鎌倉時代は備前の頂点である。伝えでは一文字派の工が後鳥羽上皇の御番鍛冶に列し、世紀の半ばには光忠が長船派を興して、注文は公家からも武家政権からも流れ込んだ。国宝刀剣の数で備前に並ぶ国はない。
【解説】 本作は古青江派の草創期にあたる、極めて貴重な在銘の太刀です。平成十四年(二〇〇二年)に重要刀剣に指定されています。 備中国に興った青江派は、隣国である備前や伯耆の刀工と同様、中国山地から河川へと流れ出す良質な鉄砂を原料として用いていました。 伝承によれば、青江派は平安時代末期の安次を始祖とし、その子である守次へと受け継がれました。守次の三人の息子、次家・貞次・恒次は、後鳥羽上皇の御番鍛冶として名を連ねています。御番鍛冶とは、建久九年(一一九八年)の譲位後に上皇が御自ら刀剣製作を志され、その指南役として月替わりで召し出された十二名の名工を指します。 安次・守次の一派は港町である倉敷を拠点とし、そこから北東へわずか四キロほどの妹尾には、則高を家長とするもう一族の青江刀工が拠を構えていました。両家が製作した作品には、非常に共通した作風が見て取れます。 「古青江派と特定できる在銘の作は、極めて稀少である。」 — 本間順治(薫山)著: 『完本 薫山日録』第一巻(昭和四十四年〜四十六年) 一二〇頁より (英訳:マルクス・セスコ) 【備考】 マルクス・セスコ著: 『Swordsmiths of Japan』Lulu, 2014. 九六一頁(重次)、一一五三頁(俊次) 重次 重次は古青江の刀工であり、伝承では守次の子、すなわち後鳥羽上皇の御番鍛冶を務めた三兄弟の兄弟にあたるとされています。また、十三世紀初頭(承元頃)に活動したとされる同派の名工、俊次の門下でも学んだと伝えられています。 重次の在銘作は極めて少なく、現存するものは片手で数えるほどしか確認されていません。近年の重次に関する研究や記述は、これら僅かな現存作の精査に基づいています。
備中国青江派は、承安頃の安次を祖として始まると伝え、以後南北朝時代後期に至るまで、多くの名工を輩出した。同派の中でほぼ鎌倉時 代中期を降らないものを特に古青江と呼んでいる。古青江の代表的な刀工としては、守次・為次・次家・次忠・貞次・康次・包次・恒次・俊 次・助次、そしてこの重次等がおり、その多くが「次」の字を通字としている。その作風は、鍛えに杢目が目立ち、やや肌立ち気味で、いわゆ る縮緬状の肌合となり、地斑の交じるものが多く、刃文は直刃調の穏やかなものや小乱れを交えるものなどがあり、一般に、よく沸がつき、総 じて同時代の備前物に比べると幾分地味で渋い味わいを醸す感がある。また銘を佩裏にきり、鑢目が大筋違となる点も古備前などと相違すると ころである。 この太刀は、板目に杢や流れ肌が交じり、肌立ちごころとなった鍛えに、地沸が微塵につき、地景が細かに入り、部分的に地斑状の肌合を交 え、乱れ映りが立ち、刃文は直刃を基調に浅くのたれ、小乱れ・小互の目・小丁子等が交じり、足・葉がよく入り、 沸が厚くつき、金筋・砂流 しが頼りにかかるなどの出来口で、 古青江の特色がよく明示されている。刃文が古調で、よく沸づき、刃中足・葉や金筋・砂流し等の働きを見 せ、味わい深い作風をあらわしている。 古青江重次の遺例としては、紀州徳川家伝来の「重次作」 三字銘の太刀など、重要美術品認定の三口が よく知られているところであるが、それらの作は、いずれも銘が佩表にきられているのに対して、本作は通常の古青江諸工と同様、銘が佩裏に 位置している点が特筆される。現存稀な重次の作例は貴重であり、しかも同工を研究する上で資料的価値も高い。








































