政権は鎌倉にあったが、美意識はなお京都が定めた。粟田口派の梨子地肌は完璧の代名詞となり、来派は公家にも上級の武家にも大寺にも、堂々たる太刀を納めている。
来源国俊の重要美術品、稀少な銘振りに加えて、徳川藩政時代は播磨国姫路藩主本多忠国の所持刀として同家に伝来した同工傑出の一振り、『光山押形』及び『刀剣美術』所載品です。 来国俊は、国行の子として仁治二年(一二四一)に生まれ、同派中最初に『来』の字を冠した刀工で、以後皆がこれに倣いました。 銘に『来』を冠しない『二字国俊』時代の作を合わせると、国宝五口、重要文化財十八口、重要美術品三十七口を数えますが、これは勿論同派中最多であり、名実共に同派の最高峰と言えるでしょう。 作風は、二字国俊が国行を思わせる身幅しっかりとして、猪首切っ先の勇壮な姿に、丁子の目立つ華やかな乱れを焼くのに対して、来国俊は小切っ先で細身、若しくは中切っ先で尋常な姿で、直刃調に小模様の乱れを交えた温和な出来が多く見られます。 本作は来国俊の在銘太刀、源姓を添えた稀少な銘振りで、昭和十二年二月十六日(一九三七)、重要美術品に認定された同工傑出の一振りです。 重要美術品とは、昭和八年(一九三三)に制定された『重要美術品等の保存に関する法律』により認定された古美術品のことです。旧国宝保存法では保護の対象となっていなかった日本の古美術品(歴史上又は美術上、特に重要な価値があると認められた物件)を保護し、海外流出等を防止する目的です。 この法律は、昭和二十五年(一九五〇)八月、『文化財保護法』施行に伴い廃止されましたが、重要美術品に認定されていた物品に付いては、重要文化財の指定を受けるか、あるいは海外輸出が許可されるか(重要美術品取消し)のいずれかに該当するまで、その効力は有効です。 寸法二尺三寸八分弱、京反り姿の美しい鎌倉太刀で、身幅の割に重ね厚く、地刃はすこぶる健全です。 丁度生ぶ穴の上で磨り上げていますので、四寸程磨り上がっており、元来は二尺八寸近くあったことが分かります。 前述したように、『来源国俊』と源姓を添えた銘振りは大変稀少で、また重要美術品の短刀には、『源来国俊 文保二年三月(一三一八)』と切った作もあります。 本作には年紀はありませんが、探山先生鞘書きにもあるように、『国』の字形からして正和(一三一二~一七)年間の作であることが分かります。 小板目良く詰んだ精良な地鉄は、地沸微塵に厚く付き、沸映り立ち、細かな地景繁く入り、直湾れ調で小互の目、小丁子、小乱れを交えた焼き刃は、刃縁厚く沸付き、匂い深く明るく冴え、ほつれ、二重刃、食違い刃掛かり、刃中小足、葉繁く入り、部分的に京逆足交じり、金筋、砂流し掛かる出来です。 京逆足とは、備前丁子の逆足とは反対方向、つまり丁子の頭が切っ先の方へ向けて逆掛かるのが特徴で、京丁子の大きな見所となっています。 鞘書きには、『常の同工に比して、地刃の沸付き強く、持ち前の優雅な趣に活気の加わった感のある健体屈指の逸品也。』とあります。 古鞘には、『山城国来源国俊 光山押形所載 昭和十一子五月上浣研併記之(昭和十一年五月上旬、研ぎと併せて之を記す)』と平井千葉による鞘書きがあります。 平井千葉は、大正から昭和初期に掛けて活躍した研ぎ師及び刀剣鑑定家、本阿弥光遜と並ぶ本阿弥琳雅(成善)の高弟であり、人間国宝本阿弥日洲の実父に当たります。 初期には師である琳雅の穏やかで上品な技法を継承していましたが、やがて地鉄の良さを引出し、さらに強調するスタイルに変化、これは後に『平井研ぎ』と称され、どんなに出来の悪い刀であっても、平井が研ぐと見違えるほどの良品になると評されました。 本刀は『光山(こうざん)押形』所載品、『光山押形』は、刀剣鑑定家本阿弥光貞によって著された江戸期を代表する押形集の一つで、古刀の押形が二千七百振りほど掲載されています。書名の『光山』は、本来光貞の父の名ですが、これは大正六年(一九一七)に『中央刀剣会』から出版された際に、『光貞押形』とするべき所を誤って光山と名付けてしまったためです。