鎌倉時代は備前の頂点である。伝えでは一文字派の工が後鳥羽上皇の御番鍛冶に列し、世紀の半ばには光忠が長船派を興して、注文は公家からも武家政権からも流れ込んだ。国宝刀剣の数で備前に並ぶ国はない。
Introduction This is a very notable signed sword from the earliest decades of the Aoe school. Designated Jūyō in 2002. The Aoe school was located in the Bitchū province. Like the Bizen and Hoki smiths of adjacent provinces, they had access to fine iron sand that washed down from the Chūgoku Mountains range into its rivers. According to tradition, the school was founded by Yasutsugu ( 安次 ) in the late Heian period, and continued by his son Moritsugu ( 守次 ). Three of Moritsugu's sons, Tsuguie, Sadatsugu, and Tsunetsugu, represented the Aoe school among the Goban Kaji. These were 12 appointed smiths, one for each month of the year, that the retired Emperor Go-Toba had selected in somewhere after his abdication in 1198 to teach him sword making. The Yasutsugu/Moritsugu group was based in the port city of Kurashiki; another family, headed by Noritaka was based in Senoo just 4km northeast of there. Both families produced very similar works. "Signed works that can be attributed to the Ko-Aoe school are extemely rare." -Honma Kunzan Junji: Kanto Hibi Shō 1 - Shōwa 44-46. Page 120. (Appraisal Diary Vol. 1 1969-1971.) Translated by Markus Sesko. Notes Markus Sesko; Swordsmiths of Japan . Lulu, 2014. Page 961 (Shigetsugu) and 1153 (Toshitsugu). Shigetsugu ( 重次 ) Shigetsugu was a Ko-Aoe smith who, according to tradition, was Moritsugu's son and a brother of the three Ko Aoe smiths selected to teach emperor Go-Toba. He also studied under Toshitsugu, another early 13th-century Ko-Aoe smith who is believed to have been active around 1211-1213. Signed works by Shigetsugu are extremely rare; fewer than a handful are known to exist. All that is written about the smith in recent times is based on the study of these.
備中国青江派は、承安頃の安次を祖として始まると伝え、以後南北朝時代後期に至るまで、多くの名工を輩出した。同派の中でほぼ鎌倉時 代中期を降らないものを特に古青江と呼んでいる。古青江の代表的な刀工としては、守次・為次・次家・次忠・貞次・康次・包次・恒次・俊 次・助次、そしてこの重次等がおり、その多くが「次」の字を通字としている。その作風は、鍛えに杢目が目立ち、やや肌立ち気味で、いわゆ る縮緬状の肌合となり、地斑の交じるものが多く、刃文は直刃調の穏やかなものや小乱れを交えるものなどがあり、一般に、よく沸がつき、総 じて同時代の備前物に比べると幾分地味で渋い味わいを醸す感がある。また銘を佩裏にきり、鑢目が大筋違となる点も古備前などと相違すると ころである。 この太刀は、板目に杢や流れ肌が交じり、肌立ちごころとなった鍛えに、地沸が微塵につき、地景が細かに入り、部分的に地斑状の肌合を交 え、乱れ映りが立ち、刃文は直刃を基調に浅くのたれ、小乱れ・小互の目・小丁子等が交じり、足・葉がよく入り、 沸が厚くつき、金筋・砂流 しが頼りにかかるなどの出来口で、 古青江の特色がよく明示されている。刃文が古調で、よく沸づき、刃中足・葉や金筋・砂流し等の働きを見 せ、味わい深い作風をあらわしている。 古青江重次の遺例としては、紀州徳川家伝来の「重次作」 三字銘の太刀など、重要美術品認定の三口が よく知られているところであるが、それらの作は、いずれも銘が佩表にきられているのに対して、本作は通常の古青江諸工と同様、銘が佩裏に 位置している点が特筆される。現存稀な重次の作例は貴重であり、しかも同工を研究する上で資料的価値も高い。









































