鎌倉時代は備前の頂点である。伝えでは一文字派の工が後鳥羽上皇の御番鍛冶に列し、世紀の半ばには光忠が長船派を興して、注文は公家からも武家政権からも流れ込んだ。国宝刀剣の数で備前に並ぶ国はない。
備中青江の太刀は精良な地鉄と美しい刃文で声望高く、鎌倉初期の古青江貞次、恒次、次家は後鳥羽院の御番鍛冶を務める栄誉に浴した名工である。 助次も誉れある青江を代表する工の一人で、鎌倉時代前期、中期弘長正和頃と代を重ねた刀工。弓張り月を見るが如き緊張感に満ちた美しい作品。

古青江 · 備中 · 1261-1264頃
藤代 上作 · 刀剣大鑑 上位5%
備中国古青江の助次は鎌倉時代前期の工で、古青江俊次の子と伝え、その古い一期を代表する刀工の一人である。名跡はその後数代を経て鎌倉末期まで続き、後代の助次には昭和年紀と「備中国万寿東庄青江助次作」[[c:1]]の長銘を有する作が知られる。その流れの中で諸記録は、この銘振りの現存作を名跡中最も古いものと位置づける。銘鑑によれば鎌倉時代に三工の助次があり、このうち本群は「現存するものの中では最も時代の古いもの」[[c:2]]と評される。作風は古青江らしい穏やかな直刃で、太刀は細身ないし尋常の身幅に腰反り高く、踏張りつき、小鋒・中鋒に結ぶ。小太刀・剣も各一口が伝わり、大磨上無銘の刀が一口、彼に極められている。
特色とする刃文は中直刃・細直刃で、極く浅くのたれ、小互の目を交え、僅かに小丁子・小乱れを交える。小足・逆足・葉が入り、小沸がよくついて匂口が締まり、細かに金筋・砂流しがかかり、刃縁には処々喰違刃やほつれがかかる。帽子は直ぐに小丸、僅かに掃きかけ、または先尖りごころとなる。直刃基調こそ常態であって、同派の中で彼を分けるのは、その基調をどれほど小互の目で破るか、僅かな小丁子・小乱れがそれに交じるかという点にある。青江の逆ごころ、すなわち同派の工を特徴づける逆足・逆がかりは、彼にあっては控えめで、逆が入る場合も小互の目の上に静かに乗る。名のある古青江の工の中でも、最も穏やかで逆の少ない直刃である。
鍛えは小板目に杢を交え、処々流れて柾がかり、総じてやや肌立ち、地沸がつき、地景が細かに入る。地斑を交え、澄肌が明らかに現れ、いわゆる縮緬肌状を呈し、かな色がやや黒味を帯びて、淡く段映り風の映りが立つ。諸記録はこの基調を一派全体、ひいては彼についても通有のものと記す。すなわちこの古青江の世代の工は、杢目が目立ち、肌が「いわゆる縮緬状の肌合」[[c:3]]へ立ち、地斑を交えることが多い鍛えに、穏やかな直刃か小乱れを交える直刃を焼き、一般によく沸がつき、同時代の備前物に比べると幾分地味で渋い味わいを醸す、という。彫物は、ある場合は棒樋を掻き流し、または掻き通す。
銘は一派の証であり、判者が見どころと名指すところである。佩裏、すなわち佩用して内に向く茎の面の、目釘孔の下、茎先寄りに、太鏨で打込みの強い大振りの二字銘を切り、鑢目は大筋違となる。諸記録はその切り方に時代を読む。「助次は同名数代あるが、この銘振のものが古い」[[c:4]]とし、草体の太鏨大振りが古く、後代は太鏨ながら書体が楷書風に角張る、という。彼の作には判者が二様の作域を立てる。常態は右の穏やかな直刃で、「同派の典型的且つ代表的な太刀」[[c:5]]がその落ち着いた出来を示す。これに対し華やかな一作が立つ。特別重要の太刀一口で、刃文が「同派の常と相違して焼幅広く」[[c:6]]、湾れに互の目・丁子・尖り刃を交えて焼き、飛焼・ほつれかかり、帽子は湾れ込んで火焰状に掃きかける。この手につき判者は「国宝に指定されている島津家伝来の康次の太刀」[[c:7]]を挙げ、古青江派の一作風を示す出来の優れた貴重な作と評する。
諸記録が率直に記すのは、工自身の個性が控えめで、一派の作風が工その人より前面に出るという点である。代表的な太刀さえ賞されつつ「助次の個性に乏しい憾がある」[[c:8]]と評される。同じ控えめさを判者は美点とも読み、その作を古雅と評し、堂々とした体配に穏やかな直刃がよく映え、地刃共に健やかで滋味豊かと賞する。彼は古青江の鎌倉前期の中核に位置し、守次・為次・次家・次忠・貞次・康次・包次・恒次、そして父俊次と共に名を連ね、その多くが「次」を通字とする。小互の目を交える穏やかな直刃は、直次・吉次ら同派南北朝の名手が見せる匂出来の直刃や逆丁子乱れへ向かう前段に立つ。判者はその位置の証として一派の茎を名指す。