この押形によると、本刀の押形が作成された江戸前期頃までは、『俊』の字の下部は今ほど切れておらず、その後に尻を若干詰めたことが分かります。 更に本刀は平成十四年(二〇〇二)、『刀剣美術』二月号の『名刀鑑賞』掲載品、『名刀鑑賞』と言えば、刀剣美術では毎回恒例、最初にある折り畳みページの刀剣です。その解説には、本刀は江戸前期~中期の播磨国姫路藩主、本多中務大輔(なかつかさのたいふ)忠国(一六六六~一七〇四)の所持刀であった旨が記されています。古い昭和二十六年登録証は、地元兵庫県登録です。 沸映りを伴うきめ細かく濃密な鍛え、刃縁明るく冴え渡る焼き刃等々、全てに於いて格調高い素晴らしい太刀です。 重要美術品の刀剣類は約千振りですが、この内の二~三割は行方知らずとも云われています。この数は減ることはあっても、増えることはありませんので、今後益々その希








Rai (Yamashiro) · 山城 · 1288-1319頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位1%
現在7点販売中
説明書は来国俊の記録を一つの確かな事実から書き起こす。すなわち「来派で最初に来の字を冠した刀工で、以後皆これに倣った」[[c:1]]。来国行の子と伝え、鎌倉時代末期の京に作刀し、その経歴は自身の銘から異例なほど読み取れる。年紀作は正応・永仁に始まり、しばらく途絶えた後、正和に再び現れて文保・元応・元亨に及ぶ。徳川美術館所蔵の正和四年(1315)紀の太刀には「七十五歳」の行年銘があり、元亨元年(1321)八十二歳の作がほぼ終末と見られる。この年紀群こそ鎌倉末期来派の編年の骨格を成す。
典型の手は来派本流の最も精錬されたものである。太刀は細身もしくは尋常の身幅に元先の幅差が目立ち、反りは腰反り、磨上のものは輪反りを呈し、小鋒・中鋒に結ぶ。刃文は小沸出来の中直刃・細直刃に小丁子・小互の目を交え、足・葉がよく入り、足は時に茎方向へ斜めに傾く京逆足となる。働きは静かで、処々に二重刃がかかり、細かな金筋・砂流しが刃中に入り、匂口は締まって明るい。帽子は穏やかな小丸に返り、先は僅かに掃きかける。説明書がこの総体に与える評は一貫して「いかにも京物らしい上品で穏やかな作風」[[c:2]]である。
極めの根拠の半ばは地鉄にある。鍛えは小板目がよく約み、地沸が厚く時に微塵につき、細かな地景を交えて沸映りが立つ。ある重要刀剣の説明は「殊に地鉄の精良さは特筆される」[[c:3]]と記す。所々に「来肌」と称せられる大模様の柔らかい肌合が交じり、短刀では流れて柾がかる箇所もあるが、いずれも疵ではなく一派の見どころとして受け取られている。よく約んだ小板目、その上の微塵の地沸、鮮明な沸映りの取り合わせこそ、無銘の作を同工に帰す際に説明書が立ち返る要点である。
公刊された記録のほぼ半数は短刀で、これは一派の他の初期の巨匠がほとんど手がけなかった作域である。説明書は、二字国俊の短刀の遺例が名物愛染国俊の唯一口であるのに対し、来国俊には多くの短刀が現存すると繰り返し記す。平造・三ツ棟、身幅尋常もしくはやや寸延びで、鎌倉末期特有の静かな内反りがつき、直刃は時に浅くのたれ、小丸帽子の返りはしばしば長く焼き下げ、区際を焼き込むことが多い。彫物は常習で、刀樋の傍らに細い腰樋や素剣を添え、この添え彫の手法は「来物に特有」とされる。直刃が主調を成す一方、丁子を焼く一群が華やぎの極限に立つ。その代表は国宝指定の太刀であり、第二十七回特別重要に上がった小太刀は、細身で腰反り高く、房の大きい丁子を交えて刃沸がよくつき、「同工作例中で最も華やかな作域」[[c:5]]を示し、「宛ら二字国俊を彷彿とさせる」[[c:6]]と評される。この彷彿こそ一派の古典的な問いの核心である。