政権は鎌倉にあったが、美意識はなお京都が定めた。粟田口派の梨子地肌は完璧の代名詞となり、来派は公家にも上級の武家にも大寺にも、堂々たる太刀を納めている。
2026.10.31更新 特別保存、書き換え申請済 委託販売お預かり品 特別保存刀剣 来国行 来国行について 来国行(らいくにゆき)は来派の事実上の祖。 来派は鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて山城鍛冶として繁栄し、その中でも来国行、国俊、国光、国次が著名である。 他には、光包、了戒などがいる。 国行は来太郎と称し、銘文は「国行」と必ず二字銘できり、「年紀のあるもの」や、「来国行」の三字銘は慧眼せず。 来派の作風は国行によって創造され、子の二字国俊の作風に受け継がれ、後の世代、国俊や国光・了戒らにより同派の作品は昇華され全盛期を迎える。 国行の主な作品としては、国宝 太刀 銘 国行(明石国行)(刀剣博物館蔵)・重要文化財 太刀 銘 国行(小笠原家伝来)・重要文化財 太刀 銘 国行(小笠原家伝来)などがある。 (名品刀絵図聚成 田野邉道宏著書・古刀新刀刀工作風事典 深江泰正著書・重要刀剣図譜) 本刀、その来国行と極められた大変貴重な刀剣である。 商品の状態 *刃切れ・刃絡み・目視上の刃こぼれ・曲がり・撓え・膨れございません。 登録証照会済(内容相違なし)、鑑定書の照会済(R8年4月17日、内容相違なし) *時代による、汚れ、細かな擦れ傷,劣化等はご了承ください。写真を参考にしてください。






Rai (Yamashiro), Rai Kuniyuki · 山城 · 1259-1260頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位2%
現在2点販売中
来国行は、諸書がくり返し記すとおり「国行は、来派の事実上の祖であり」[[c:5]]、鎌倉時代中期に活躍した山城の工である。自身の作には年紀を有するものが皆無であるが、その子と伝える二字国俊に弘安元年(一二七八)の太刀があり、これに拠って通説の正元・文応頃という活躍年代が首肯される。在銘の太刀は比較的多く現存し、確実な短刀は二字国俊同様に僅か一口を数えるのみで、来一門の祖として山城来派の出発点に位置する。
姿は一様でない。「彼の太刀姿は、細身」[[c:6]]・尋常なもの・身幅たっぷりとして豪壮なものなど種々見られ、鋒は猪首風に結ぶのが通例である。生ぶ茎在銘の作は輪反り高く小鋒で優美であり、現存作の多くは大磨上無銘で、幅広・重ね厚く、磨上げながらも深い輪反りを保って堂々たる気品を示す。
地鉄は終始一貫している。精美な小板目を主体に、板目・杢・流れ肌を交えてよく錬れ、地沸が微塵に厚くつき、細かな地景が入り、沸映りが立って処々乱れ映り風を呈する。かねは強く冴え、いわゆる来肌の明るく精到な鍛えがまず目に映る見どころである。
この地に、国行は備前の華やかな丁子ではなく、広直刃調の刃を焼く。小丁子・小互の目・小乱れ・角ばる刃を交えて複雑に変化し、時には焼幅広く大模様の丁子乱れを交える作もあり、足・葉が繁く入って京逆足となるところも多く、匂深く明るく、小沸が厚くつき、刃中に金筋・砂流しがかかる。焼頭には小さな飛焼・湯走りが点じて雁股風をなし、棟焼を交えることもある。働きは刃の高さではなく沸に宿る。
帽子こそ見誤られやすい。単なる小丸ではない。返りは小丸が最も多いが、多くは掃きかけを伴い、地の働きが鋒へ続く。諸書はこれを「盛んに掃きかける」[[c:1]]と記し、また「先小丸やや尖りごころに返る」[[c:2]]とする。さらに「帽子は小さく乱れ込み、先尖りごころ」[[c:3]]となるものも多く、時に尖り、時に焼詰め風となる。小丸と乱れ込みだけを挙げる見方は、これにしばしば伴う掃きかけを取りこぼしており、鑑別では掃きかけを小丸と並ぶ第一の特色に据えるべきである。
