平家の御曹司無官大夫敦盛と源氏の熊谷次郎直実の、一ノ谷の合戦でのやり取りを題材に得た三所物。『平家物語』の名場面である。極上の赤銅魚子地に後藤家らしい的確な彫技と色絵で、扇を掲げて呼び掛ける熊谷と、海原に進ませた馬を止めて振り返る敦盛の姿が活写されている。作者は元和三年に後藤宗家七代を継いだ名手顕乗で、十三代光孝により極められて小柄と笄に裏彫が施され、同十四代光守の代金二百五十貫の折紙が付されている。赤銅の漆黒に金が映え、大身の武家の道具に相応しい貫録ある逸品となっている。 一ノ谷の合戦は寿永三年二月に繰り広げられた、源平の未来を左右する大きな動きであった。前年七月、平家は源義仲の入京を前に、三種の神器を戴く幼帝安徳と共に都を離れ、西国へ逃れている。その後、讃岐国屋島に拠点を構え、棟梁宗盛、知将知盛、勇将重衡を中心に体制を整え、この年の正月には摂津国福原に入っている。故清盛が、かつて遷都を夢見た福原は南方に海、北方に急峻な山襞を備える要害の地であり、平家は東の生田の森と西の一ノ谷に木戸を構え、源軍を迎撃し、その勢いで京を奪還せんと意気盛んであった。だが源範頼軍五万六千余騎が東から、義経軍二万余騎が山伝いに西から攻め込んだことにより、殊に義経の鵯越の坂落としで平家は総崩れとなり、大敗を喫したのであった。 さて、この三所物の主題である敦盛は、阿鼻叫喚の一ノ谷から屋島へ逃れんと沖の船を目指し海へと駒を進めていた。鶴の刺繡の直垂を着し、萌黄色絲威の鎧に鍬形を打った兜を被り、黄金造の太刀を佩き、重藤の弓を手に金覆輪の鞍の葦毛の馬に跨った堂々の武者姿である。これに目を止めた熊谷は「敵にうしろをみせさせ給うものかな。かへさせ給へ」と呼び掛け、逡巡の末に引き返した敦盛を組み伏せ、首を掻き取ろうとした。だが、熊谷はその兜を剥いで驚愕した。相手は我が子小次郎直家十六歳と同年配の若者だったのである。助命するか否か葛藤の末、熊谷は泣きながら首を取った。最期まで名乗らなかった若い公達だったが、身に着けていた笛から清盛の弟経盛の子敦盛十七歳で、笛は鳥羽院から祖父忠盛が拝領した銘笛小枝と判明する。敦盛の風雅と儚い生涯を思い、義経等源氏諸将は涙し、武士たる身の非情さに熊谷は出家の思いを強くしたのであった。 敦盛を打ち取る大金星をあげた熊谷だったが、その後の運命は過酷であった。誇り高き勇者熊谷は、治承四年十一月四日の常陸金砂城の佐竹秀義攻めの際に抜群の功績をあげて頼朝から直々に褒められ、武州熊谷郷の領有を認知され、一ノ谷でも目覚ましい活躍ぶりであったが、建久三年十月二十五日の久下直光との境界訴訟では、本来自身に理があるにもかかわらず、うまく抗弁できずに敗訴して激昂。証拠の文書類を投げ捨て、自身の髻を切って法然門の僧(蓮生)となってしまった。かくして一騎当千の兵熊谷次郎直実の生涯は行き詰まってしまうのである。 平時ならば決して交叉しなかった敦盛と熊谷直実の生涯は、まさしく「諸行無常」であり、「もののあはれ」の様相を呈している。伝承は後々の人々の心を激しく揺さぶり、室町時代の世阿弥をして謡曲「敦盛」を創作せしめ、江戸期には院の御落胤敦盛を救うため熊谷が我が子を身代わりにする歌舞伎十八番『一谷嫩軍記』が生み出されて上演され、観客の涙を誘った。表題の顕乗の三所物の注文主も、敦盛と熊谷の美しくも壮絶な物語に、激しく心打たれた一人であったに違いない。 注①…_最近の研究で鵯越は義経の別動隊の摂津源氏多田行綱の所業であった事が明らかにされている。 注②…_『平家物語』では剛の熊谷に柔弱な敦盛という対比だが、『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』では、敦盛は熊谷と懸命に戦い、首を掻かんと覗き込んだ熊谷に微笑み、清盛の弟経盛の子敦盛と名乗っており、熊谷は気丈にして堂々たる態度に「御心も猛人(たけきひと)」と感心している(髙橋昌明『平家の群像』参照)。 注③…直実は情に厚い人物だったことがわかる。



後藤顕乗
江戸
山城
在銘
家彫 · 山城 · 1586-1663頃
現在2点販売中
後藤顕乗は、後藤家五代徳乗の三男として天正十四年(1586年)に生まれ、幼名を寅市、俗名を源一郎、諱を光経と称した。成長してからは別家を興し、理兵衛正継と改名している。元和三年(1617年)、兄である六代栄乗が病没した際、栄乗の嫡男源四郎が早世していたため、次男の源七郎(光重)を後見し、宗家七代目を継承した。寛永四、五年頃に光重(即乗)に家督を譲り八代目を継がせた後は、従兄弟にあたる覚乗と隔年交代で加賀前田家に仕え、百五十石を給され、加賀後藤家の礎を築いた。古来、後藤家の上手をとって「祐光顕」といい、後藤家中興の祖と称された。
顕乗の作風は、後藤家の伝統を受け継ぎ、赤銅魚子地、金紋を基調とする。的確な鏨使いが力強く、かつ品格があるとして賞賛される。特に龍を得意とし、倶利伽羅龍図の作例が多く見られる。金無垢を用いた作品も現存し、桃山時代の豪華美を格調高く表現している。高彫、色絵、金象嵌などの技法を駆使し、主題の持つ躍動感を巧みに引き出す。作風は上六代までの後藤家とは一線を画す風雅さを醸し出すと評される。また、親の作品を嗣子が極めた作も存在し、自身銘と同等の信憑性があるとされる。
顕乗の作品は、その力量から高く評価されており、特に自身銘の現存数は比較的少ないため貴重である。三所物としてのまとまりの良い作品が多く、小柄、笄、目貫の意匠が統一されている点が特徴である。赤銅魚子地の緻密さ、高彫の力強さ、色絵の鮮やかさが評価の対象となる。また、図柄の選択も多岐にわたり、龍、虎豹、福神、蓑亀、唐人、禅宗系の景物など、幅広い題材を扱っている。後藤家の伝統的な技術を継承しつつも、独自の作風を確立した後藤顕乗は、後藤家における重要な刀装具師として位置づけられている。
後藤顕乗の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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家彫 · 山城
時期区分: 後藤宗家· 1573–1900
現在309点販売中
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