Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 備中青江の太刀は精良な地鉄と美しい刃文で声望高く、鎌倉初期の古青江貞次、恒次、次家は後鳥羽院の御番鍛冶を務める栄誉に浴した名工である。 助次も誉れある青江を代表する工の一人で、鎌倉時代前期、中期弘長正和頃と代を重ねた刀工。弓張り月を見るが如き緊張感に�満ちた美しい作品。


Ko-Aoe (Bitchu) · 備中 · 1261-1264頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位5%
備中国古青江の助次は鎌倉時代前期の工で、古青江俊次の子と伝え、その古い一期を代表する刀工の一人である。名跡はその後数代を経て鎌倉末期まで続き、後代の助次には昭和年紀と「備中国万寿東庄青江助次作」[[c:1]]の長銘を有する作が知られる。その流れの中で諸記録は、この銘振りの現存作を名跡中最も古いものと位置づける。銘鑑によれば鎌倉時代に三工の助次があり、このうち本群は「現存するものの中では最も時代の古いもの」[[c:2]]と評される。作風は古青江らしい穏やかな直刃で、太刀は細身ないし尋常の身幅に腰反り高く、踏張りつき、小鋒・中鋒に結ぶ。小太刀・剣も各一口が伝わり、大磨上無銘の刀が一口、彼に極められている。
特色とする刃文は中直刃・細直刃で、極く浅くのたれ、小互の目を交え、僅かに小丁子・小乱れを交える。小足・逆足・葉が入り、小沸がよくついて匂口が締まり、細かに金筋・砂流しがかかり、刃縁には処々喰違刃やほつれがかかる。帽子は直ぐに小丸、僅かに掃きかけ、または先尖りごころとなる。直刃基調こそ常態であって、同派の中で彼を分けるのは、その基調をどれほど小互の目で破るか、僅かな小丁子・小乱れがそれに交じるかという点にある。青江の逆ごころ、すなわち同派の工を特徴づける逆足・逆がかりは、彼にあっては控えめで、逆が入る場合も小互の目の上に静かに乗る。名のある古青江の工の中でも、最も穏やかで逆の少ない直刃である。
鍛えは小板目に杢を交え、処々流れて柾がかり、総じてやや肌立ち、地沸がつき、地景が細かに入る。地斑を交え、澄肌が明らかに現れ、いわゆる縮緬肌状を呈し、かな色がやや黒味を帯びて、淡く段映り風の映りが立つ。諸記録はこの基調を一派全体、ひいては彼についても通有のものと記す。すなわちこの古青江の世代の工は、杢目が目立ち、肌が「いわゆる縮緬状の肌合」[[c:3]]へ立ち、地斑を交えることが多い鍛えに、穏やかな直刃か小乱れを交える直刃を焼き、一般によく沸がつき、同時代の備前物に比べると幾分地味で渋い味わいを醸す、という。彫物は、ある場合は棒樋を掻き流し、または掻き通す。
銘は一派の証であり、判者が見どころと名指すところである。佩裏、すなわち佩用して内に向く茎の面の、目釘孔の下、茎先寄りに、太鏨で打込みの強い大振りの二字銘を切り、鑢目は大筋違となる。諸記録はその切り方に時代を読む。「助次は同名数代あるが、この銘振のものが古い」[[c:4]]とし、草体の太鏨大振りが古く、後代は太鏨ながら書体が楷書風に角張る、という。彼の作には判者が二様の作域を立てる。常態は右の穏やかな直刃で、「同派の典型的且つ代表的な太刀」[[c:5]]がその落ち着いた出来を示す。これに対し華やかな一作が立つ。特別重要の太刀一口で、刃文が「同派の常と相違して焼幅広く」[[c:6]]、丁子・互の目・尖り刃を交えて焼き、飛焼・ほつれかかり、帽子は濡れ込んで火焰状に掃きかける。この手につき判者は「国宝に指定されている島津家伝来の康次の太刀」[[c:7]]を挙げ、古青江派の一作風を示す出来の優れた貴重な作と評する。
諸記録が率直に記すのは、工自身の個性が控えめで、一派の作風が工その人より前面に出るという点である。代表的な太刀さえ賞されつつ「助次の個性に乏しい憾がある」[[c:8]]と評される。同じ控えめさを判者は美点とも読み、その作を古雅と評し、堂々とした体配に穏やかな直刃がよく映え、地刃共に健やかで滋味豊かと賞する。彼は古青江の鎌倉前期の中核に位置し、守次・為次・次家・次忠・貞次・康次・包次・恒次、そして父俊次と共に名を連ね、その多くが「次」を通字とする。小互の目を交える穏やかな直刃は、直次・吉次ら同派南北朝の名手が見せる匂出来の直刃や逆丁子乱れへ向かう前段に立つ。判者はその位置の証として一派の茎を名指す。古青江の工が銘を佩裏にきり、鑢目を大筋違にかける点は古備前などと相違するところであり、彼の茎にもそれが鮮明である。
