説明

Stock number:KA-121022Paper(Certificate):[N.B.T.H.K] Juyo TokenCountry・Era:Yamashiro (Kyoto)・Late Kamakura period about 1288~Blade length(Cutting edge): 70.8cmCurve(SORI): 1.8cmWidth at the hamachi(Moto-Haba): 2.55cmWide at the Kissaki(Saki-Haba): 1.4cmHabaki: Two parts, gold foil HabakiSword tang(Nakago): Kiriyasuri file patternRivet Holes(Mekugiana): 4Registration Card: Tokyo【Additional Information】【重要刀剣図譜より】 【In Japanese】法量長さ七〇・八糎 反り一・八糎 元幅二・五五糎 先幅一・四糎 鋒長さ二・〇糎 茎長さ一九・八糎 茎反り〇・三糎形状鎬造、庵棟、身幅細身、元先の幅差少しくつき、重ね頃合、反り深く輪反り状つき、小鋒。鍛板目肌、処々杢交えてつみ、部分的に肌目立ち、少しく地斑調の肌合交じり、地沸微塵に厚くつき、地景よく入り、極く淡く映り立つ。刃文中直刃、沸出来、匂口明るく冴える。帽子直ぐ、先小丸、長めに返る。彫物表裏に棒樋と添樋を角止め。茎大磨上、先殆ど切り、鑢目(上半)切り・(下半)朽ちて不明瞭、目釘孔四、無銘。説明国俊は来国行の子と伝え、二字国俊と来国俊三字銘とがあり、同人・別人の両説が唱えられ未だ定説には至っていないが、両者の作風にはある程度の相違が認められ、作風上に於いては区分することが可能である。二字国俊の体配は、身幅が広く亥首鋒の豪壮なものが多く、丁子の目立つ華やかな乱れを焼いているのに対し、来国俊三字銘のものは細身・小鋒か、身幅尋常・中鋒の姿態に、直刃或は直刃調に小模様の乱れを交えた刃文を焼き、総じて穏和な出来口のものが一般的である。但し両者は現存する制作年紀の上からは年代的に無理はなく、近年両者の作風・銘字の再検討による同人説が定着しつつあり、別人説の再考を促している。本作は、大磨上ながらも輪反り状が深くつき、小鋒に結んだ姿に、地鉄は板目肌に処々杢交えてつみ、地斑調の肌合いが交じって地沸が微塵に厚くつき、地景よく入り、極く淡く映りが立ち、刃文は沸出来の直刃を焼くなど、極めが首肯される処である。とりわけ、緩みのない精良な鍛えに、匂口明るい端正な直刃を焼き、直ぐに小丸に返った品の良い帽子を示すなど、来国俊の見どころがよく示された典雅な趣のある一口である。加えて、この刀は大徳川家の『御腰物元帳』に由来と併せて記載されており、『寛政重修諸家譜』にも下野大田原藩五代藩主大田原純清の時代に、父典清の遺物として本作を徳川家へ献上した旨の記述があるなど伝来が詳らかであり、武家社会の贈答儀礼の証左ともなるなど資料性の点でも評価が高い。

Katana [Mumei Rai Kunitoshi][N.B.T.H.K] Juyo Token
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Katana [Mumei Rai Kunitoshi][N.B.T.H.K] Juyo Token