備中国青江派は、承安頃の安次を祖として始まると伝え、以後南北朝時代後期に至るまで、多くの名工を輩出した。同派の中でほぼ鎌倉時 代中期を降らないものを特に古青江と呼んでいる。古青江の代表的な刀工としては、守次・為次・次家・次忠・貞次・康次・包次・恒次・俊 次・助次、そしてこの重次等がおり、その多くが「次」の字を通字としている。その作風は、鍛えに杢目が目立ち、やや肌立ち気味で、いわゆ る縮緬状の肌合となり、地斑の交じるものが多く、刃文は直刃調の穏やかなものや小乱れを交えるものなどがあり、一般に、よく沸がつき、総 じて同時代の備前物に比べると幾分地味で渋い味わいを醸す感がある。また銘を佩裏にきり、鑢目が大筋違となる点も古備前などと相違すると ころである。 この太刀は、板目に杢や流れ肌が交じり、肌立ちごころとなった鍛えに、地沸が微塵につき、地景が細かに入り、部分的に地斑状の肌合を交 え、乱れ映りが立ち、刃文は直刃を基調に浅くのたれ、小乱れ・小互の目・小丁子等が交じり、足・葉がよく入り、 沸が厚くつき、金筋・砂流 しが頼りにかかるなどの出来口で、 古青江の特色がよく明示されている。刃文が古調で、よく沸づき、刃中足・葉や金筋・砂流し等の働きを見 せ、味わい深い作風をあらわしている。 古青江重次の遺例としては、紀州徳川家伝来の「重次作」 三字銘の太刀など、重要美術品認定の三口が よく知られているところであるが、それらの作は、いずれも銘が佩表にきられているのに対して、本作は通常の古青江諸工と同様、銘が佩裏に 位置している点が特筆される。現存稀な重次の作例は貴重であり、しかも同工を研究する上で資料的価値も高い。
Ko-Aoe (Bicchu) · 備中 · 1264-1275頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位8%
第四十八回の重要刀剣に指定された在銘の太刀は、磨上げて大筋違に鑢をかけた茎の佩裏に太鏨大振りの二字銘「重次」をきり、説明書はこれを古青江の典型と読んで「古青江の特色がよく明示されている」[[c:1]]とする。重次は備中国青江派の初期、すなわち古青江の刀工である。説明書は本工を、銘鑑に俊次の子と伝え鎌倉中期の文永(一二六四~七五)頃に置かれる工に該当するとし、ある太刀には「この重次は銘鑑に俊次の子、鎌倉時代中期、文永(一二六四~七五)頃と伝える刀工に該当するであろう」[[c:2]]と素直に記す。一派は承安頃の安次を祖と伝え、ほぼ鎌倉中期を降らないものを特に古青江と呼ぶ。説明書はその代表工に守次・為次・次家・恒次・俊次・助次そしてこの重次らを挙げ、その多くが「次」を通字とする。
現存する作は太刀で、細身に姿よく腰反り高く踏張りつき、生ぶ茎を留めるものが数口ある。本工を分かつ手は穏やかなものである。板目に杢を交え、時に小板目つみてやや肌立つ地鉄は、鉄色やや黒く澄肌ごころとなり、青江の地である地斑状の肌合と地斑を交え、地沸細かにつき、最も詳述された作では地中に明瞭な乱れ映りが立つ。その地に対し刃文は穏やかで古調、直刃を基調に浅くのたれ、小互の目・小丁子を交えた小乱れとなる。足・葉よく入り、沸厚く処々一際強くつき、金筋・砂流しが刃中に頻りにかかる。帽子は直ぐに先焼詰め風となって細かに掃きかける。説明書はその出来を古調でよく沸づくとし、働きは大きな丁子の房ではなく小さな逆がかりの刃とその刃中の働きに托されるとする。
地鉄こそ一派の最もよく現われるところである。やや黒い鉄色、澄肌と地斑、縮緬状の肌合は、同時代備前のより明るく澄んだ小板目に対する青江の地であり、説明書はその対比を直に引いて、古青江の作を「総じて同時代の備前物に比べると幾分地味で渋い味わいを醸す」[[c:3]]と評する。その地に対し刃文は比較的おだやかにとどまる。説明書は最も詳述された作を「刃文が古調で、よく沸づき」[[c:4]]、足・葉や金筋・砂流しの働きを見せると称え、華やかならぬ味わい深い作風とする。
