新藤五国光の子又は門人と言われ、相州正宗の養父とも兄弟子とも言われる相州上工の代表となる刀です。粟田口伝の地鉄が美しく、刃の働き冴えは正宗を見るかのようです。地肌は粟田口の出来で刃は正宗の出来である最高峰の日本刀です。















Soshu (Sagami, Kamakura) · 相模 · 1293-1322頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位3%
現在4点販売中
新藤五国光の紀年作は永仁元年(一二九三)十月三日を最古とし、これには「鎌倉住人新藤五国光作」[[c:1]]の長銘がある。説明書によれば、相州鍛冶の草分けは粟田口国綱や備前の国宗・助真ら移住の工であるが、銘文に居住地を明記し年紀を遺す「生えぬきの相模刀工の祖」[[c:2]]と称すべきはこの工である。本文は半世紀にわたり同じ一文で説き起こす。すなわち「事実上の相州伝の創始者であり、門下に行光・正宗・則重の三名人を育成」[[c:3]]したことは偉とすべきである、と。粟田口国綱の子で備前三郎国宗に学ぶと伝えるが、この所伝にはなお研究の余地があるとされる。年紀は元徳三年(一三三一)に及び、法名光心を添えた正和四年(一三一五)紀の短刀は晩年作と見られ、嘉元・徳治の年紀も晩年に置かれる。
現存はほぼ平造・三ツ棟・内反りの短刀で、生ぶ茎に二字銘を切る。本文の定式は一文に尽きる。「一見粟田口物を想わせるが、地刃にあらわされた著しい地景・金筋がこの工と指摘される」[[c:10]]。刃文は直刃を得意として「糸・細・中・広直刃など多様」[[c:5]]であり、「短刀の名手として藤四郎吉光と双璧」[[c:11]]とされる。輝く小沸の刃中にちらちらと働く金筋は古来「翁の髭」と形容され、同工の大きな見どころとされる。区際を焼き込むのが手癖で、本間はこれを見処としつつ例外もあるとし、稀に区際を焼落し気味とする正真もままあるとされる。帽子は直ぐに小丸、時に掃きかけ、素剣・梵字・護摩箸の彫物が多く、冠落し造も間々見られる。
地鉄に粟田口仕込みが現れる。小板目あるいはよく約んだ板目に地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに入り、かね冴え、沸映りがしばしば立つ。完成相州伝を特徴づける肌立つ鍛えは同工には殆ど見られず、門弟の作に次第に強まるもので、同工では稀な乱刃の作にやや肌立つ程度である。直刃の刃縁には「相州伝上位作特有の光美しい刃沸」[[c:6]]がつき、この精良な沸の直刃こそ、行光・正宗・則重が沸の乱れへと展開した源流である。
太刀は「現存するものは短刀が殆んどで、太刀は極めて稀れ」[[c:7]]とされ、細身で腰反り高く踏張りのつく姿を、短刀と全く同調の鍛えで仕立てる。筆頭は名物陸奥新藤五で、重ね彫の彫物を施した長七六・一糎の生ぶ在銘の太刀、奥州伊達家重代、後水尾天皇よりの拝領と伝え、『享保名物帳』追加の部に「名物ならざるも能き道具也」[[c:8]]と所載される。大磨上無銘の刀については本文が明記する。「大磨上無銘の刀を新藤五と極める時は、国光及びその子三人を指しての鑑定」[[c:12]]である、と。一口には享保七年(一七二二)本阿弥光忠の代金子七拾枚の折紙が附帯する。乱刃は稀有で、重美の一口は下半を大きく乱刃とし、本間は「この工の作に乱刃があり、正宗の作に極めて稀れではあるが直刃があることによって、両者の師弟の関係が証明される」[[c:13]]と説く。再刃ながら片切刃造の短刀は同作中この一口のみである。
銘は数代に及ぶ。子の国広・国重・国泰は後にいずれも国光と銘したと伝え、自銘で経眼されるのは国広のみで、作風での代別は目下不可能とされ、銘振りで分けられる。初代の二字銘は「左字北冠」の掟を示し、細鏨・太鏨の別があり、掟外の正真も稀にあると認められる。太刀では佩表の棟寄りに銘を切り、九六・一糎の生ぶ在銘の大太刀は作風と太く深い彫物から国広の国光銘と鑑せられる。後に貞宗の作に見る重ね彫は新藤五に始まると判じられ、刀身彫刻は彫物の名人と伝える弟子の大進房祐慶に結び付けられる。