二字国俊と来国俊三字銘が同人か別人かは古来の論点であるが、両銘の年紀を合わせると弘安元年(1278)から元亨元年(1321)の約四十年に及び、一人の刀工の作刀期間として無理はなく、七十五歳の行年銘から逆算すれば二字国俊唯一の年紀作は三十八歳にあたる。そして「近年両者の作風・銘字の再検討による同人説が定着しつつあり、別人説の再考を促している」[[c:9]]。銘にはなお研究の種が残る。元応頃の銘字はやや草体となって晩年作か二代かが問われ、稀に源の字を添えた銘があり、島津齊宣の指料であった元亨二年折返銘の刀では国の字形が門人来国次の書風に一致し、「来国次の代銘した数少ない例」[[c:10]]と推察され、此の手の銘振りは三例を数えるという。
二字国俊との対比は同工の説明の定型である。豪壮な体配に猪首鋒、華やかな丁子主調の乱れを得意とする二字国俊に対し、三字銘の作は細身か尋常の体配に直刃あるいは直刃調に小模様の乱れを交え、総じて穏やかな出来口を示す。同人説が開かれたままであっても、両者の手は作域の上で区分できる。むしろ彼の隣人は派内にいる。最も静かな細直刃は「一見了戒に紛れる」[[c:7]]とされ、最も穏やかで大柄な短刀はまず来国光を思わせるが、「格調が一段高く」、極めは国俊に帰着する。門人の来国光・来国次は鎌倉末まで来派を担い、師弟の線の細さは、『名物帳』所収の「名物結城来国俊」が一見国光・国次を思わせると記されることにも表れている。
この位の巨匠としては異例なほど手の届く存在である。藤代の極めは最上作。国宝五口・重要文化財十一口を数え、その下に特別重要刀剣二十一口・重要刀剣百四十三口、両指定で百六十四口が立つ。在銘作が豊富で、ここでは在銘百三十四口に対し無銘九十一口であり、編年が書けるのもそのためである。十口は国宝・重要文化財の級にあって市場に出ることはなく、日光二荒山神社の小太刀はその一つである。徳川美術館は七十五歳の行年銘の太刀を蔵し、ほかに東京国立博物館・根津美術館・佐野美術館・黒川古文化研究所などに収まる。六十一口に伝来が録され、豊臣秀吉、将軍徳川秀忠・家光、尾張・紀州徳川家、前田家、上杉家、鹿児島島津家、信州松代真田家を経る。一方で三十六口が個人の所蔵と記録され、取引可能な重要刀剣の級にはなお多数が残るから、直刃の短刀や太刀、すなわち鎌倉末期山城物の最も純粋な形を示す一口は、真剣な収集家にとって現実に到達し得る目標であり続ける。対して丁子の作と年紀作は、事実上市場の外にある。
國俊の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
山城伝 · 山城
現在46点販売中
来派の作をまず見分けさせるのは地鉄である。精美によく約んだ小板目を主体に板目・杢・流れ肌を交えてよく錬れ、地沸が微塵に厚くつき、細かな地景が頻りに入り、沸映りが立って鉄が明るく冴える。処々に交じる柔らかく大模様の肌合は来肌と呼ばれ、疵ではなく一派の見どころとして受け取られている。この明るく精到な山城の鍛えこそ、来一門の作を貫く第一の標識である。 その出発点に位置するのが、鎌倉時代中期に山城国京都に活躍した来国行で、諸書のくり返し記すとおり事実上の祖と仰がれる。自身の作に年紀はないが、その子と伝える二字国俊に弘安元年(一二七八)の太刀があり、これに拠って正元・文応頃の活躍年代が首肯される。以後、二字国俊から三字銘の来国俊へ、さらに来国光・来国次へと血脈が継がれ、鎌倉末から南北朝前期にかけて一門は山城刀工の最上位を占めた。なお来国俊は来派で最初に「来」の字を冠した工であり、以後の一門が皆これに倣っている。二字国俊と三字銘来国俊の同人・別人は、両銘の年紀が弘安元年から元亨元年の約四十年に納まることなどから近年同人説が定着しつつあり、一門の古典的な論点をなす。 地鉄の上に来派の焼く刃は、備前の華やかな丁子ではなく、広直刃調を基調とする。これに小丁子・小互の目・小乱れを交え、足・葉が繁く入り、佩表の足が備前とは逆に茎の方へ斜めに傾く所謂京逆足となるところに京物の本領がある。