幕末に一世を風靡した荒木東明、粟穂図の作品。 荒木東明は文化十四年に生まれ、後藤東乗、後藤一乗に学び、それぞれから「東」「一」の工名を許されて一斎東明と銘している。彼は京都の画家林蘭雅について下絵を学び、代名詞とも言える粟穂の彫刻は蘭雅との研究により考案された物と言われており、その出来の素晴らしさから古今独歩の作品として今なお多くの愛好家を魅了して珍重されている。 本作は彼の得意とした粟穂図の二所物で、古来人気の高い同図の作品の中でも特に粟穂の状態が良く、かつ東明が本作を注文者に納品した際に使用したといわれる直筆の封書までもが残されているのは大変に珍しく貴重である。
荒木東明は、文化十四年に京都で生まれ、十三歳の時、後藤東乗に師事し「東」の一字を許され東明と名乗り、後に後藤一乗の門に学び「一 斎」の工名を許されて一斎東明と銘している。京都の画家林蘭雅について下絵を学び、特技である粟穂の彫刻は蘭雅との研究により考案された ものといわれ、この粟穂をもって当時から著名であったという。 本作は、その粟穂を手掛けた作品であり、粟穂は七粒の円錐形を成して一花とし、穂先が鋭く、周囲へと零れんばかりに咲くその風情は、正 に東明の独壇場である。 赤銅魚子地に粟穂を高彫象嵌、金色絵で暢達にあらわしており、 粟穂や枝葉のたおやかさが随一である。 なおこの作には、吟松亭東明銘で自筆の封書が附帯している。














東明
江戸(1817–1870)
在銘
第51回重要刀装具 (NBTHK)
荒木東明は、文化十四年に京都で生まれ、十三歳の時、後藤東乗に師事し「東」の一字を許され東明と名乗り、後に後藤一乗の門に学び「一斎」の工名を許されて一斎東明と銘している。京都の画家林蘭雅について下絵を学び、特技である粟穂の彫刻は蘭雅との研究により考案されたものといわれ、この粟穂をもって当時から著名であったという。 本作は、その粟穂を手掛けた作品であり、粟穂は七粒の円錐形を成して一花とし、穂先が鋭く、周囲へと零れんばかりに咲くその風情は、正に東明の独壇場である。 赤銅魚子地に粟穂を高彫象嵌、金色絵で暢達にあらわしており、 粟穂や枝葉のたおやかさが随一である。 なおこの作には、吟松亭東明銘で自筆の封書が附帯している。
家彫 · 山城
現在7点販売中
荒木東明は文化十四年(一八一七)に京都で生まれ、十三歳の時、後藤東乗に師事し「東」の一字を許されて東明と名乗った。後に後藤一乗の門に学び「一斎」の工名を許されて一斎東明と銘し、吟松亭とも号した。ある説明は彼を「幕末金工界の大御所、後藤一乗門の高弟」[[c:1]]と記す。京都の画家林蘭雅について下絵を学び、特技である粟穂の彫刻は蘭雅との研究により考案されたものといわれ、この粟穂をもって当時から著名であったという。
粟穂は東明の名声のすべてである。説明は、粟穂は七粒の円錐形を成して一花とし、穂先が鋭く、周囲へと零れんばかりに実るとし、ある脇指拵では粟穂の実は三条に連なって中央が一段と盛上り、特殊鏨を打込んで立体的に表現したと記す。特別重要刀装具の大小揃金具については、その風情を「正に東明の真骨頂である」[[c:2]]とする。また、この彫技を真似て数多くの粟穂作品が制作されているが「如何なる名工も東明の技に到達出来ず」[[c:3]]とし、他の金工中、粟穂に関する限りでは「古今、東明に及ぶものがない」[[c:4]]と評する。
素材は後藤系の修業に由来する正統のもので、多くは赤銅魚子地に高彫色絵、金・素銅の据紋を施し、小柄は裏哺金、目貫は金無垢地容彫とする。特別重要刀装具の揃金具では赤銅に独特の石目を打ち、素銅魚子地の作もあり、細工の困難とされる朧銀魚子地を用いた合口拵は一段と貴重とされる。鉄地の大小鐔では、大に旭日、小に夕月の粟穂を高彫色絵象嵌であらわす。縁の天上板の時雨鑢は「師一乗譲りの技である」[[c:5]]とされ、縁頭の天井や口部の鑢にも一乗一門の特色が表れる。一方で、一乗門と伝えながら「一乗とはやや趣を異にし」[[c:6]]、殊に粟穂を得意としたとも記される。
粟穂のまわりには雀・鶉、鳴子・破れ菅笠・箕・手籠を配して農地の情景をあらわし、秋に色変わりした葉を金と素銅で表現する。東明後期の一斎銘の大小鐔では、朝靄の中を昇る太陽と粟穂を啄む雀・鶉を四面に描く。粟穂を離れた作もあり、赤銅に「細やかな絹の縮緬地に見紛うばかりの地荒らし」[[c:7]]を施した大小鐔には富岳と南極老人、月下の幽渓を漢詩とともに高彫色絵し、また大黒天・毘沙門天の留守模様の大小縁頭がある。説明はこれらを東明得意の粟穂作品ではないとしつつ、良質の赤銅と精密な彫技を賞する。
