相州伝は新興の都市に生まれた。武家政権の都、身分高い注文主のひしめく鎌倉である。伝えでは名工が東に召され、その門流から新藤五国光が、次いで正宗が出た。
刃渡り(長さ) 70.0センチ 反り 2.3センチ 元鎬厚 7.2ミリ 元重ね6.0ミリ 先鎬厚 4.8ミリ 先重ね4.0ミリ 元幅 28.9ミリ 先幅 20.1ミリ 刀身重量773g ハバキ 銀二重 目釘穴 2個(元太刀) 庵棟 鑢目 勝手下がり 刃文 湾れ調に互の目小乱れ尖り刃入り小沸となる地沸付き僅かに棒映り立つ 金筋・稲妻・砂流し良く働き、葉・足盛んに入る 帽子 火焔 鍛え 杢交る大板目、肌立つ 寸法、グラムは約でご理解ください。刃渡り・反りなど登録書を映しております。 銘文 なし 日刀保鑑定 宇多国宗(特別保存 時代応永頃) NPO保存会鑑定 青江長次(時代 応永頃) 鞘書き極め 越中國則重(時代 鎌倉後期) 説明 </noscript><iframe title="【限定公開】刀 無銘 刃渡り70.0cm 反り2.3cm 元鎬厚7.2mm 元重ね6.0mm 先鎬厚4.8mm 先重ね4.0mm 元幅28.9mm 先幅20.1mm 約600年以上前の古刀" width="500" height="281" data-src="https://www.youtube.com/embed/c45a--ds63w?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" referrerpolicy="strict-origin-when-cross-origin" allowfullscreen class="lazyload" > ↓ここに画像が表示されます。(通信環境により数十秒ほどかかる場合もございます。) 1/3 2/3 3/3 刀の出来で購入される方におすすめする一振りです。 本刀は気品と品格あり、覇気に加え落ち着いた雰囲気を醸し出す、古名刀独特の重厚な存在感を漂わせます。 しかしながら極めについては各会見解分かれる鑑定難の結果となってしまいました。(すっきりしないため売れ行き次第で重要研ぎを施し再度チャレンジも検討しております) 時代推測については鞘書き極めの則重で見れば鎌倉末期頃、協会、保存会の見解では室町初期(応永頃)となりました。 体配で見ると南北朝時代付近であり、刀剣学上では時代の境目で急な変化はないとされておりますので南北朝の前で見れば鎌倉、後でみれば室町初期となります。 このあたりの時代に絞り、作風から鑑定していき見解が分かれたと見受けられます。 このような極めが難しい刀は特に研磨で鑑定に変化することがありますので、重要研ぎを施せば、しっかりと絞られる可能性が高いです。 以下は見解がそれぞれ分かれました極めについて簡単なご説明をさせていただきます。 青江長次について 長次は備中青江派最後の刀工で、現存する作は少なく、その中で文和年紀と応永年紀のものが残されております。 作風は穏やかな直刃、あるいは華やかな丁子乱れを焼くが、南北朝前期の青江とは異なり、逆丁子にならない点に特色があると言われる。 青江派の刀に「にっかり青江」として有名な話があるので記載します。 にっかり青江について Wikipediaから引用 南北朝時代に備中青江派によって作られた刀である。青江派は平安時代末期から南北朝時代にかけて備中国で活躍した刀工集団であり、主な刀工には天下五剣の一つである数珠丸を鍛えた恒次がいる。にっかり青江は青江派の時代区分のうち中青江(ちゅうあおえ)に分類されており、青江貞次によって作られたものとされている。にっかり青江の名前の由来は、ある武士が夜道を歩いていた際に、にっかり笑う女の幽霊を切り捨てて、翌朝確認をしたら石塔が真っ二つになっていたという伝説による。斬ったとされる武士は、中島修理太夫・九理太夫兄弟、浅野長政の家臣など諸説がある。この武士から柴田勝家に所有が移り、子の柴田勝敏に譲られた。