指定を受けた作は七二口を数え、大多数が生ぶ茎二字銘の在銘作である。国宝四口・重要文化財一〇口は美術館・神社・伝世の蔵に収まる重宝であり、戦前の重要美術品七口には静嘉堂や黒川古文化研究所の所蔵品が含まれる。伝来は、陸奥新藤五の後水尾天皇拝領伝承のほか、名物小尻通新藤五が豊太閤の大坂御物から大坂夏の陣の焼身を経て初代越前康継の再刃により徳川将軍家に伝わり、短刀は米沢上杉家・越前松平家・佐竹家・細川家・小笠原家などの大名家に伝来し、近代にはW・A・コンプトン旧蔵の一口も知られる。藤代の格付けは最上作。蒐集家が現実に出会い得るのは特別重要刀剣八口・重要刀剣四二口、両指定五〇口で、その多くは精良な作風の在銘短刀である。市場に現れることは極めて稀であり、現れた一口は、相州伝がその鍛冶場に発した工の在銘作という得難い機会となる。
國光の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
相州伝 · 相模
時期区分: 相州· 1288–1385
現在41点販売中
板目に杢を交えた地鉄に地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに織りなされて明るく冴える鍛え、これが相州(鎌倉後期から南北朝期にかけての相州伝の古典的全盛期)を貫く核である。この区分は始祖新藤五国光が粟田口由来の精緻な小板目と直刃の基盤の上に、地刃ともに沸を主体とする鍛えを据えたところに始まる。国光の門から行光、正宗、則重が出て技術が大成し、続いて正宗の系から養子貞宗、越中の郷義弘が出て、伝統が頂点に達した。さらに南北朝期に入ると相模国にあって時代的にも技術的にも貞宗の次に位置する広光と秋広が現れ、十四世紀後半まで本流が続く。鎌倉幕府の府たる鎌倉を母体とし、その滅亡から南北朝の動乱という時代背景のなかで、姿は身幅広く寸延びた豪壮なものへと推移していった。 作風は説示にいう板目に杢交じり、地沸厚くつき、地景頻りに入る鍛えを土台とし、刃文はのたれを基調に互の目を交え、匂口深く沸厚くつき、金筋・沸筋・砂流しが頻りにかかって匂口明るく冴える点にある。郷義弘の作では、正宗・則重に比べて地景・金筋は穏やかながら、刃中に沸足がよく働き、地刃が一段と明るく冴え、肌合に柾ごころを交え、帽子を一枚風に深く焼くのが見どころとされる。広光・秋広に至ると、板目が肌立ちごころとなり、丁子に互の目を交え、飛焼・棟焼を交えて皆焼となり、頭の丸い団子丁子を交える刃文がこの時代に始まる。これらは母体である粟田口の抑制された直刃の源流からは遠く隔たり、沸の働きを前面に押し出した展開である。一方、後続の末相州(室町期の継続と衰退)が、こうした皆焼や帽子の一枚焼きといった形を継承しつつ地刃の冴えと沸の質を次第に薄めていくのに対し、本区分は地刃ともに明るく冴え、働きが豊富である点で截然と区別される。秋広の彫物が後の正広・広正、さらに室町末期の相州鍛冶の先駆となったことも、本区分が型を確立した側であることを示す。 収集家がこの区分を別格とするのは、正宗を頂点に、貞宗、そして正宗十哲の筆頭に挙げられる郷義弘という頂の刀工を擁するからである。鑑定上の要点は、郷義弘・貞宗ともに在銘作が皆無であるため、地刃の明るい冴え、沸足の働き、柾ごころ、一枚風に深く焼く帽子といった作域から極めることにある。代表作には金象嵌銘の兜切り江や名物中川江があり、宇和島伊達家、小田原藩大久保家、薩摩の島津家など大名家への伝来が説示に記される。秋広には延文二年から至徳四年に及ぶ年紀作があり、銘の切り方の変遷とともに資料的価値を支えている。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト商品到着後一週間以内(日本国内のみクーリングオフ可能です)ご返品いただいた品の状態が販売時と異なる場合や、商品を使用された場合はご返金ができません。購入条件と違う瑕疵は商品の返品並びに代金を返還致します。