もっとも、その記録のすべてが静かなわけではない。磨上の二字銘の太刀の一口は、匂出来でやや小沸づいた濃密な重花丁子乱れに開き、地鉄は板目やや肌立ちごころに澄肌が現われ映りごころがある。説明書は、穏やかな直刃調の作と引き較べて現存作の銘振りと作風が互いに異なることを指摘し、働きがここではより豊かな丁子乱れに開くとする。この一口は天文十年に福井右京亮惟宗忠能が磨上げた旨の切付銘を留め、初期の手の上に後年の確かな来歴を重ねる。
極めの言うところは、本工を両隣からのみならず、その一派の掟のうちにあっても分かつ。古備前の明るく澄んだ鉄に対し、やや黒い地鉄に澄肌・地斑を交えるのは青江の地と読まれ、また一派の掟に対しても説明書は示唆に富む例外を記す。戦前の重要美術品の三口の太刀はいずれも銘を佩表にきり、説明書はこれを「古青江ながら例外的に太刀銘になっている」[[c:5]]とするのに対し、重要刀剣の太刀は通常の古青江の通り銘を佩裏に位置し、茎を大筋違に鑢をかける。銘の位置と鑢目こそ、説明書が古備前と相違する一派の見どころと名指し、極めの拠り所として挙げるところである。本工は青江初期の名工に列し、鎌倉備前の華やかさに対する備中の静かな対極に立つ。
収集の観点では、稀な初期の名であり、藤代の極めは上々作である。国宝はなく、重要文化財もない。その記録は戦前の重要美術品三口と重要刀剣一口、合わせて四口の指定作を通じ、説明書は現存作を貴重として「現存稀な重次の作例は貴重であり」[[c:6]]、しかも「同工を研究する上で資料的価値も高い」[[c:7]]とする。その来歴は大名家に確かである。三字「重次作」の太刀は紀州徳川家に伝来して後に本阿弥光遜の所有に帰し、いま一口は徳川家を経て徳川家達に伝わり、さらに一口は神奈川の宮崎富次郎が蔵した。遺例わずかにして在銘の古青江重次が世に出ることは稀であり、私蔵の一口は収集家にとって注目すべきもの、青江一派がその最初期にいかに鍛えたかを語る証として、飾りよりも資料として貴ばれる。
重次の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
備前伝 · 備中
時期区分: 古青江· 1100–1235
現在3点販売中
古青江は、備中国高梁川下流域の青江・万寿の地を本拠とした青江派のうち、平安時代末期から鎌倉時代中期頃までのものを特に汎称する一作風期である。備中国は古くより鉄の産地として知られ、十一世紀初頭の往来物『新猿楽記』も諸国の名産物を列記する中に「備中ノ刀」を挙げており、その高い評価を受けつぐ刀工が高梁川下流域の子位庄・万寿庄を中心に活躍した。青江派は承安頃の安次を祖として始まると伝え、以後南北朝時代後期に至るまで大いに繁栄したが、その初期にあたるこの一群が古青江である。代表的な刀工としては守次・為次・次家・次忠・貞次・康次・包次・恒次・俊次・助次・守利等がおり、その多くが「次」の字を通字としている。これに対し、則高・正恒・安家・守恒など「次」の字を用いない妹尾鍛冶も同国に存し、両者は今日一括して青江鍛冶と呼称される。 作風は、鍛えに杢目が目立ち、やや肌立ち気味で、いわゆる縮緬状の肌合となる点に最大の標識がある。板目に杢を交え、総体に細かく肌立って縮緬肌を呈し、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入り、澄肌や地斑を交えるものが多い。映りは地斑映り風あるいは乱れ映りとなって立つ。