刀装具の揃金具では赤銅に独特の石目を打ち、素銅魚子地の作もあり、細工の困難とされる朧銀魚子地を用いた合口拵は一段と貴重とされる。鉄地の大小鐔では、大に旭日、小に夕月の粟穂を高彫色絵象嵌であらわす。縁の天上板の時雨鑢は「師一乗譲りの技である」とされ、縁頭の天井や口部の鑢にも一乗一門の特色が表れる。一方で、一乗門と伝えながら「一乗とはやや趣を異にし」、殊に粟穂を得意としたとも記される。
粟穂のまわりには雀・鶉、鳴子・破れ菅笠・箕・手籠を配して農地の情景をあらわし、秋に色変わりした葉を金と素銅で表現する。東明後期の一斎銘の大小鐔では、朝靄の中を昇る太陽と粟穂を啄む雀・鶉を四面に描く。粟穂を離れた作もあり、赤銅に「細やかな絹の縮緬地に見紛うばかりの地荒らし」を施した大小鐔には富岳と南極老人、月下の幽渓を漢詩とともに高彫色絵し、また大黒天・毘沙門天の留守模様の大小縁頭がある。説明はこれらを東明得意の粟穂作品ではないとしつつ、良質の赤銅と精密な彫技を賞する。
銘は一斎東明、吟松亭東明に花押を添えるものが多く、同作中数少ない「荒秀信」銘は資料的に貴重とされる。特別重要刀装具の揃金具には一斎東明と東明荒秀信の二通りの銘がある。安政五年春の年紀を切る合口拵があり、吟松亭東明銘の自筆の封書を附帯する二所物もある。作品は揃金具が多く、柴田是真の蒔絵と取り合わされた小さ刀拵もある。ある脇指拵は「華麗と渋みが程良く調和されたいかにも京風の上品な脇指拵である」と評される。門人の名は記されていない。
東明の指定作は三十点で、うち一点の粟穂図大小揃金具が特別重要刀装具、他は重要刀装具である。国宝・重要文化財はない。この特別重要刀装具は『鏨迺花』所載で、龍獅堂の箱に納められ、明治三十七年の池田隆雄の箱書があり、ほかに三点が龍獅堂の箱に納まる。在銘の粟穂の揃金具は時に世に現れ、優れた一組は説明の言う「東明ここにあり」を示す。