匂深く明るく、小沸が厚くついて働きは刃の高さではなく沸に宿り、刃中に金筋・砂流しがかかる。帽子は小丸を主としながら掃きかけを伴うことが多く、この掃きかけは小丸と並ぶ第一の鑑別点に据えるべきものである。時代と系統による振幅も明瞭で、二字国俊は身幅広く猪首鋒に結ぶ豪壮な体配に丁子主調の賑やかな乱れを焼き、三字銘来国俊は細身か尋常の姿に締まった直刃の上品な作域を示す。末期の来国光は直刃に互の目を目立って交え作域が最も広く、来国次に至っては地刃の沸が一門で最も強く、のたれに互の目を交えた相州伝寄りの作風から鎌倉来と呼ばれ正宗十哲に数えられる。 収集家がこの一門を求めるべき所以は、まずその鑑定の勘所が明快なことにある。よく約んだ小板目に微塵の地沸と鮮明な沸映り、広直刃に京逆足、そして掃きかける帽子という積極的な特色が揃い、無銘極めの拠りどころが明文化されている。一門内の差も精密に引かれ、来国光は来国次に比して焼きが幾分低く突き上げ気味の帽子に個性を窺い、戸津来あるいは中堂来と呼ばれる光包は来肌の少ない強く冴えた地鉄と広く長く返る帽子で一門中の異色として立つ。代表作と伝来も厚く、来国行在銘の太刀は筑前黒田家に伝わって本阿弥光忠の千貫折紙と後藤家製の糸巻太刀拵を備え、名物愛染国俊・名物鳥飼国俊・名物乱光包をはじめ尾張紀州徳川家、前田家、上杉家、島津家、伊達家など大名家の蔵刀として珍重された。鎌倉末期山城物の最も純粋な姿を示す来派の作は、日本刀剣史において古刀山城の頂点に位置づけられ、真剣な収集家が現実に到達し得る目標であり続けている。 詳しく見る →
鎌倉時代の山城
政権は鎌倉にあったが、美意識はなお京都が定めた。粟田口派の梨子地肌は完璧の代名詞となり、来派は公家にも上級の武家にも大寺にも、堂々たる太刀を納めている。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
刀剣、刀装具、骨董等1点ものにつきましては、キャンセル待ちのお客様がおられる場合がございますので、ご返品のご連絡は商品到着後3日以内、ご返送は8日以内にお願いいたします。ご返金は商品ご返送到着後即日に致します。
来源国俊の重要美術品、稀少な銘振りに加えて、徳川藩政時代は播磨国姫路藩主本多忠国の所持刀として同家に伝来した同工傑出の一振り、『光山押形』及び『刀剣美術』所載品です。 来国俊は、国行の子として仁治二年(一二四一)に生まれ、同派中最初に『来』の字を冠した刀工で、以後皆がこれに倣いました。 銘に『来』を冠しない『二字国俊』時代の作を合わせると、国宝五口、重要文化財十八口、重要美術品三十七口を数えますが、これは勿論同派中最多であり、名実共に同派の最高峰と言えるでしょう。 作風は、二字国俊が国行を思わせる身幅しっかりとして、猪首切っ先の勇壮な姿に、丁子の目立つ華やかな乱れを焼くのに対して、来国俊は小切っ先で細身、若しくは中切っ先で尋常な姿で、直刃調に小模様の乱れを交えた温和な出来が多く見られます。 本作は来国俊の在銘太刀、源姓を添えた稀少な銘振りで、昭和十二年二月十六日(一九三七)、重要美術品に認定された同工傑出の一振りです。 重要美術品とは、昭和八年(一九三三)に制定された『重要美術品等の保存に関する法律』により認定された古美術品のことです。旧国宝保存法では保護の対象となっていなかった日本の古美術品(歴史上又は美術上、特に重要な価値があると認められた物件)を保護し、海外流出等を防止する目的です。 この法律は、昭和二十五年(一九五〇)八月、『文化財保護法』施行に伴い廃止されましたが、重要美術品に認定されていた物品に付いては、重要文化財の指定を受けるか、あるいは海外輸出が許可されるか(重要美術品取消し)のいずれかに該当するまで、その効力は有効です。 寸法二尺三寸八分弱、京反り姿の美しい鎌倉太刀で、身幅の割に重ね厚く、地刃はすこぶる健全です。 丁度生ぶ穴の上で磨り上げていますので、四寸程磨り上がっており、元来は二尺八寸近くあったことが分かります。 