平家物語 一ノ谷合戦 熊谷直実に平敦盛図 三所物 銘 紋顕乗 光孝(花押), 三所物, 後藤顕乗 Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 Tale of the Heike, Battle of Ichinotani, Kumagai Naozane and Taira no Atsumori mitokoro mono 平家の御曹司無官大夫敦盛と源氏の熊谷次郎直実の、一ノ谷の合戦でのやり取りを題材に得た三所物。『平家物語』の名場面である。極上の赤銅魚子地に後藤家らしい的確な彫技と色絵で、扇を掲げて呼び掛ける熊谷と、海原に進ませた馬を止めて振り返る敦盛の姿が活写されている。作者は元和三年に後藤宗家七代を継いだ名手顕乗で、十三代光孝により極められて小柄と笄に裏彫が施され、同十四代光守の代金二百五十貫の折紙が付されている。赤銅の漆黒に金が映え、大身の武家の道具に相応しい貫録ある逸品となっている。 一ノ谷の合戦は寿永三年二月に繰り広げられた、源平の未来を左右する大きな動きであった。前年七月、平家は源義仲の入京を前に、三種の神器を戴く幼帝安徳と共に都を離れ、西国へ逃れている。その後、讃岐国屋島に拠点を構え、棟梁宗盛、知将知盛、勇将重衡を中心に体制を整え、この年の正月には摂津国福原に入っている。故清盛が、かつて遷都を夢見た福原は南方に海、北方に急峻な山襞を備える要害の地であり、平家は東の生田の森と西の一ノ谷に木戸を構え、源軍を迎撃し、その勢いで京を奪還せんと意気盛んであった。だが源範頼軍五万六千余騎が東から、義経軍二万余騎が山伝いに西から攻め込んだことにより、殊に義経の鵯越の坂落としで平家は総崩れとなり、大敗を喫したのであった。



後藤顕乗
江戸
山城
在銘
家彫 · 山城 · 1586-1663頃
現在2点販売中
後藤顕乗は、後藤家五代徳乗の三男として天正十四年(1586年)に生まれ、幼名を寅市、俗名を源一郎、諱を光経と称した。成長してからは別家を興し、理兵衛正継と改名している。元和三年(1617年)、兄である六代栄乗が病没した際、栄乗の嫡男源四郎が早世していたため、次男の源七郎(光重)を後見し、宗家七代目を継承した。寛永四、五年頃に光重(即乗)に家督を譲り八代目を継がせた後は、従兄弟にあたる覚乗と隔年交代で加賀前田家に仕え、百五十石を給され、加賀後藤家の礎を築いた。古来、後藤家の上手をとって「祐光顕」といい、後藤家中興の祖と称された。
顕乗の作風は、後藤家の伝統を受け継ぎ、赤銅魚子地、金紋を基調とする。的確な鏨使いが力強く、かつ品格があるとして賞賛される。特に龍を得意とし、倶利伽羅龍図の作例が多く見られる。金無垢を用いた作品も現存し、桃山時代の豪華美を格調高く表現している。高彫、色絵、金象嵌などの技法を駆使し、主題の持つ躍動感を巧みに引き出す。作風は上六代までの後藤家とは一線を画す風雅さを醸し出すと評される。また、親の作品を嗣子が極めた作も存在し、自身銘と同等の信憑性があるとされる。
顕乗の作品は、その力量から高く評価されており、特に自身銘の現存数は比較的少ないため貴重である。三所物としてのまとまりの良い作品が多く、小柄、笄、目貫の意匠が統一されている点が特徴である。赤銅魚子地の緻密さ、高彫の力強さ、色絵の鮮やかさが評価の対象となる。また、図柄の選択も多岐にわたり、龍、虎豹、福神、蓑亀、唐人、禅宗系の景物など、幅広い題材を扱っている。後藤家の伝統的な技術を継承しつつも、独自の作風を確立した後藤顕乗は、後藤家における重要な刀装具師として位置づけられている。
後藤顕乗の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
家彫 · 山城
時期区分: 後藤宗家· 1573–1900
現在282点販売中
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。