藤代の極めで上作。その名を負う指定の重みは、これほど穏やかな古青江の工としては相応に厚い。特別重要に四口、重要に九口が列し、両者を合わせて十三口、さらに戦前の重要美術品に二口を数える。そのほとんどが在銘の太刀である。現存する剣について諸記録は「古青江助次の現存稀な剣の作例は貴重であり、資料的価値も頗る高い」[[c:9]]と記し、一派の古鉄が刃寄りに流れ柾を交えて地沸を微塵に厚くつけ、喰違刃・湯走りが地刃に景色をなすと評す。録された来歴は寡少ながら確かである。重要美術品の小太刀一口は杉山茂丸が重要文化財の守次の太刀と大小拵と共に愛蔵し、後に網屋へ寄贈したもので、認定時の所有者は東京の小倉陽吉、大磨上無銘の極めは前田利為の所持にかかる。現在の所在は一部に限られ、記録に残るところでは徳川美術館・林原美術館・厳島神社に蔵され、他は私蔵にある。在銘の古青江助次は全く手の届かぬものではなく、その作は重要・特別重要の級で取引されうる。とはいえ指定作の多くは商われずに所蔵され、最も穏やかな古青江の直刃の一口が私人の手に現れるのは稀で、それには時を要する。
助次の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
備前伝 · 備中
時期区分: 古青江· 1100–1235
現在3点販売中
古青江は、備中国高梁川下流域の青江・万寿の地を本拠とした青江派のうち、平安時代末期から鎌倉時代中期頃までのものを特に汎称する一作風期である。備中国は古くより鉄の産地として知られ、十一世紀初頭の往来物『新猿楽記』も諸国の名産物を列記する中に「備中ノ刀」を挙げており、その高い評価を受けつぐ刀工が高梁川下流域の子位庄・万寿庄を中心に活躍した。青江派は承安頃の安次を祖として始まると伝え、以後南北朝時代後期に至るまで大いに繁栄したが、その初期にあたるこの一群が古青江である。代表的な刀工としては守次・為次・次家・次忠・貞次・康次・包次・恒次・俊次・助次・守利等がおり、その多くが「次」の字を通字としている。これに対し、則高・正恒・安家・守恒など「次」の字を用いない妹尾鍛冶も同国に存し、両者は今日一括して青江鍛冶と呼称される。 作風は、鍛えに杢目が目立ち、やや肌立ち気味で、いわゆる縮緬状の肌合となる点に最大の標識がある。板目に杢を交え、総体に細かく肌立って縮緬肌を呈し、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入り、澄肌や地斑を交えるものが多い。映りは地斑映り風あるいは乱れ映りとなって立つ。刃文は直刃を基調とし、小乱れ・小丁子・小互の目などを交え、足・葉がよく入り、よく沸づき、金筋・砂流しが細かにかかる。匂口は沈みごころとなるものが多いが、中には締まりごころに明るく冴えるものもある。帽子は直ぐに小丸ごころ、あるいは掃きかけて焼詰め風となる。総じて同時代の備前物に比べると幾分地味で渋い味わいを醸す点に一派の特色が窺われる。茎の様式も診処として重要であり、銘を佩裏に切り、鑢目が大筋違となる点は古備前などと相違するところである。 評価において、古青江は同時代の古備前物に類似しつつも、縮緬肌と沈みごころの匂口に独得の渋い雅味を有し、日本刀の一作風期として古来高く重んじられてきた。康次には童子切安綱・大包平らと共に天下五剣の一に列する島津家重代の長寸の太刀があり、これは古青江としては無類の大出来で華やかな乱刃を示す名物として名高い。恒次には日蓮上人護法の太刀として知られる「名物数珠丸」がある。貞次・恒次・次家は後鳥羽院番鍛冶に数えられ、その名跡は青江鍛冶の主流として南北朝期まで継承された。守次は安次の子と伝え、爾来同銘が南北朝時代まで続き、その銘字には逆鏨を交えた打ち込みの強い楷書風のものから暢達な草書風のものまで数種が知られる。現存する有銘作は概して僅少であり、生ぶ在銘の遺例は資料的にも頗る貴重とされる。地刃の健全な作例は、同派及び各工を研究する上で資料的価値が極めて高く、深い味わいをもって今日なお珍重されている。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。
Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 備中青江の太刀は精良な地鉄と美しい刃文で声望高く、鎌倉初期の古青江貞次、恒次、次家は後鳥羽院の御番鍛冶を務める栄誉に浴した名工である。 助次も誉れある青江を代表する工の一人で、鎌倉時代前期、中期弘長正和頃と代を重ねた刀工。弓張り月を見るが如き緊張感に�満ちた美しい作品。


Ko-Aoe (Bitchu) · 備中 · 1261-1264頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位5%
備中国古青江の助次は鎌倉時代前期の工で、古青江俊次の子と伝え、その古い一期を代表する刀工の一人である。名跡はその後数代を経て鎌倉末期まで続き、後代の助次には昭和年紀と「備中国万寿東庄青江助次作」[[c:1]]の長銘を有する作が知られる。その流れの中で諸記録は、この銘振りの現存作を名跡中最も古いものと位置づける。銘鑑によれば鎌倉時代に三工の助次があり、このうち本群は「現存するものの中では最も時代の古いもの」[[c:2]]と評される。作風は古青江らしい穏やかな直刃で、太刀は細身ないし尋常の身幅に腰反り高く、踏張りつき、小鋒・中鋒に結ぶ。小太刀・剣も各一口が伝わり、大磨上無銘の刀が一口、彼に極められている。
特色とする刃文は中直刃・細直刃で、極く浅くのたれ、小互の目を交え、僅かに小丁子・小乱れを交える。小足・逆足・葉が入り、小沸がよくついて匂口が締まり、細かに金筋・砂流しがかかり、刃縁には処々喰違刃やほつれがかかる。帽子は直ぐに小丸、僅かに掃きかけ、または先尖りごころとなる。直刃基調こそ常態であって、同派の中で彼を分けるのは、その基調をどれほど小互の目で破るか、僅かな小丁子・小乱れがそれに交じるかという点にある。青江の逆ごころ、すなわち同派の工を特徴づける逆足・逆がかりは、彼にあっては控えめで、逆が入る場合も小互の目の上に静かに乗る。名のある古青江の工の中でも、最も穏やかで逆の少ない直刃である。
鍛えは小板目に杢を交え、処々流れて柾がかり、総じてやや肌立ち、地沸がつき、地景が細かに入る。地斑を交え、澄肌が明らかに現れ、いわゆる縮緬肌状を呈し、かな色がやや黒味を帯びて、淡く段映り風の映りが立つ。諸記録はこの基調を一派全体、ひいては彼についても通有のものと記す。すなわちこの古青江の世代の工は、杢目が目立ち、肌が「いわゆる縮緬状の肌合」[[c:3]]へ立ち、地斑を交えることが多い鍛えに、穏やかな直刃か小乱れを交える直刃を焼き、一般によく沸がつき、同時代の備前物に比べると幾分地味で渋い味わいを醸す、という。彫物は、ある場合は棒樋を掻き流し、または掻き通す。
銘は一派の証であり、判者が見どころと名指すところである。佩裏、すなわち佩用して内に向く茎の面の、目釘孔の下、茎先寄りに、太鏨で打込みの強い大振りの二字銘を切り、鑢目は大筋違となる。諸記録はその切り方に時代を読む。「助次は同名数代あるが、この銘振のものが古い」[[c:4]]とし、草体の太鏨大振りが古く、後代は太鏨ながら書体が楷書風に角張る、という。彼の作には判者が二様の作域を立てる。常態は右の穏やかな直刃で、「同派の典型的且つ代表的な太刀」[[c:5]]がその落ち着いた出来を示す。これに対し華やかな一作が立つ。特別重要の太刀一口で、刃文が「同派の常と相違して焼幅広く」[[c:6]]、丁子・互の目・尖り刃を交えて焼き、飛焼・ほつれかかり、帽子は濡れ込んで火焰状に掃きかける。この手につき判者は「国宝に指定されている島津家伝来の康次の太刀」[[c:7]]を挙げ、古青江派の一作風を示す出来の優れた貴重な作と評する。
諸記録が率直に記すのは、工自身の個性が控えめで、一派の作風が工その人より前面に出るという点である。代表的な太刀さえ賞されつつ「助次の個性に乏しい憾がある」[[c:8]]と評される。同じ控えめさを判者は美点とも読み、その作を古雅と評し、堂々とした体配に穏やかな直刃がよく映え、地刃共に健やかで滋味豊かと賞する。彼は古青江の鎌倉前期の中核に位置し、守次・為次・次家・次忠・貞次・康次・包次・恒次、そして父俊次と共に名を連ね、その多くが「次」を通字とする。小互の目を交える穏やかな直刃は、直次・吉次ら同派南北朝の名手が見せる匂出来の直刃や逆丁子乱れへ向かう前段に立つ。判者はその位置の証として一派の茎を名指す。古青江の工が銘を佩裏にきり、鑢目を大筋違にかける点は古備前などと相違するところであり、彼の茎にもそれが鮮明である。