前述したように、『来源国俊』と源姓を添えた銘振りは大変稀少で、また重要美術品の短刀には、『源来国俊 文保二年三月(一三一八)』と切った作もあります。 本作には年紀はありませんが、探山先生鞘書きにもあるように、『国』の字形からして正和(一三一二~一七)年間の作であることが分かります。 小板目良く詰んだ精良な地鉄は、地沸微塵に厚く付き、沸映り立ち、細かな地景繁く入り、直湾れ調で小互の目、小丁子、小乱れを交えた焼き刃は、刃縁厚く沸付き、匂い深く明るく冴え、ほつれ、二重刃、食違い刃掛かり、刃中小足、葉繁く入り、部分的に京逆足交じり、金筋、砂流し掛かる出来です。 京逆足とは、備前丁子の逆足とは反対方向、つまり丁子の頭が切っ先の方へ向けて逆掛かるのが特徴で、京丁子の大きな見所となっています。 鞘書きには、『常の同工に比して、地刃の沸付き強く、持ち前の優雅な趣に活気の加わった感のある健体屈指の逸品也。』とあります。 古鞘には、『山城国来源国俊 光山押形所載 昭和十一子五月上浣研併記之(昭和十一年五月上旬、研ぎと併せて之を記す)』と平井千葉による鞘書きがあります。 平井千葉は、大正から昭和初期に掛けて活躍した研ぎ師及び刀剣鑑定家、本阿弥光遜と並ぶ本阿弥琳雅(成善)の高弟であり、人間国宝本阿弥日洲の実父に当たります。 初期には師である琳雅の穏やかで上品な技法を継承していましたが、やがて地鉄の良さを引出し、さらに強調するスタイルに変化、これは後に『平井研ぎ』と称され、どんなに出来の悪い刀であっても、平井が研ぐと見違えるほどの良品になると評されました。 本刀は『光山(こうざん)押形』所載品、『光山押形』は、刀剣鑑定家本阿弥光貞によって著された江戸期を代表する押形集の一つで、古刀の押形が二千七百振りほど掲載されています。書名の『光山』は、本来光貞の父の名ですが、これは大正六年(一九一七)に『中央刀剣会』から出版された際に、『光貞押形』とするべき所を誤って光山と名付けてしまったためです。この押形によると、本刀の押形が作成された江戸前期頃までは、『俊』の字の下部は今ほど切れておらず、その後に尻を若干詰めたことが分かります。 更に本刀は平成十四年(二〇〇二)、『刀剣美術』二月号の『名刀鑑賞』掲載品、『名刀鑑賞』と言えば、刀剣美術では毎回恒例、最初にある折り畳みページの刀剣です。その解説には、本刀は江戸前期~中期の播磨国姫路藩主、本多中務大輔(なかつかさのたいふ)忠国(一六六六~一七〇四)の所持刀であった旨が記されています。古い昭和二十六年登録証は、地元兵庫県登録です。 沸映りを伴うきめ細かく濃密な鍛え、刃縁明るく冴え渡る焼き刃等々、全てに於いて格調高い素晴らしい太刀です。 重要美術品の刀剣類は約千振りですが、この内の二~三割は行方知らずとも云われています。この数は減ることはあっても、増えることはありませんので、今後益々その希








Rai (Yamashiro) · 山城 · 1288-1319頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位1%
現在7点販売中
説明書は来国俊の記録を一つの確かな事実から書き起こす。すなわち「来派で最初に来の字を冠した刀工で、以後皆これに倣った」[[c:1]]。来国行の子と伝え、鎌倉時代末期の京に作刀し、その経歴は自身の銘から異例なほど読み取れる。年紀作は正応・永仁に始まり、しばらく途絶えた後、正和に再び現れて文保・元応・元亨に及ぶ。徳川美術館所蔵の正和四年(1315)紀の太刀には「七十五歳」の行年銘があり、元亨元年(1321)八十二歳の作がほぼ終末と見られる。この年紀群こそ鎌倉末期来派の編年の骨格を成す。