刃文は直刃を基調とし、小乱れ・小丁子・小互の目などを交え、足・葉がよく入り、よく沸づき、金筋・砂流しが細かにかかる。匂口は沈みごころとなるものが多いが、中には締まりごころに明るく冴えるものもある。帽子は直ぐに小丸ごころ、あるいは掃きかけて焼詰め風となる。総じて同時代の備前物に比べると幾分地味で渋い味わいを醸す点に一派の特色が窺われる。茎の様式も診処として重要であり、銘を佩裏に切り、鑢目が大筋違となる点は古備前などと相違するところである。 評価において、古青江は同時代の古備前物に類似しつつも、縮緬肌と沈みごころの匂口に独得の渋い雅味を有し、日本刀の一作風期として古来高く重んじられてきた。康次には童子切安綱・大包平らと共に天下五剣の一に列する島津家重代の長寸の太刀があり、これは古青江としては無類の大出来で華やかな乱刃を示す名物として名高い。恒次には日蓮上人護法の太刀として知られる「名物数珠丸」がある。貞次・恒次・次家は後鳥羽院番鍛冶に数えられ、その名跡は青江鍛冶の主流として南北朝期まで継承された。守次は安次の子と伝え、爾来同銘が南北朝時代まで続き、その銘字には逆鏨を交えた打ち込みの強い楷書風のものから暢達な草書風のものまで数種が知られる。現存する有銘作は概して僅少であり、生ぶ在銘の遺例は資料的にも頗る貴重とされる。地刃の健全な作例は、同派及び各工を研究する上で資料的価値が極めて高く、深い味わいをもって今日なお珍重されている。 詳しく見る →
鎌倉時代の備前
鎌倉時代は備前の頂点である。伝えでは一文字派の工が後鳥羽上皇の御番鍛冶に列し、世紀の半ばには光忠が長船派を興して、注文は公家からも武家政権からも流れ込んだ。国宝刀剣の数で備前に並ぶ国はない。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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【解説】 本作は古青江派の草創期にあたる、極めて貴重な在銘の太刀です。平成十四年(二〇〇二年)に重要刀剣に指定されています。 備中国に興った青江派は、隣国である備前や伯耆の刀工と同様、中国山地から河川へと流れ出す良質な鉄砂を原料として用いていました。 伝承によれば、青江派は平安時代末期の安次を始祖とし、その子である守次へと受け継がれました。守次の三人の息子、次家・貞次・恒次は、後鳥羽上皇の御番鍛冶として名を連ねています。御番鍛冶とは、建久九年(一一九八年)の譲位後に上皇が御自ら刀剣製作を志され、その指南役として月替わりで召し出された十二名の名工を指します。 安次・守次の一派は港町である倉敷を拠点とし、そこから北東へわずか四キロほどの妹尾には、則高を家長とするもう一族の青江刀工が拠を構えていました。両家が製作した作品には、非常に共通した作風が見て取れます。 「古青江派と特定できる在銘の作は、極めて稀少である。」 — 本間順治(薫山)著: 『完本 薫山日録』第一巻(昭和四十四年〜四十六年) 一二〇頁より (英訳:マルクス・セスコ) 【備考】 マルクス・セスコ著: 『Swordsmiths of Japan』Lulu, 2014. 九六一頁(重次)、一一五三頁(俊次) 重次 重次は古青江の刀工であり、伝承では守次の子、すなわち後鳥羽上皇の御番鍛冶を務めた三兄弟の兄弟にあたるとされています。また、十三世紀初頭(承元頃)に活動したとされる同派の名工、俊次の門下でも学んだと伝えられています。 重次の在銘作は極めて少なく、現存するものは片手で数えるほどしか確認されていません。近年の重次に関する研究や記述は、これら僅かな現存作の精査に基づいています。