藤代の極めで上作。その名を負う指定の重みは、これほど穏やかな古青江の工としては相応に厚い。特別重要に四口、重要に九口が列し、両者を合わせて十三口、さらに戦前の重要美術品に二口を数える。そのほとんどが在銘の太刀である。現存する剣について諸記録は「古青江助次の現存稀な剣の作例は貴重であり、資料的価値も頗る高い」[[c:9]]と記し、一派の古鉄が刃寄りに流れ柾を交えて地沸を微塵に厚くつけ、喰違刃・湯走りが地刃に景色をなすと評す。録された来歴は寡少ながら確かである。重要美術品の小太刀一口は杉山茂丸が重要文化財の守次の太刀と大小拵と共に愛蔵し、後に網屋へ寄贈したもので、認定時の所有者は東京の小倉陽吉、大磨上無銘の極めは前田利為の所持にかかる。現在の所在は一部に限られ、記録に残るところでは徳川美術館・林原美術館・厳島神社に蔵され、他は私蔵にある。在銘の古青江助次は全く手の届かぬものではなく、その作は重要・特別重要の級で取引されうる。とはいえ指定作の多くは商われずに所蔵され、最も穏やかな古青江の直刃の一口が私人の手に現れるのは稀で、それには時を要する。
助次の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
備前伝 · 備中
時期区分: 古青江· 1100–1235
現在3点販売中
古青江は、備中国高梁川下流域の青江・万寿の地を本拠とした青江派のうち、平安時代末期から鎌倉時代中期頃までのものを特に汎称する一作風期である。備中国は古くより鉄の産地として知られ、十一世紀初頭の往来物『新猿楽記』も諸国の名産物を列記する中に「備中ノ刀」を挙げており、その高い評価を受けつぐ刀工が高梁川下流域の子位庄・万寿庄を中心に活躍した。青江派は承安頃の安次を祖として始まると伝え、以後南北朝時代後期に至るまで大いに繁栄したが、その初期にあたるこの一群が古青江である。代表的な刀工としては守次・為次・次家・次忠・貞次・康次・包次・恒次・俊次・助次・守利等がおり、その多くが「次」の字を通字としている。これに対し、則高・正恒・安家・守恒など「次」の字を用いない妹尾鍛冶も同国に存し、両者は今日一括して青江鍛冶と呼称される。 作風は、鍛えに杢目が目立ち、やや肌立ち気味で、いわゆる縮緬状の肌合となる点に最大の標識がある。板目に杢を交え、総体に細かく肌立って縮緬肌を呈し、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入り、澄肌や地斑を交えるものが多い。映りは地斑映り風あるいは乱れ映りとなって立つ。刃文は直刃を基調とし、小乱れ・小丁子・小互の目などを交え、足・葉がよく入り、よく沸づき、金筋・砂流しが細かにかかる。匂口は沈みごころとなるものが多いが、中には締まりごころに明るく冴えるものもある。帽子は直ぐに小丸ごころ、あるいは掃きかけて焼詰め風となる。総じて同時代の備前物に比べると幾分地味で渋い味わいを醸す点に一派の特色が窺われる。茎の様式も診処として重要であり、銘を佩裏に切り、鑢目が大筋違となる点は古備前などと相違するところである。 評価において、古青江は同時代の古備前物に類似しつつも、縮緬肌と沈みごころの匂口に独得の渋い雅味を有し、日本刀の一作風期として古来高く重んじられてきた。康次には童子切安綱・大包平らと共に天下五剣の一に列する島津家重代の長寸の太刀があり、これは古青江としては無類の大出来で華やかな乱刃を示す名物として名高い。恒次には日蓮上人護法の太刀として知られる「名物数珠丸」がある。貞次・恒次・次家は後鳥羽院番鍛冶に数えられ、その名跡は青江鍛冶の主流として南北朝期まで継承された。守次は安次の子と伝え、爾来同銘が南北朝時代まで続き、その銘字には逆鏨を交えた打ち込みの強い楷書風のものから暢達な草書風のものまで数種が知られる。現存する有銘作は概して僅少であり、生ぶ在銘の遺例は資料的にも頗る貴重とされる。地刃の健全な作例は、同派及び各工を研究する上で資料的価値が極めて高く、深い味わいをもって今日なお珍重されている。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。