新藤五国光の子又は門人と言われ、相州正宗の養父とも兄弟子とも言われる相州上工の代表となる刀です。粟田口伝の地鉄が美しく、刃の働き冴えは正宗を見るかのようです。地肌は粟田口の出来で刃は正宗の出来である最高峰の日本刀です。















Soshu (Sagami, Kamakura) · 相模 · 1293-1322頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位3%
現在4点販売中
新藤五国光の紀年作は永仁元年(一二九三)十月三日を最古とし、これには「鎌倉住人新藤五国光作」[[c:1]]の長銘がある。説明書によれば、相州鍛冶の草分けは粟田口国綱や備前の国宗・助真ら移住の工であるが、銘文に居住地を明記し年紀を遺す「生えぬきの相模刀工の祖」[[c:2]]と称すべきはこの工である。本文は半世紀にわたり同じ一文で説き起こす。すなわち「事実上の相州伝の創始者であり、門下に行光・正宗・則重の三名人を育成」[[c:3]]したことは偉とすべきである、と。粟田口国綱の子で備前三郎国宗に学ぶと伝えるが、この所伝にはなお研究の余地があるとされる。年紀は元徳三年(一三三一)に及び、法名光心を添えた正和四年(一三一五)紀の短刀は晩年作と見られ、嘉元・徳治の年紀も晩年に置かれる。
現存はほぼ平造・三ツ棟・内反りの短刀で、生ぶ茎に二字銘を切る。本文の定式は一文に尽きる。「一見粟田口物を想わせるが、地刃にあらわされた著しい地景・金筋がこの工と指摘される」[[c:10]]。刃文は直刃を得意として「糸・細・中・広直刃など多様」[[c:5]]であり、「短刀の名手として藤四郎吉光と双璧」[[c:11]]とされる。輝く小沸の刃中にちらちらと働く金筋は古来「翁の髭」と形容され、同工の大きな見どころとされる。区際を焼き込むのが手癖で、本間はこれを見処としつつ例外もあるとし、稀に区際を焼落し気味とする正真もままあるとされる。帽子は直ぐに小丸、時に掃きかけ、素剣・梵字・護摩箸の彫物が多く、冠落し造も間々見られる。
地鉄に粟田口仕込みが現れる。小板目あるいはよく約んだ板目に地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに入り、かね冴え、沸映りがしばしば立つ。完成相州伝を特徴づける肌立つ鍛えは同工には殆ど見られず、門弟の作に次第に強まるもので、同工では稀な乱刃の作にやや肌立つ程度である。直刃の刃縁には「相州伝上位作特有の光美しい刃沸」[[c:6]]がつき、この精良な沸の直刃こそ、行光・正宗・則重が沸の乱れへと展開した源流である。
太刀は「現存するものは短刀が殆んどで、太刀は極めて稀れ」[[c:7]]とされ、細身で腰反り高く踏張りのつく姿を、短刀と全く同調の鍛えで仕立てる。筆頭は名物陸奥新藤五で、重ね彫の彫物を施した長七六・一糎の生ぶ在銘の太刀、奥州伊達家重代、後水尾天皇よりの拝領と伝え、『享保名物帳』追加の部に「名物ならざるも能き道具也」[[c:8]]と所載される。大磨上無銘の刀については本文が明記する。「大磨上無銘の刀を新藤五と極める時は、国光及びその子三人を指しての鑑定」[[c:12]]である、と。一口には享保七年(一七二二)本阿弥光忠の代金子七拾枚の折紙が附帯する。乱刃は稀有で、重美の一口は下半を大きく乱刃とし、本間は「この工の作に乱刃があり、正宗の作に極めて稀れではあるが直刃があることによって、両者の師弟の関係が証明される」[[c:13]]と説く。再刃ながら片切刃造の短刀は同作中この一口のみである。
銘は数代に及ぶ。子の国広・国重・国泰は後にいずれも国光と銘したと伝え、自銘で経眼されるのは国広のみで、作風での代別は目下不可能とされ、銘振りで分けられる。初代の二字銘は「左字北冠」の掟を示し、細鏨・太鏨の別があり、掟外の正真も稀にあると認められる。太刀では佩表の棟寄りに銘を切り、九六・一糎の生ぶ在銘の大太刀は作風と太く深い彫物から国広の国光銘と鑑せられる。後に貞宗の作に見る重ね彫は新藤五に始まると判じられ、刀身彫刻は彫物の名人と伝える弟子の大進房祐慶に結び付けられる。