備中国青江派は、承安頃の安次を祖として始まると伝え、以後南北朝時代後期に至るまで、多くの名工を輩出した。同派の中でほぼ鎌倉時 代中期を降らないものを特に古青江と呼んでいる。古青江の代表的な刀工としては、守次・為次・次家・次忠・貞次・康次・包次・恒次・俊 次・助次、そしてこの重次等がおり、その多くが「次」の字を通字としている。その作風は、鍛えに杢目が目立ち、やや肌立ち気味で、いわゆ る縮緬状の肌合となり、地斑の交じるものが多く、刃文は直刃調の穏やかなものや小乱れを交えるものなどがあり、一般に、よく沸がつき、総 じて同時代の備前物に比べると幾分地味で渋い味わいを醸す感がある。また銘を佩裏にきり、鑢目が大筋違となる点も古備前などと相違すると ころである。 この太刀は、板目に杢や流れ肌が交じり、肌立ちごころとなった鍛えに、地沸が微塵につき、地景が細かに入り、部分的に地斑状の肌合を交 え、乱れ映りが立ち、刃文は直刃を基調に浅くのたれ、小乱れ・小互の目・小丁子等が交じり、足・葉がよく入り、 沸が厚くつき、金筋・砂流 しが頼りにかかるなどの出来口で、 古青江の特色がよく明示されている。刃文が古調で、よく沸づき、刃中足・葉や金筋・砂流し等の働きを見 せ、味わい深い作風をあらわしている。 古青江重次の遺例としては、紀州徳川家伝来の「重次作」 三字銘の太刀など、重要美術品認定の三口が よく知られているところであるが、それらの作は、いずれも銘が佩表にきられているのに対して、本作は通常の古青江諸工と同様、銘が佩裏に 位置している点が特筆される。現存稀な重次の作例は貴重であり、しかも同工を研究する上で資料的価値も高い。








































備中国青江派は、承安頃の安次を祖として始まると伝え、以後南北朝時代後期に至るまで、多くの名工を輩出した。同派の中でほぼ鎌倉時 代中期を降らないものを特に古青江と呼んでいる。古青江の代表的な刀工としては、守次・為次・次家・次忠・貞次・康次・包次・恒次・俊 次・助次、そしてこの重次等がおり、その多くが「次」の字を通字としている。その作風は、鍛えに杢目が目立ち、やや肌立ち気味で、いわゆ る縮緬状の肌合となり、地斑の交じるものが多く、刃文は直刃調の穏やかなものや小乱れを交えるものなどがあり、一般に、よく沸がつき、総 じて同時代の備前物に比べると幾分地味で渋い味わいを醸す感がある。また銘を佩裏にきり、鑢目が大筋違となる点も古備前などと相違すると ころである。 この太刀は、板目に杢や流れ肌が交じり、肌立ちごころとなった鍛えに、地沸が微塵につき、地景が細かに入り、部分的に地斑状の肌合を交 え、乱れ映りが立ち、刃文は直刃を基調に浅くのたれ、小乱れ・小互の目・小丁子等が交じり、足・葉がよく入り、 沸が厚くつき、金筋・砂流 しが頼りにかかるなどの出来口で、 古青江の特色がよく明示されている。刃文が古調で、よく沸づき、刃中足・葉や金筋・砂流し等の働きを見 せ、味わい深い作風をあらわしている。 古青江重次の遺例としては、紀州徳川家伝来の「重次作」 三字銘の太刀など、重要美術品認定の三口が よく知られているところであるが、それらの作は、いずれも銘が佩表にきられているのに対して、本作は通常の古青江諸工と同様、銘が佩裏に 位置している点が特筆される。現存稀な重次の作例は貴重であり、しかも同工を研究する上で資料的価値も高い。
Ko-Aoe (Bicchu) · 備中 · 1264-1275頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位8%
