
SHAKUDÔ TSUBA BY TOBARI TOMIHISA (松盛斎富久)030122
$12,000
世界76社の刀剣商を横断追跡 · 価格履歴 · 売却アーカイブ
赤銅地 鐔 銘:松盛斎富久 戸張富久(後の松盛斎富久)に関する知見の多くは、彼が没してわずか14年後の天保10年(1839年)に刊行された『金工鐔寄』の記述に基づいています。 富久は後藤家、とりわけ後藤家十三代当主である後藤延乗(光孝)の門下で学びました。延乗は享保6年(1721年)に十代寿乗の長男として生まれ、天明4年(1784年)9月18日に没した名工です。富久は京都で延乗に師事して修行を積みましたが、師が没した天明4年、京都を離れて故郷である雑司ヶ谷へと戻りました。当時の雑司ヶ谷は江戸の北西約5.6キロメートルに位置する小さな村落でした。しかし後年、彼は再び京都の後藤京橋家へと戻り、後藤家の仕事として龍や獅子の下絵や下地製作に従事する傍ら、自らの作品も手掛けています。 富久の没年は文政8年(1825年)と伝わっており、これは師である延乗の没後からかなりの年月が経過しています。生年は定かではありませんが、現存する年紀作には文化6年(1809年)、文化8年(1811年)、文政4年(1821年)など極めて限られた数の作例が知られています。仮に享年を70歳前後と推測すれば、生年は宝暦5年(1755年)頃となり、師の延乗が没した際には30歳前後であったと考えられます。 この後藤家仕込みの技量を持つ名工には、もう一つの興味深い側面があります。後藤家の仕事や自身の作刀具製作の傍ら、富久は「木曽路」という非常に繁盛した蕎麦屋を営んでいました。彼は単に店を手伝っていたわけではなく、雑司ヶ谷で代々続くこの蕎麦屋の四代目当主でもあったのです。修行後に彼が一度江戸の雑司ヶ谷へ戻ったのは、この家業を継ぐためであったと考えられます。かつては江戸郊外の静かな村であった雑司ヶ谷も、今日では都心の住宅街の一部となっています。

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赤銅地 鐔 銘:松盛斎富久 戸張富久(後の松盛斎富久)に関する知見の多くは、彼が没してわずか14年後の天保10年(1839年)に刊行された『金工鐔寄』の記述に基づいています。 富久は後藤家、とりわけ後藤家十三代当主である後藤延乗(光孝)の門下で学びました。延乗は享保6年(1721年)に十代寿乗の長男として生まれ、天明4年(1784年)9月18日に没した名工です。富久は京都で延乗に師事して修行を積みましたが、師が没した天明4年、京都を離れて故郷である雑司ヶ谷へと戻りました。当時の雑司ヶ谷は江戸の北西約5.6キロメートルに位置する小さな村落でした。しかし後年、彼は再び京都の後藤京橋家へと戻り、後藤家の仕事として龍や獅子の下絵や下地製作に従事する傍ら、自らの作品も手掛けています。 富久の没年は文政8年(1825年)と伝わっており、これは師である延乗の没後からかなりの年月が経過しています。生年は定かではありませんが、現存する年紀作には文化6年(1809年)、文化8年(1811年)、文政4年(1821年)など極めて限られた数の作例が知られています。仮に享年を70歳前後と推測すれば、生年は宝暦5年(1755年)頃となり、師の延乗が没した際には30歳前後であったと考えられます。 この後藤家仕込みの技量を持つ名工には、もう一つの興味深い側面があります。後藤家の仕事や自身の作刀具製作の傍ら、富久は「木曽路」という非常に繁盛した蕎麦屋を営んでいました。彼は単に店を手伝っていたわけではなく、雑司ヶ谷で代々続くこの蕎麦屋の四代目当主でもあったのです。修行後に彼が一度江戸の雑司ヶ谷へ戻ったのは、この家業を継ぐためであったと考えられます。かつては江戸郊外の静かな村であった雑司ヶ谷も、今日では都心の住宅街の一部となっています。

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