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備中国青江派は、承安頃の安次を祖として始まると伝え、以後南北朝時代後期に至るまで、多くの名工を輩出した。同派の中でほぼ鎌倉時代中期を降らないものを特に古青江と呼んでいる。古青江の代表的な刀工としては、守次・為次・次家・次忠・貞次・康次・包次・恒次・俊次・助次、そしてこの重次等がおり、その多くが「次」の字を通字としている。その作風は、鍛えに杢目が目立ち、やや肌立ち気味で、いわゆる縮緬状の肌合となり、地斑の交じるものが多く、刃文は直刃調の穏やかなものや小乱れを交えるものなどがあり、一般に、よく沸がつき、総じて同時代の備前物に比べると幾分地味で渋い味わいを醸す感がある。また銘を佩裏にきり、鑢目が大筋違となる点も古備前などと相違するところである。 この太刀は、板目に杢や流れ肌が交じり、肌立ちごころとなった鍛えに、地沸が微塵につき、地景が細かに入り、部分的に地斑状の肌合を交え、乱れ映りが立ち、刃文は直刃を基調に浅くのたれ、小乱れ・小互の目・小丁子等が交じり、足・葉がよく入り、 沸が厚くつき、金筋・砂流しが頼りにかかるなどの出来口で、 古青江の特色がよく明示されている。刃文が古調で、よく沸づき、刃中足・葉や金筋・砂流し等の働きを見せ、味わい深い作風をあらわしている。 古青江重次の遺例としては、紀州徳川家伝来の「重次作」 三字銘の太刀など、重要美術品認定の三口がよく知られているところであるが、それらの作は、いずれも銘が佩表にきられているのに対して、本作は通常の古青江諸工と同様、銘が佩裏に位置している点が特筆される。現存稀な重次の作例は貴重であり、しかも同工を研究する上で資料的価値も高い。
古青江 · 備中 · 1264-1275頃
藤代 上作 · 刀剣大鑑 上位8%
第四十八回の重要刀剣に指定された在銘の太刀は、磨上げて大筋違に鑢をかけた茎の佩裏に太鏨大振りの二字銘「重次」をきり、説明書はこれを古青江の典型と読んで「古青江の特色がよく明示されている」[[c:1]]とする。重次は備中国青江派の初期、すなわち古青江の刀工である。説明書は本工を、銘鑑に俊次の子と伝え鎌倉中期の文永(一二六四~七五)頃に置かれる工に該当するとし、ある太刀には「この重次は銘鑑に俊次の子、鎌倉時代中期、文永(一二六四~七五)頃と伝える刀工に該当するであろう」[[c:2]]と素直に記す。一派は承安頃の安次を祖と伝え、ほぼ鎌倉中期を降らないものを特に古青江と呼ぶ。説明書はその代表工に守次・為次・次家・恒次・俊次・助次そしてこの重次らを挙げ、その多くが「次」を通字とする。
現存する作は太刀で、細身に姿よく腰反り高く踏張りつき、生ぶ茎を留めるものが数口ある。本工を分かつ手は穏やかなものである。板目に杢を交え、時に小板目つみてやや肌立つ地鉄は、鉄色やや黒く澄肌ごころとなり、青江の地である地斑状の肌合と地斑を交え、地沸細かにつき、最も詳述された作では地中に明瞭な乱れ映りが立つ。その地に対し刃文は穏やかで古調、直刃を基調に浅くのたれ、小互の目・小丁子を交えた小乱れとなる。足・葉よく入り、沸厚く処々一際強くつき、金筋・砂流しが刃中に頻りにかかる。帽子は直ぐに先焼詰め風となって細かに掃きかける。説明書はその出来を古調でよく沸づくとし、働きは大きな丁子の房ではなく小さな逆がかりの刃とその刃中の働きに托されるとする。
地鉄こそ一派の最もよく現われるところである。やや黒い鉄色、澄肌と地斑、縮緬状の肌合は、同時代備前のより明るく澄んだ小板目に対する青江の地であり、説明書はその対比を直に引いて、古青江の作を「総じて同時代の備前物に比べると幾分地味で渋い味わいを醸す」[[c:3]]と評する。その地に対し刃文は比較的おだやかにとどまる。説明書は最も詳述された作を「刃文が古調で、よく沸づき」[[c:4]]、足・葉や金筋・砂流しの働きを見せると称え、華やかならぬ味わい深い作風とする。
もっとも、その記録のすべてが静かなわけではない。磨上の二字銘の太刀の一口は、匂出来でやや小沸づいた濃密な重花丁子乱れに開き、地鉄は板目やや肌立ちごころに澄肌が現われ映りごころがある。説明書は、穏やかな直刃調の作と引き較べて現存作の銘振りと作風が互いに異なることを指摘し、働きがここではより豊かな丁子乱れに開くとする。この一口は天文十年に福井右京亮惟宗忠能が磨上げた旨の切付銘を留め、初期の手の上に後年の確かな来歴を重ねる。