第四十八回の重要刀剣に指定された在銘の太刀は、磨上げて大筋違に鑢をかけた茎の佩裏に太鏨大振りの二字銘「重次」をきり、説明書はこれを古青江の典型と読んで「古青江の特色がよく明示されている」[[c:1]]とする。重次は備中国青江派の初期、すなわち古青江の刀工である。説明書は本工を、銘鑑に俊次の子と伝え鎌倉中期の文永(一二六四~七五)頃に置かれる工に該当するとし、ある太刀には「この重次は銘鑑に俊次の子、鎌倉時代中期、文永(一二六四~七五)頃と伝える刀工に該当するであろう」[[c:2]]と素直に記す。一派は承安頃の安次を祖と伝え、ほぼ鎌倉中期を降らないものを特に古青江と呼ぶ。説明書はその代表工に守次・為次・次家・恒次・俊次・助次そしてこの重次らを挙げ、その多くが「次」を通字とする。
現存する作は太刀で、細身に姿よく腰反り高く踏張りつき、生ぶ茎を留めるものが数口ある。本工を分かつ手は穏やかなものである。板目に杢を交え、時に小板目つみてやや肌立つ地鉄は、鉄色やや黒く澄肌ごころとなり、青江の地である地斑状の肌合と地斑を交え、地沸細かにつき、最も詳述された作では地中に明瞭な乱れ映りが立つ。その地に対し刃文は穏やかで古調、直刃を基調に浅くのたれ、小互の目・小丁子を交えた小乱れとなる。足・葉よく入り、沸厚く処々一際強くつき、金筋・砂流しが刃中に頻りにかかる。帽子は直ぐに先焼詰め風となって細かに掃きかける。説明書はその出来を古調でよく沸づくとし、働きは大きな丁子の房ではなく小さな逆がかりの刃とその刃中の働きに托されるとする。
地鉄こそ一派の最もよく現われるところである。やや黒い鉄色、澄肌と地斑、縮緬状の肌合は、同時代備前のより明るく澄んだ小板目に対する青江の地であり、説明書はその対比を直に引いて、古青江の作を「総じて同時代の備前物に比べると幾分地味で渋い味わいを醸す」[[c:3]]と評する。その地に対し刃文は比較的おだやかにとどまる。説明書は最も詳述された作を「刃文が古調で、よく沸づき」[[c:4]]、足・葉や金筋・砂流しの働きを見せると称え、華やかならぬ味わい深い作風とする。
もっとも、その記録のすべてが静かなわけではない。磨上の二字銘の太刀の一口は、匂出来でやや小沸づいた濃密な重花丁子乱れに開き、地鉄は板目やや肌立ちごころに澄肌が現われ映りごころがある。説明書は、穏やかな直刃調の作と引き較べて現存作の銘振りと作風が互いに異なることを指摘し、働きがここではより豊かな丁子乱れに開くとする。この一口は天文十年に福井右京亮惟宗忠能が磨上げた旨の切付銘を留め、初期の手の上に後年の確かな来歴を重ねる。
極めの言うところは、本工を両隣からのみならず、その一派の掟のうちにあっても分かつ。古備前の明るく澄んだ鉄に対し、やや黒い地鉄に澄肌・地斑を交えるのは青江の地と読まれ、また一派の掟に対しても説明書は示唆に富む例外を記す。戦前の重要美術品の三口の太刀はいずれも銘を佩表にきり、説明書はこれを「古青江ながら例外的に太刀銘になっている」[[c:5]]とするのに対し、重要刀剣の太刀は通常の古青江の通り銘を佩裏に位置し、茎を大筋違に鑢をかける。銘の位置と鑢目こそ、説明書が古備前と相違する一派の見どころと名指し、極めの拠り所として挙げるところである。本工は青江初期の名工に列し、鎌倉備前の華やかさに対する備中の静かな対極に立つ。
収集の観点では、稀な初期の名であり、藤代の極めは上々作である。国宝はなく、重要文化財もない。その記録は戦前の重要美術品三口と重要刀剣一口、合わせて四口の指定作を通じ、説明書は現存作を貴重として「現存稀な重次の作例は貴重であり」[[c:6]]、しかも「同工を研究する上で資料的価値も高い」[[c:7]]とする。その来歴は大名家に確かである。三字「重次作」の太刀は紀州徳川家に伝来して後に本阿弥光遜の所有に帰し、いま一口は徳川家を経て徳川家達に伝わり、さらに一口は神奈川の宮崎富次郎が蔵した。遺例わずかにして在銘の古青江重次が世に出ることは稀であり、私蔵の一口は収集家にとって注目すべきもの、青江一派がその最初期にいかに鍛えたかを語る証として、飾りよりも資料として貴ばれる。