売却済

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仕様

長さ

70.8 cm

反り

1.8 cm

元幅

2.55 cm

先幅

1.4 cm

作者について

Rai Kunitoshi國俊

5 国宝7 重要文化財28 重要美術品4 御物21 特別重要刀剣143 重要刀剣

説明書は来国俊の記録を一つの確かな事実から書き起こす。すなわち「来派で最初に来の字を冠した刀工で、以後皆これに倣った」。来国行の子と伝え、鎌倉時代末期の京に作刀し、その経歴は自身の銘から異例なほど読み取れる。年紀作は正応・永仁に始まり、しばらく途絶えた後、正和に再び現れて文保・元応・元亨に及ぶ。徳川美術館所蔵の正和四年(1315)紀の太刀には「七十五歳」の行年銘があり、元亨元年(1321)八十二歳の作がほぼ終末と見られる。この年紀群こそ鎌倉末期来派の編年の骨格を成す。 典型の手は来派本流の最も精錬されたものである。太刀は細身もしくは尋常の身幅に元先の幅差が目立ち、反りは腰反り、磨上のものは輪反りを呈し、小鋒・中鋒に結ぶ。刃文は小沸出来の中直刃・細直刃に小丁子・小互の目を交え、足・葉がよく入り、足は時に茎方向へ斜めに傾く京逆足となる。働きは静かで、処々に二重刃がかかり、細かな金筋・砂流しが刃中に入り、匂口は締まって明るい。帽子は穏やかな小丸に返り、先は僅かに掃きかける。説明書がこの総体に与える評は一貫して「いかにも京物らしい上品で穏やかな作風」である。 極めの根拠の半ばは地鉄にある。鍛えは小板目がよく約み、地沸が厚く時に微塵につき、細かな地景を交えて沸映りが立つ。ある重要刀剣の説明は「殊に地鉄の精良さは特筆される」と記す。所々に「来肌」と称せられる大模様の柔らかい肌合が交じり、短刀では流れて柾がかる箇所もあるが、いずれも疵ではなく一派の見どころとして受け取られている。よく約んだ小板目、その上の微塵の地沸、鮮明な沸映りの取り合わせこそ、無銘の作を同工に帰す際に説明書が立ち返る要点である。 公刊された記録のほぼ半数は短刀で、これは一派の他の初期の巨匠がほとんど手がけなかった作域である。説明書は、二字国俊の短刀の遺例が名物愛染国俊の唯一口であるのに対し、来国俊には多くの短刀が現存すると繰り返し記す。平造・三ツ棟、身幅尋常もしくはやや寸延びで、鎌倉末期特有の静かな内反りがつき、直刃は時に浅くのたれ、小丸帽子の返りはしばしば長く焼き下げ、区際を焼き込むことが多い。彫物は常習で、刀樋の傍らに細い腰樋や素剣を添え、この添え彫の手法は「来物に特有」とされる。直刃が主調を成す一方、丁子を焼く一群が華やぎの極限に立つ。その代表は国宝指定の太刀であり、第二十七回特別重要に上がった小太刀は、細身で腰反り高く、房の大きい丁子を交えて刃沸がよくつき、「同工作例中で最も華やかな作域」を示し、「宛ら二字国俊を彷彿とさせる」と評される。この彷彿こそ一派の古典的な問いの核心である。二字国俊と来国俊三字銘が同人か別人かは古来の論点であるが、両銘の年紀を合わせると弘安元年(1278)から元亨元年(1321)の約四十年に及び、一人の刀工の作刀期間として無理はなく、七十五歳の行年銘から逆算すれば二字国俊唯一の年紀作は三十八歳にあたる。そして「近年両者の作風・銘字の再検討による同人説が定着しつつあり、別人説の再考を促している」。銘にはなお研究の種が残る。元応頃の銘字はやや草体となって晩年作か二代かが問われ、稀に源の字を添えた銘があり、島津齊宣の指料であった元亨二年折返銘の刀では国の字形が門人来国次の書風に一致し、「来国次の代銘した数少ない例」と推察され、此の手の銘振りは三例を数えるという。 二字国俊との対比は同工の説明の定型である。豪壮な体配に猪首鋒、華やかな丁子主調の乱れを得意とする二字国俊に対し、三字銘の作は細身か尋常の体配に直刃あるいは直刃調に小模様の乱れを交え、総じて穏やかな出来口を示す。同人説が開かれたままであっても、両者の手は作域の上で区分できる。むしろ彼の隣人は派内にいる。最も静かな細直刃は「一見了戒に紛れる」とされ、最も穏やかで大柄な短刀はまず来国光を思わせるが、「格調が一段高く」、極めは国俊に帰着する。門人の来国光・来国次は鎌倉末まで来派を担い、師弟の線の細さは、『名物帳』所収の「名物結城来国俊」が一見国光・国次を思わせると記されることにも表れている。 この位の巨匠としては異例なほど手の届く存在である。藤代の極めは最上作。国宝五口・重要文化財十一口を数え、その下に特別重要刀剣二十一口・重要刀剣百四十三口、両指定で百六十四口が立つ。在銘作が豊富で、ここでは在銘百三十四口に対し無銘九十一口であり、編年が書けるのもそのためである。十口は国宝・重要文化財の級にあって市場に出ることはなく、日光二荒山神社の小太刀はその一つである。徳川美術館は七十五歳の行年銘の太刀を蔵し、ほかに東京国立博物館・根津美術館・佐野美術館・黒川古文化研究所などに収まる。六十一口に伝来が録され、豊臣秀吉、将軍徳川秀忠・家光、尾張・紀州徳川家、前田家、上杉家、鹿児島島津家、信州松代真田家を経る。一方で三十六口が個人の所蔵と記録され、取引可能な重要刀剣の級にはなお多数が残るから、直刃の短刀や太刀、すなわち鎌倉末期山城物の最も純粋な形を示す一口は、真剣な収集家にとって現実に到達し得る目標であり続ける。対して丁子の作と年紀作は、事実上市場の外にある。

刀剣商

銀座誠友堂

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