銘は一斎東明、吟松亭東明に花押を添えるものが多く、同作中数少ない「荒秀信」銘は資料的に貴重とされる。特別重要刀装具の揃金具には一斎東明と東明荒秀信の二通りの銘がある。安政五年春の年紀を切る合口拵があり、吟松亭東明銘の自筆の封書を附帯する二所物もある。作品は揃金具が多く、柴田是真の蒔絵と取り合わされた小さ刀拵もある。ある脇指拵は「華麗と渋みが程良く調和されたいかにも京風の上品な脇指拵である」[[c:8]]と評される。門人の名は記されていない。
東明の指定作は三十点で、うち一点の粟穂図大小揃金具が特別重要刀装具、他は重要刀装具である。国宝・重要文化財はない。この特別重要刀装具は『鏨迺花』所載で、龍獅堂の箱に納められ、明治三十七年の池田隆雄の箱書があり、ほかに三点が龍獅堂の箱に納まる。在銘の粟穂の揃金具は時に世に現れ、優れた一組は説明の言う「東明ここにあり」を示す。
東明の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
家彫 · Kyoto
現在35点販売中
一乗派は、後藤家の掉尾を飾る名工後藤一乗を中心として、幕末から明治にかけて京都に展開した金工の一門である。一乗は寛政三年に後藤家の分家七郎右衛門家四代重乗の子として生まれ、九歳で謙乗の養子となり、十一歳で半左衛門亀乗について彫技を学び、十五歳で家督を相続した。はじめ光貨・光行・光代と名乗ったが、文政七年、三十四歳の時に光格天皇の御剣金具を制作した功により法橋に叙せられて一乗と号し、さらに文久二年には光明天皇の御太刀金具を手がけ、翌年法眼に進んだ。その門下には、船田一琴・今井永武・橋本一至・中川一匠・和田一真の俊英が輩出し「五虎」と称せられ、実弟の光覧や荒木東明らとともに、当代屈指の活況を呈する工房を形成した。 一門の作風は、まず緻密な赤銅魚子地を共有の基盤とする。なかでも一乗の魚子は「絹目魚子」と呼ばれる温順緻密な地がねを特色とし、一匠の「絹魚子」もこれに連なる。その地の上に高彫を主とし、金・銀・赤銅・四分一・素銅などの色金を駆使した色絵・象嵌によって絵画的な図様を構築する点が、流派一貫の標識である。一乗は家彫の掟物たる竜・獅子の伝統を踏まえつつ、これを写生に転じて草花・虫・鳥・風景を品格高く彫り出し、一門の方向を定めた。この画趣は門下に広く受け継がれ、永武は四季の草花を多彩な色金で濃密華麗に仕上げ、一至は師に最も近しい細緻な花鳥図を得意とした。一琴は深浅自在の甲鋤彫において他の追随を許さず、一乗をして「我が及ばざるところ」[[c:1]]と嘆ぜしめ、竜の図に力感を示した。東明は京都の画家林蘭雅とともに粟穂の彫刻を考案し、立体的にこぼれんばかりの風情をあらわして独壇場をなした。一真は写実の動物表現に長じ、一匠は淡い消し象嵌や砂子象嵌に雅趣を凝らし、光覧は兄一乗に類しつつ細やかな風情で仕上げた。鐔の造込みや雲・波の表現、縁頭の鑢などにも師の特色が顕著であり、表裏に異なる地金を用いる昼夜鐔や、四季・故事・吉祥に取材した大小揃金具・総金具の大作が、この一門の高い技量を端的に示している。 一乗派の意義は、繊細緻密な彫技と高い品格とを兼備した点にある。御家彫たる後藤流の美点を近代的に昇華させたその作風は、典雅・流麗・格調高しと評され、門下に忠実に伝えられた。一琴の作は師に迫るものとされ、永武の草花図は後藤一乗の流れの特色を十全にあらわし、一至の作は「殆んど一乗とえらぶところのない優品」[[c:2]]と称えられた。高彫・片切彫・甲鋤彫・象嵌・色絵に至る金工技法を総合的に体現するこの一門は、後藤家伝統の最後の開花を示すものであり、その作の多くは今日重要刀装具に指定され、なお高く評価されている。 詳しく見る →
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,348口(約202口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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