さらに勝敏を討った丹羽長秀から豊臣秀吉に献上され、子の豊臣秀頼から大坂冬の陣の和議の礼として京極忠高に与えられたと考えられる。 Wikipediaから引用終わり 越中国則重について 越中則重は 刀剣要覧、日本刀工辞典 の位でそれぞれ一番上の一位と最上作の刀工となります。 越中国婦負郡呉服の住と伝えらえ、「呉服郷」と呼称があり、室町時代の刀剣の喜阿弥本では新藤五国光門下説と江戸期の刀剣書の古今銘尽の正宗十哲説有り。 作風は行光・正宗に類似するといわれ、鍛肌に特色があり、大板目が肌立ちて地景が太く頻りに入り、「松皮肌」と称せられる同工独特の肌といわれている。 古伝書では「鉄ごしらえの上手なり、肌は一体ならず」と評している。 また他の特色として黒味をおびたものが多いといわれており、これは安綱をはじめとする古伯耆物の作柄を参考にしたと思われる風情のものか、古色があるといわれております。 宇多国宗について 古くの呼び名は宇津とも呼ばれておりました。 鎌倉時代末期の文保頃に、大和国宇陀郡から古入道国光が越中に移住して宇多派の祖となります。 国宗は国光の子で、国房の弟、同名数代続きます。 初代国房は則重に相州伝を学んだとされており、大和伝に、硬軟の鋼を組み合わせた松皮肌鍛と沸本位の活気ある湾れ刃の焼き入れ技法を採り入れており、南北朝時代の相州伝全盛期を代表する鍛冶で知られる。 宇多の作風は硬軟の鉄を組み合わせたという則重に酷似した出来が存在し、地沸が厚く付き、地景が激しく表れ鍛上げられた鉄味を生かした肌目の良く目立つ作が多いと言われる。 無銘の極めについて 江(郷)と則重は作風がかなり似ていると言われております。 鑑定で有名な本阿弥家の極めでは五月雨江(さみだれごう) と鑑定したものは元は宇多極めであったと言われ、 同じ本阿弥家でも刀剣研磨により鑑定の極めに変化があったことが示されおります。 このような鑑定例が存在するため、江、則重、宇多で繋がってしまうのも無理はないのかもしれません。 よって最上研磨を施せば、江に極まる可能性も0ではなく、そうなると重要刀剣は簡単に狙えることでしょう。 知っている人ほど夢ある一振りなのでございます。 売れ行き、資金状況により、弊社で最上研磨を施し、出世を計画中です。 それくらい手間をかけてもよい出来の良い御刀です。
無銘 · Uda · 延慶 · 長さ 70cm · 反り 2.3cm





Soshu / Etchu · 越中 · 1308-1314頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位2%
現在7点販売中
則重は鎌倉時代末期の越中の工で、新藤五国光の門人、行光・正宗とは兄弟弟子として相州伝を完成へ導いた。『古今銘尽』など江戸期の刀剣書は正宗十哲の一人に挙げるが、現存する正和・元応などの年紀や太刀・短刀の姿形からすれば、室町期の刀剣書のいう新藤五国光門下説が妥当で、正宗とは相弟子、あるいはやや先行とみるべきである。
常の作風はその名を負う松皮肌である。板目が大模様に肌立ち、杢を交え、太い地景が頻りに入って松皮の如き肌をなし、地沸厚く、かねは黒みを帯びる。諸書は相州上工中もっとも正宗に近いとしつつ、「正宗以上に沸の変化を露に表現」[[c:1]]したものが多いとし、刃中・地鉄ともに「千変万化の沸の働き」[[c:2]]をあらわすという。刃文はのたれに互の目を交えた沸出来で、匂口は沈みごころ、金筋・砂流しが烈しく働き、二重刃・湯走りを交える。帽子は単なる小丸ではなく、掃きかけて乱れ込み、時に尖り・焼詰め風となる。
いま一つ、精到で珍重される作風がある。在銘の太刀や前期の在銘短刀では地肌が常ほど肌立たず、整った小板目に締まって地刃ともに穏やかとなり、かねは一段と明るく冴え、地景・金筋は静かである。ある在銘太刀は「常の則重の作に比べて地刃共に穏やか」[[c:3]]と評され、小のたれ主調の底に則重特有の渦巻肌と地景を沈めてよく冴える。正和三年紀の在銘短刀は肌立たず明るく、「新藤五国光や行光につながる出来」[[c:4]]として前期作とされる。これは松皮肌の崩れではなく、別個の、そして高く評価される一面である。