極めの言うところは、本工を両隣からのみならず、その一派の掟のうちにあっても分かつ。古備前の明るく澄んだ鉄に対し、やや黒い地鉄に澄肌・地斑を交えるのは青江の地と読まれ、また一派の掟に対しても説明書は示唆に富む例外を記す。戦前の重要美術品の三口の太刀はいずれも銘を佩表にきり、説明書はこれを「古青江ながら例外的に太刀銘になっている」[[c:5]]とするのに対し、重要刀剣の太刀は通常の古青江の通り銘を佩裏に位置し、茎を大筋違に鑢をかける。銘の位置と鑢目こそ、説明書が古備前と相違する一派の見どころと名指し、極めの拠り所として挙げるところである。本工は青江初期の名工に列し、鎌倉備前の華やかさに対する備中の静かな対極に立つ。
収集の観点では、稀な初期の名であり、藤代の極めは上々作である。国宝はなく、重要文化財もない。その記録は戦前の重要美術品三口と重要刀剣一口、合わせて四口の指定作を通じ、説明書は現存作を貴重として「現存稀な重次の作例は貴重であり」[[c:6]]、しかも「同工を研究する上で資料的価値も高い」[[c:7]]とする。その来歴は大名家に確かである。三字「重次作」の太刀は紀州徳川家に伝来して後に本阿弥光遜の所有に帰し、いま一口は徳川家を経て徳川家達に伝わり、さらに一口は神奈川の宮崎富次郎が蔵した。遺例わずかにして在銘の古青江重次が世に出ることは稀であり、私蔵の一口は収集家にとって注目すべきもの、青江一派がその最初期にいかに鍛えたかを語る証として、飾りよりも資料として貴ばれる。
重次の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
備前伝 · 備中
時期区分: 中青江· 1235–1334
現在20点販売中
中青江 備中国青江派は、高梁川下流域の子位・万寿の地を中心に栄えた一派であり、その淵源は古く、十一世紀初頭の往来物『新猿楽記』が諸国の名産物の中に「備中ノ刀」を挙げるところに遡る。これより二世紀の後、その高い評価を受け継ぐ青江派の刀工が登場し、同地に繁栄した。同派は時代的に大別され、鎌倉時代中期頃までのものを古青江、それ以降南北朝時代にかけてのものを青江と汎称する。中青江は、この後者のうち鎌倉時代後期より南北朝時代に至る一作風期を指し、青江派の最も充実した盛期に当たる。代表工としては、逆丁子の名手として定評ある次直、これと並んで直刃に長じた次吉、鎌倉時代末期より南北朝初期にかけての同派を代表する直次らが挙げられ、ほかに守次・吉次・秀次・貞次・大隅権介貞次など、多くの良工が輩出した。なお同派には太刀銘と刀銘の両方が見られ、書下し銘の手法もままみるところである。 作風を見ると、まず鍛えは小板目肌に板目・小杢目を交えてつみ、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入る。処々に地斑状の肌合を交え、肌立ちごころに縮緬肌状を呈するものもあり、これらは同派の大きな見どころである。映りは同派を特徴づける要素であり、乱れ映りが鮮明に立つほか、棟寄りの乱れ映りと刃寄りの筋状の映りとが相俟って、いわゆる段映りを形成するものが看て取れる。刃文は中直刃ないし広直刃を基調とし、小互の目・小丁子・角ばる刃などを交え、処々逆がかって逆足を交えるのが通例である。匂口は締まりごころに小沸がつき、金筋・砂流しが細かにかかり、明るく冴える。この締まって明るく冴えた匂口こそ青江物随一の美点であり、塩相の深い様は見事である。帽子は直ぐ調に浅くのたれ、先尖りごころの小丸に返るものが多い。古青江が小沸出来で匂口のやや沈んだ直刃仕立てに小乱れを交えたのに対し、中青江は沸づきが穏やかとなり、匂出来で匂口の冴え冴えとした刃文に転じた点に画期がある。さらに南北朝時代最盛期の延文頃に至っては、華やかな逆丁子乱れが完成され、これは当時にあって青江一派の独壇場というべき個性的作域となった。鎌倉時代末期の作に窺える逆がかる態や下半の賑やかな乱れは、この後の華麗な逆丁子乱れの先駆を想起させるものである。 評価の面では、中青江は日本刀の中でも第一級の声価を得ている。古来、本阿弥家では無銘の青江物で典型的かつ出来のよいものに貞次の極めをあてる傾向があり、貞次の名は『新刊秘伝抄』に「備中物極上十五貫」と最高の代付をされるなど、同派の最高位の標識とされた。直次・次直・次吉らの在銘年紀作は元徳・延慶より貞和・観応・正平・文和・延文に及び、同工・同派を研究する上で資料的価値が頗る高い。伝来も長州毛利家・肥前小城鍋島家・大垣藩主戸田家・日州延岡藩主内藤家など名家に及び、世々珍重されてきたことが知られる。直刃の静謐な締まりと逆丁子乱れの華麗とを兼ね備え、つんだ鍛え・明るく冴えた匂口・特色ある段映りを以て、備中の伝統を最も洗練した姿で示すのが、この中青江の作風期である。 詳しく見る →
鎌倉時代の備前
鎌倉時代は備前の頂点である。伝えでは一文字派の工が後鳥羽上皇の御番鍛冶に列し、世紀の半ばには光忠が長船派を興して、注文は公家からも武家政権からも流れ込んだ。国宝刀剣の数で備前に並ぶ国はない。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,348口(約202口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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