藤代の極めで上作。その名を負う指定の重みは、これほど穏やかな古青江の工としては相応に厚い。特別重要に四口、重要に九口が列し、両者を合わせて十三口、さらに戦前の重要美術品に一口を数える。そのほとんどが在銘の太刀である。現存する剣について諸記録は「古青江助次の現存稀な剣の作例は貴重であり、資料的価値も頗る高い」[[c:9]]と記し、一派の古鉄が刃寄りに流れ柾を交えて地沸を微塵に厚くつけ、喰違刃・湯走りが地刃に景色をなすと評す。録された来歴は寡少ながら確かである。重要美術品の小太刀一口は杉山茂丸が重要文化財の守次の太刀と大小拵と共に愛蔵し、後に網屋へ寄贈したもので、認定時の所有者は東京の小倉陽吉である。現在の所在は一部に限られ、記録に残るところでは徳川美術館・林原美術館・厳島神社に蔵され、他は私蔵にある。在銘の古青江助次は全く手の届かぬものではなく、その作は重要・特別重要の級で取引されうる。とはいえ指定作の多くは商われずに所蔵され、最も穏やかな古青江の直刃の一口が私人の手に現れるのは稀で、それには時を要する。
助次の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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備前伝 · 備中
時期区分: 中青江· 1235–1334
現在20点販売中
中青江 備中国青江派は、高梁川下流域の子位・万寿の地を中心に栄えた一派であり、その淵源は古く、十一世紀初頭の往来物『新猿楽記』が諸国の名産物の中に「備中ノ刀」を挙げるところに遡る。これより二世紀の後、その高い評価を受け継ぐ青江派の刀工が登場し、同地に繁栄した。同派は時代的に大別され、鎌倉時代中期頃までのものを古青江、それ以降南北朝時代にかけてのものを青江と汎称する。中青江は、この後者のうち鎌倉時代後期より南北朝時代に至る一作風期を指し、青江派の最も充実した盛期に当たる。代表工としては、逆丁子の名手として定評ある次直、これと並んで直刃に長じた次吉、鎌倉時代末期より南北朝初期にかけての同派を代表する直次らが挙げられ、ほかに守次・吉次・秀次・貞次・大隅権介貞次など、多くの良工が輩出した。なお同派には太刀銘と刀銘の両方が見られ、書下し銘の手法もままみるところである。 作風を見ると、まず鍛えは小板目肌に板目・小杢目を交えてつみ、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入る。処々に地斑状の肌合を交え、肌立ちごころに縮緬肌状を呈するものもあり、これらは同派の大きな見どころである。映りは同派を特徴づける要素であり、乱れ映りが鮮明に立つほか、棟寄りの乱れ映りと刃寄りの筋状の映りとが相俟って、いわゆる段映りを形成するものが看て取れる。刃文は中直刃ないし広直刃を基調とし、小互の目・小丁子・角ばる刃などを交え、処々逆がかって逆足を交えるのが通例である。匂口は締まりごころに小沸がつき、金筋・砂流しが細かにかかり、明るく冴える。この締まって明るく冴えた匂口こそ青江物随一の美点であり、塩相の深い様は見事である。帽子は直ぐ調に浅くのたれ、先尖りごころの小丸に返るものが多い。古青江が小沸出来で匂口のやや沈んだ直刃仕立てに小乱れを交えたのに対し、中青江は沸づきが穏やかとなり、匂出来で匂口の冴え冴えとした刃文に転じた点に画期がある。さらに南北朝時代最盛期の延文頃に至っては、華やかな逆丁子乱れが完成され、これは当時にあって青江一派の独壇場というべき個性的作域となった。鎌倉時代末期の作に窺える逆がかる態や下半の賑やかな乱れは、この後の華麗な逆丁子乱れの先駆を想起させるものである。 評価の面では、中青江は日本刀の中でも第一級の声価を得ている。古来、本阿弥家では無銘の青江物で典型的かつ出来のよいものに貞次の極めをあてる傾向があり、貞次の名は『新刊秘伝抄』に「備中物極上十五貫」と最高の代付をされるなど、同派の最高位の標識とされた。直次・次直・次吉らの在銘年紀作は元徳・延慶より貞和・観応・正平・文和・延文に及び、同工・同派を研究する上で資料的価値が頗る高い。伝来も長州毛利家・肥前小城鍋島家・大垣藩主戸田家・日州延岡藩主内藤家など名家に及び、世々珍重されてきたことが知られる。直刃の静謐な締まりと逆丁子乱れの華麗とを兼ね備え、つんだ鍛え・明るく冴えた匂口・特色ある段映りを以て、備中の伝統を最も洗練した姿で示すのが、この中青江の作風期である。 詳しく見る →
鎌倉時代の備前
鎌倉時代は備前の頂点である。伝えでは一文字派の工が後鳥羽上皇の御番鍛冶に列し、世紀の半ばには光忠が長船派を興して、注文は公家からも武家政権からも流れ込んだ。国宝刀剣の数で備前に並ぶ国はない。
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