来派の祖たるにふさわしく、伝来も重い。在銘の特別重要刀剣の太刀は筑前黒田家に伝わり、元禄十四年(一七〇一)「本阿弥光忠」の代金子千貫の折紙と後藤家製の糸巻太刀拵を附帯する。ほかに大磨上の一口は薩摩島津家に伝来し、銘振りは小笠原家旧蔵の作に比して理解され、徳川家にも及ぶ。国宝一口・重要文化財十五口を遺し、後者には久能山東照宮の在銘太刀二口のほか、伊佐爾波神社・作楽神社・徳川美術館・藤田美術館に蔵されるものがある。その上、特別重要刀剣と重要刀剣を合わせれば凡そ百口に達して、古刀山城の最上位に列し、自在に取引し得る作は稀有である。
國行の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
山城伝 · 山城
現在30点販売中
来派の作をまず見分けさせるのは地鉄である。精美によく約んだ小板目を主体に板目・杢・流れ肌を交えてよく錬れ、地沸が微塵に厚くつき、細かな地景が頻りに入り、沸映りが立って鉄が明るく冴える。処々に交じる柔らかく大模様の肌合は来肌と呼ばれ、疵ではなく一派の見どころとして受け取られている。この明るく精到な山城の鍛えこそ、来一門の作を貫く第一の標識である。 その出発点に位置するのが、鎌倉時代中期に山城国京都に活躍した来国行で、諸書のくり返し記すとおり事実上の祖と仰がれる。自身の作に年紀はないが、その子と伝える二字国俊に弘安元年(一二七八)の太刀があり、これに拠って正元・文応頃の活躍年代が首肯される。以後、二字国俊から三字銘の来国俊へ、さらに来国光・来国次へと血脈が継がれ、鎌倉末から南北朝前期にかけて一門は山城刀工の最上位を占めた。なお来国俊は来派で最初に「来」の字を冠した工であり、以後の一門が皆これに倣っている。二字国俊と三字銘来国俊の同人・別人は、両銘の年紀が弘安元年から元亨元年の約四十年に納まることなどから近年同人説が定着しつつあり、一門の古典的な論点をなす。 地鉄の上に来派の焼く刃は、備前の華やかな丁子ではなく、広直刃調を基調とする。これに小丁子・小互の目・小乱れを交え、足・葉が繁く入り、佩表の足が備前とは逆に茎の方へ斜めに傾く所謂京逆足となるところに京物の本領がある。匂深く明るく、小沸が厚くついて働きは刃の高さではなく沸に宿り、刃中に金筋・砂流しがかかる。帽子は小丸を主としながら掃きかけを伴うことが多く、この掃きかけは小丸と並ぶ第一の鑑別点に据えるべきものである。時代と系統による振幅も明瞭で、二字国俊は身幅広く猪首鋒に結ぶ豪壮な体配に丁子主調の賑やかな乱れを焼き、三字銘来国俊は細身か尋常の姿に締まった直刃の上品な作域を示す。末期の来国光は直刃に互の目を目立って交え作域が最も広く、来国次に至っては地刃の沸が一門で最も強く、のたれに互の目を交えた相州伝寄りの作風から鎌倉来と呼ばれ正宗十哲に数えられる。 収集家がこの一門を求めるべき所以は、まずその鑑定の勘所が明快なことにある。よく約んだ小板目に微塵の地沸と鮮明な沸映り、広直刃に京逆足、そして掃きかける帽子という積極的な特色が揃い、無銘極めの拠りどころが明文化されている。一門内の差も精密に引かれ、来国光は来国次に比して焼きが幾分低く突き上げ気味の帽子に個性を窺い、戸津来あるいは中堂来と呼ばれる光包は来肌の少ない強く冴えた地鉄と広く長く返る帽子で一門中の異色として立つ。代表作と伝来も厚く、来国行在銘の太刀は筑前黒田家に伝わって本阿弥光忠の千貫折紙と後藤家製の糸巻太刀拵を備え、名物愛染国俊・名物鳥飼国俊・名物乱光包をはじめ尾張紀州徳川家、前田家、上杉家、島津家、伊達家など大名家の蔵刀として珍重された。鎌倉末期山城物の最も純粋な姿を示す来派の作は、日本刀剣史において古刀山城の頂点に位置づけられ、真剣な収集家が現実に到達し得る目標であり続けている。 詳しく見る →
鎌倉時代の山城
政権は鎌倉にあったが、美意識はなお京都が定めた。粟田口派の梨子地肌は完璧の代名詞となり、来派は公家にも上級の武家にも大寺にも、堂々たる太刀を納めている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト¥3,000,000