重次の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
備前伝 · 備中
時期区分: 古青江· 1100–1235
現在3点販売中
古青江は、備中国高梁川下流域の青江・万寿の地を本拠とした青江派のうち、平安時代末期から鎌倉時代中期頃までのものを特に汎称する一作風期である。備中国は古くより鉄の産地として知られ、十一世紀初頭の往来物『新猿楽記』も諸国の名産物を列記する中に「備中ノ刀」を挙げており、その高い評価を受けつぐ刀工が高梁川下流域の子位庄・万寿庄を中心に活躍した。青江派は承安頃の安次を祖として始まると伝え、以後南北朝時代後期に至るまで大いに繁栄したが、その初期にあたるこの一群が古青江である。代表的な刀工としては守次・為次・次家・次忠・貞次・康次・包次・恒次・俊次・助次・守利等がおり、その多くが「次」の字を通字としている。これに対し、則高・正恒・安家・守恒など「次」の字を用いない妹尾鍛冶も同国に存し、両者は今日一括して青江鍛冶と呼称される。 作風は、鍛えに杢目が目立ち、やや肌立ち気味で、いわゆる縮緬状の肌合となる点に最大の標識がある。板目に杢を交え、総体に細かく肌立って縮緬肌を呈し、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入り、澄肌や地斑を交えるものが多い。映りは地斑映り風あるいは乱れ映りとなって立つ。刃文は直刃を基調とし、小乱れ・小丁子・小互の目などを交え、足・葉がよく入り、よく沸づき、金筋・砂流しが細かにかかる。匂口は沈みごころとなるものが多いが、中には締まりごころに明るく冴えるものもある。帽子は直ぐに小丸ごころ、あるいは掃きかけて焼詰め風となる。総じて同時代の備前物に比べると幾分地味で渋い味わいを醸す点に一派の特色が窺われる。茎の様式も診処として重要であり、銘を佩裏に切り、鑢目が大筋違となる点は古備前などと相違するところである。 評価において、古青江は同時代の古備前物に類似しつつも、縮緬肌と沈みごころの匂口に独得の渋い雅味を有し、日本刀の一作風期として古来高く重んじられてきた。康次には童子切安綱・大包平らと共に天下五剣の一に列する島津家重代の長寸の太刀があり、これは古青江としては無類の大出来で華やかな乱刃を示す名物として名高い。恒次には日蓮上人護法の太刀として知られる「名物数珠丸」がある。貞次・恒次・次家は後鳥羽院番鍛冶に数えられ、その名跡は青江鍛冶の主流として南北朝期まで継承された。守次は安次の子と伝え、爾来同銘が南北朝時代まで続き、その銘字には逆鏨を交えた打ち込みの強い楷書風のものから暢達な草書風のものまで数種が知られる。現存する有銘作は概して僅少であり、生ぶ在銘の遺例は資料的にも頗る貴重とされる。地刃の健全な作例は、同派及び各工を研究する上で資料的価値が極めて高く、深い味わいをもって今日なお珍重されている。 詳しく見る →
鎌倉時代の備前
鎌倉時代は備前の頂点である。伝えでは一文字派の工が後鳥羽上皇の御番鍛冶に列し、世紀の半ばには光忠が長船派を興して、注文は公家からも武家政権からも流れ込んだ。国宝刀剣の数で備前に並ぶ国はない。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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