典型の手は来派本流の最も精錬されたものである。太刀は細身もしくは尋常の身幅に元先の幅差が目立ち、反りは腰反り、磨上のものは輪反りを呈し、小鋒・中鋒に結ぶ。刃文は小沸出来の中直刃・細直刃に小丁子・小互の目を交え、足・葉がよく入り、足は時に茎方向へ斜めに傾く京逆足となる。働きは静かで、処々に二重刃がかかり、細かな金筋・砂流しが刃中に入り、匂口は締まって明るい。帽子は穏やかな小丸に返り、先は僅かに掃きかける。説明書がこの総体に与える評は一貫して「いかにも京物らしい上品で穏やかな作風」[[c:2]]である。
極めの根拠の半ばは地鉄にある。鍛えは小板目がよく約み、地沸が厚く時に微塵につき、細かな地景を交えて沸映りが立つ。ある重要刀剣の説明は「殊に地鉄の精良さは特筆される」[[c:3]]と記す。所々に「来肌」と称せられる大模様の柔らかい肌合が交じり、短刀では流れて柾がかる箇所もあるが、いずれも疵ではなく一派の見どころとして受け取られている。よく約んだ小板目、その上の微塵の地沸、鮮明な沸映りの取り合わせこそ、無銘の作を同工に帰す際に説明書が立ち返る要点である。
公刊された記録のほぼ半数は短刀で、これは一派の他の初期の巨匠がほとんど手がけなかった作域である。説明書は、二字国俊の短刀の遺例が名物愛染国俊の唯一口であるのに対し、来国俊には多くの短刀が現存すると繰り返し記す。平造・三ツ棟、身幅尋常もしくはやや寸延びで、鎌倉末期特有の静かな内反りがつき、直刃は時に浅くのたれ、小丸帽子の返りはしばしば長く焼き下げ、区際を焼き込むことが多い。彫物は常習で、刀樋の傍らに細い腰樋や素剣を添え、この添え彫の手法は「来物に特有」とされる。直刃が主調を成す一方、丁子を焼く一群が華やぎの極限に立つ。その代表は国宝指定の太刀であり、第二十七回特別重要に上がった小太刀は、細身で腰反り高く、房の大きい丁子を交えて刃沸がよくつき、「同工作例中で最も華やかな作域」[[c:5]]を示し、「宛ら二字国俊を彷彿とさせる」[[c:6]]と評される。この彷彿こそ一派の古典的な問いの核心である。二字国俊と来国俊三字銘が同人か別人かは古来の論点であるが、両銘の年紀を合わせると弘安元年(1278)から元亨元年(1321)の約四十年に及び、一人の刀工の作刀期間として無理はなく、七十五歳の行年銘から逆算すれば二字国俊唯一の年紀作は三十八歳にあたる。そして「近年両者の作風・銘字の再検討による同人説が定着しつつあり、別人説の再考を促している」[[c:9]]。銘にはなお研究の種が残る。元応頃の銘字はやや草体となって晩年作か二代かが問われ、稀に源の字を添えた銘があり、島津齊宣の指料であった元亨二年折返銘の刀では国の字形が門人来国次の書風に一致し、「来国次の代銘した数少ない例」[[c:10]]と推察され、此の手の銘振りは三例を数えるという。
二字国俊との対比は同工の説明の定型である。豪壮な体配に猪首鋒、華やかな丁子主調の乱れを得意とする二字国俊に対し、三字銘の作は細身か尋常の体配に直刃あるいは直刃調に小模様の乱れを交え、総じて穏やかな出来口を示す。同人説が開かれたままであっても、両者の手は作域の上で区分できる。むしろ彼の隣人は派内にいる。最も静かな細直刃は「一見了戒に紛れる」[[c:7]]とされ、最も穏やかで大柄な短刀はまず来国光を思わせるが、「格調が一段高く」、極めは国俊に帰着する。門人の来国光・来国次は鎌倉末まで来派を担い、師弟の線の細さは、『名物帳』所収の「名物結城来国俊」が一見国光・国次を思わせると記されることにも表れている。
この位の巨匠としては異例なほど手の届く存在である。藤代の極めは最上作。国宝五口・重要文化財十一口を数え、その下に特別重要刀剣二十一口・重要刀剣百四十三口、両指定で百六十四口が立つ。在銘作が豊富で、ここでは在銘百三十四口に対し無銘九十一口であり、編年が書けるのもそのためである。十口は国宝・重要文化財の級にあって市場に出ることはなく、日光二荒山神社の小太刀はその一つである。徳川美術館は七十五歳の行年銘の太刀を蔵し、ほかに東京国立博物館・根津美術館・佐野美術館・黒川古文化研究所などに収まる。六十一口に伝来が録され、豊臣秀吉、将軍徳川秀忠・家光、尾張・紀州徳川家、前田家、上杉家、鹿児島島津家、信州松代真田家を経る。一方で三十六口が個人の所蔵と記録され、取引可能な重要刀剣の級にはなお多数が残るから、直刃の短刀や太刀、すなわち鎌倉末期山城物の最も純粋な形を示す一口は、真剣な収集家にとって現実に到達し得る目標であり続ける。対して丁子の作と年紀作は、事実上市場の外にある。