鑑別の核は二様に共通する。太い地景、沈みごころの匂口、烈しい金筋・砂流し、そして掃きかける帽子である。沈む匂口は明るい備前と分かち、沸の変化の激しさと肌立ちは正宗と分かつ。藤代は最上作に列し、特別重要刀剣の指定数は全工中でも上位に位置する。在銘作は短刀が主で、太刀については、かつて「太刀は僅かに二口をかぞえるのみである」[[c:5]]と記されたが、指定品では今日、重要文化財二口・特別重要刀剣二口の計四口の在銘太刀が知られる。名物は豊臣秀吉より徳川綱吉を経て柳沢家へ、ほかに島津・前田・細川・井伊などの諸家を歴とし、国宝・重要文化財として動かぬものも多い。松皮肌は門人為継により越中へ受け継がれた。
則重の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
相州伝 · 相模
時期区分: 相州· 1288–1385
現在48点販売中
板目に杢を交えた地鉄に地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに織りなされて明るく冴える鍛え、これが相州(鎌倉後期から南北朝期にかけての相州伝の古典的全盛期)を貫く核である。この区分は始祖新藤五国光が粟田口由来の精緻な小板目と直刃の基盤の上に、地刃ともに沸を主体とする鍛えを据えたところに始まる。国光の門から行光、正宗、則重が出て技術が大成し、続いて正宗の系から養子貞宗、越中の郷義弘が出て、伝統が頂点に達した。さらに南北朝期に入ると相模国にあって時代的にも技術的にも貞宗の次に位置する広光と秋広が現れ、十四世紀後半まで本流が続く。鎌倉幕府の府たる鎌倉を母体とし、その滅亡から南北朝の動乱という時代背景のなかで、姿は身幅広く寸延びた豪壮なものへと推移していった。 作風は説示にいう板目に杢交じり、地沸厚くつき、地景頻りに入る鍛えを土台とし、刃文はのたれを基調に互の目を交え、匂口深く沸厚くつき、金筋・沸筋・砂流しが頻りにかかって匂口明るく冴える点にある。郷義弘の作では、正宗・則重に比べて地景・金筋は穏やかながら、刃中に沸足がよく働き、地刃が一段と明るく冴え、肌合に柾ごころを交え、帽子を一枚風に深く焼くのが見どころとされる。広光・秋広に至ると、板目が肌立ちごころとなり、丁子に互の目を交え、飛焼・棟焼を交えて皆焼となり、頭の丸い団子丁子を交える刃文がこの時代に始まる。これらは母体である粟田口の抑制された直刃の源流からは遠く隔たり、沸の働きを前面に押し出した展開である。一方、後続の末相州(室町期の継続と衰退)が、こうした皆焼や帽子の一枚焼きといった形を継承しつつ地刃の冴えと沸の質を次第に薄めていくのに対し、本区分は地刃ともに明るく冴え、働きが豊富である点で截然と区別される。秋広の彫物が後の正広・広正、さらに室町末期の相州鍛冶の先駆となったことも、本区分が型を確立した側であることを示す。 収集家がこの区分を別格とするのは、正宗を頂点に、貞宗、そして正宗十哲の筆頭に挙げられる郷義弘という頂の刀工を擁するからである。鑑定上の要点は、郷義弘・貞宗ともに在銘作が皆無であるため、地刃の明るい冴え、沸足の働き、柾ごころ、一枚風に深く焼く帽子といった作域から極めることにある。代表作には金象嵌銘の兜切り江や名物中川江があり、宇和島伊達家、小田原藩大久保家、薩摩の島津家など大名家への伝来が説示に記される。秋広には延文二年から至徳四年に及ぶ年紀作があり、銘の切り方の変遷とともに資料的価値を支えている。 詳しく見る →
鎌倉時代の相州
相州伝は新興の都市に生まれた。武家政権の都、身分高い注文主のひしめく鎌倉である。伝えでは名工が東に召され、その門流から新藤五国光が、次いで正宗が出た。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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