指定を受けた作は七二口を数え、大多数が生ぶ茎二字銘の在銘作である。国宝四口・重要文化財一〇口は美術館・神社・伝世の蔵に収まる重宝であり、戦前の重要美術品七口には静嘉堂や黒川古文化研究所の所蔵品が含まれる。伝来は、陸奥新藤五の後水尾天皇拝領伝承のほか、名物小尻通新藤五が豊太閤の大坂御物から大坂夏の陣の焼身を経て初代越前康継の再刃により徳川将軍家に伝わり、短刀は米沢上杉家・越前松平家・佐竹家・細川家・小笠原家などの大名家に伝来し、近代にはW・A・コンプトン旧蔵の一口も知られる。藤代の格付けは最上作。蒐集家が現実に出会い得るのは特別重要刀剣八口・重要刀剣四二口、両指定五〇口で、その多くは精良な作風の在銘短刀である。市場に現れることは極めて稀であり、現れた一口は、相州伝がその鍛冶場に発した工の在銘作という得難い機会となる。
國光の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
相州伝 · 相模
時期区分: 相州· 1288–1385
現在41点販売中
板目に杢を交えた地鉄に地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに織りなされて明るく冴える鍛え、これが相州(鎌倉後期から南北朝期にかけての相州伝の古典的全盛期)を貫く核である。この区分は始祖新藤五国光が粟田口由来の精緻な小板目と直刃の基盤の上に、地刃ともに沸を主体とする鍛えを据えたところに始まる。国光の門から行光、正宗、則重が出て技術が大成し、続いて正宗の系から養子貞宗、越中の郷義弘が出て、伝統が頂点に達した。さらに南北朝期に入ると相模国にあって時代的にも技術的にも貞宗の次に位置する広光と秋広が現れ、十四世紀後半まで本流が続く。鎌倉幕府の府たる鎌倉を母体とし、その滅亡から南北朝の動乱という時代背景のなかで、姿は身幅広く寸延びた豪壮なものへと推移していった。 作風は説示にいう板目に杢交じり、地沸厚くつき、地景頻りに入る鍛えを土台とし、刃文はのたれを基調に互の目を交え、匂口深く沸厚くつき、金筋・沸筋・砂流しが頻りにかかって匂口明るく冴える点にある。郷義弘の作では、正宗・則重に比べて地景・金筋は穏やかながら、刃中に沸足がよく働き、地刃が一段と明るく冴え、肌合に柾ごころを交え、帽子を一枚風に深く焼くのが見どころとされる。広光・秋広に至ると、板目が肌立ちごころとなり、丁子に互の目を交え、飛焼・棟焼を交えて皆焼となり、頭の丸い団子丁子を交える刃文がこの時代に始まる。これらは母体である粟田口の抑制された直刃の源流からは遠く隔たり、沸の働きを前面に押し出した展開である。一方、後続の末相州(室町期の継続と衰退)が、こうした皆焼や帽子の一枚焼きといった形を継承しつつ地刃の冴えと沸の質を次第に薄めていくのに対し、本区分は地刃ともに明るく冴え、働きが豊富である点で截然と区別される。秋広の彫物が後の正広・広正、さらに室町末期の相州鍛冶の先駆となったことも、本区分が型を確立した側であることを示す。 収集家がこの区分を別格とするのは、正宗を頂点に、貞宗、そして正宗十哲の筆頭に挙げられる郷義弘という頂の刀工を擁するからである。鑑定上の要点は、郷義弘・貞宗ともに在銘作が皆無であるため、地刃の明るい冴え、沸足の働き、柾ごころ、一枚風に深く焼く帽子といった作域から極めることにある。代表作には金象嵌銘の兜切り江や名物中川江があり、宇和島伊達家、小田原藩大久保家、薩摩の島津家など大名家への伝来が説示に記される。秋広には延文二年から至徳四年に及ぶ年紀作があり、銘の切り方の変遷とともに資料的価値を支えている。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト商品到着後一週間以内(日本国内のみクーリングオフ可能です)ご返品いただいた品の状態が販売時と異なる場合や、商品を使用された場合はご返金ができません。購入条件と違う瑕疵は商品の返品並びに代金を返還致します。