國俊の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
山城伝 · 山城
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来派の作をまず見分けさせるのは地鉄である。精美によく約んだ小板目を主体に板目・杢・流れ肌を交えてよく錬れ、地沸が微塵に厚くつき、細かな地景が頻りに入り、沸映りが立って鉄が明るく冴える。処々に交じる柔らかく大模様の肌合は来肌と呼ばれ、疵ではなく一派の見どころとして受け取られている。この明るく精到な山城の鍛えこそ、来一門の作を貫く第一の標識である。 その出発点に位置するのが、鎌倉時代中期に山城国京都に活躍した来国行で、諸書のくり返し記すとおり事実上の祖と仰がれる。自身の作に年紀はないが、その子と伝える二字国俊に弘安元年(一二七八)の太刀があり、これに拠って正元・文応頃の活躍年代が首肯される。以後、二字国俊から三字銘の来国俊へ、さらに来国光・来国次へと血脈が継がれ、鎌倉末から南北朝前期にかけて一門は山城刀工の最上位を占めた。なお来国俊は来派で最初に「来」の字を冠した工であり、以後の一門が皆これに倣っている。二字国俊と三字銘来国俊の同人・別人は、両銘の年紀が弘安元年から元亨元年の約四十年に納まることなどから近年同人説が定着しつつあり、一門の古典的な論点をなす。 地鉄の上に来派の焼く刃は、備前の華やかな丁子ではなく、広直刃調を基調とする。これに小丁子・小互の目・小乱れを交え、足・葉が繁く入り、佩表の足が備前とは逆に茎の方へ斜めに傾く所謂京逆足となるところに京物の本領がある。匂深く明るく、小沸が厚くついて働きは刃の高さではなく沸に宿り、刃中に金筋・砂流しがかかる。帽子は小丸を主としながら掃きかけを伴うことが多く、この掃きかけは小丸と並ぶ第一の鑑別点に据えるべきものである。時代と系統による振幅も明瞭で、二字国俊は身幅広く猪首鋒に結ぶ豪壮な体配に丁子主調の賑やかな乱れを焼き、三字銘来国俊は細身か尋常の姿に締まった直刃の上品な作域を示す。末期の来国光は直刃に互の目を目立って交え作域が最も広く、来国次に至っては地刃の沸が一門で最も強く、のたれに互の目を交えた相州伝寄りの作風から鎌倉来と呼ばれ正宗十哲に数えられる。 収集家がこの一門を求めるべき所以は、まずその鑑定の勘所が明快なことにある。よく約んだ小板目に微塵の地沸と鮮明な沸映り、広直刃に京逆足、そして掃きかける帽子という積極的な特色が揃い、無銘極めの拠りどころが明文化されている。一門内の差も精密に引かれ、来国光は来国次に比して焼きが幾分低く突き上げ気味の帽子に個性を窺い、戸津来あるいは中堂来と呼ばれる光包は来肌の少ない強く冴えた地鉄と広く長く返る帽子で一門中の異色として立つ。代表作と伝来も厚く、来国行在銘の太刀は筑前黒田家に伝わって本阿弥光忠の千貫折紙と後藤家製の糸巻太刀拵を備え、名物愛染国俊・名物鳥飼国俊・名物乱光包をはじめ尾張紀州徳川家、前田家、上杉家、島津家、伊達家など大名家の蔵刀として珍重された。鎌倉末期山城物の最も純粋な姿を示す来派の作は、日本刀剣史において古刀山城の頂点に位置づけられ、真剣な収集家が現実に到達し得る目標であり続けている。 詳しく見る →
鎌倉時代の山城
政権は鎌倉にあったが、美意識はなお京都が定めた。粟田口派の梨子地肌は完璧の代名詞となり、来派は公家にも上級の武家にも大寺にも、堂々たる太刀を納めている。
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