平家物語 一ノ谷合戦 熊谷直実に平敦盛図 三所物 銘 紋顕乗 光孝(花押), 三所物, 後藤顕乗 Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 Tale of the Heike, Battle of Ichinotani, Kumagai Naozane and Taira no Atsumori mitokoro mono 平家の御曹司無官大夫敦盛と源氏の熊谷次郎直実の、一ノ谷の合戦でのやり取りを題材に得た三所物。『平家物語』の名場面である。極上の赤銅魚子地に後藤家らしい的確な彫技と色絵で、扇を掲げて呼び掛ける熊谷と、海原に進ませた馬を止めて振り返る敦盛の姿が活写されている。作者は元和三年に後藤宗家七代を継いだ名手顕乗で、十三代光孝により極められて小柄と笄に裏彫が施され、同十四代光守の代金二百五十貫の折紙が付されている。赤銅の漆黒に金が映え、大身の武家の道具に相応しい貫録ある逸品となっている。 一ノ谷の合戦は寿永三年二月に繰り広げられた、源平の未来を左右する大きな動きであった。前年七月、平家は源義仲の入京を前に、三種の神器を戴く幼帝安徳と共に都を離れ、西国へ逃れている。その後、讃岐国屋島に拠点を構え、棟梁宗盛、知将知盛、勇将重衡を中心に体制を整え、この年の正月には摂津国福原に入っている。故清盛が、かつて遷都を夢見た福原は南方に海、北方に急峻な山襞を備える要害の地であり、平家は東の生田の森と西の一ノ谷に木戸を構え、源軍を迎撃し、その勢いで京を奪還せんと意気盛んであった。だが源範頼軍五万六千余騎が東から、義経軍二万余騎が山伝いに西から攻め込んだことにより、殊に義経の鵯越の坂落としで平家は総崩れとなり、大敗を喫したのであった。



後藤顕乗
江戸
山城
在銘
家彫 · 山城 · 1586-1663頃
現在2点販売中
後藤顕乗は、後藤家五代徳乗の三男として天正十四年(1586年)に生まれ、幼名を寅市、俗名を源一郎、諱を光経と称した。成長してからは別家を興し、理兵衛正継と改名している。元和三年(1617年)、兄である六代栄乗が病没した際、栄乗の嫡男源四郎が早世していたため、次男の源七郎(光重)を後見し、宗家七代目を継承した。寛永四、五年頃に光重(即乗)に家督を譲り八代目を継がせた後は、従兄弟にあたる覚乗と隔年交代で加賀前田家に仕え、百五十石を給され、加賀後藤家の礎を築いた。古来、後藤家の上手をとって「祐光顕」といい、後藤家中興の祖と称された。
顕乗の作風は、後藤家の伝統を受け継ぎ、赤銅魚子地、金紋を基調とする。的確な鏨使いが力強く、かつ品格があるとして賞賛される。特に龍を得意とし、倶利伽羅龍図の作例が多く見られる。金無垢を用いた作品も現存し、桃山時代の豪華美を格調高く表現している。高彫、色絵、金象嵌などの技法を駆使し、主題の持つ躍動感を巧みに引き出す。作風は上六代までの後藤家とは一線を画す風雅さを醸し出すと評される。また、親の作品を嗣子が極めた作も存在し、自身銘と同等の信憑性があるとされる。
顕乗の作品は、その力量から高く評価されており、特に自身銘の現存数は比較的少ないため貴重である。三所物としてのまとまりの良い作品が多く、小柄、笄、目貫の意匠が統一されている点が特徴である。赤銅魚子地の緻密さ、高彫の力強さ、色絵の鮮やかさが評価の対象となる。また、図柄の選択も多岐にわたり、龍、虎豹、福神、蓑亀、唐人、禅宗系の景物など、幅広い題材を扱っている。後藤家の伝統的な技術を継承しつつも、独自の作風を確立した後藤顕乗は、後藤家における重要な刀装具師として位置づけられている。
後藤顕乗の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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家彫 · 山城
時期区分: 後藤宗家· 1573–1900
現在282点販売中
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