徳川の泰平のもと、大小は法度の定める身分の制服となり、需要は城下町、とりわけ江戸に集まった。工芸は二つに分かれる。目利きのための華やかな鑑賞の作と、截断の結果を金象嵌に刻む実証の刀である。
相州住綱廣 -Soshu ju Tsunahiro- 刃長29.2センチ 反り0.2センチ 元幅28.2ミリ 元重ね7.7ミリ 物打幅24.55ミリ 物打重ね6.7ミリ 裸身重量303グラム 拵に納めて鞘を払った重量469グラム 目釘穴1個 江戸 Edo era 昭和43年10月19日 岡山県登録 附属 特別保存刀剣鑑定書、青貝微塵散刷毛目塗鞘小脇指拵、素銅はばき、白鞘、継木 相州住綱廣は室町時代後期から江戸時代末期まで連綿と続いた相州鍛冶の名跡で、初代は山村姓、初銘を正廣と切り、その後小田原の北條氏綱に召し出されて「綱」の一字を賜り、綱廣と改銘したと伝えられています。綱廣の代別については判別の難しいものが少なくありませんが、藤代刀工辞典では初代を天文、二代を永禄、三代を文禄頃とし、山村家系図および古文書によれば天文七年(1538)から天文十年(1541)の間に初・二代の代替わりがあったとされています。三代綱廣は山村宗右衛門と称して鎌倉扇ケ谷に住し、後に津軽藩主の招きによって津軽へ赴き、大小三百振を鍛刀して慶長十一年(1606)に帰国したと伝わり、その作には「津軽主為信相州綱廣 慶長十乙巳八月吉日 三百腰之内」「津軽主為信相州綱廣呼下作之 慶長十乙巳八月吉日」などの銘文を残しています。こうして中世相州鍛冶の伝統を受け継いだ綱廣の名跡は代々継承され、江戸時代を通じて幕末まで栄えました。 本作はその長い系譜のうち新々刀期に鍛えられた綱廣の一口で、平造、庵棟、刃長29.2センチの寸延びの姿を呈し、元先の幅差は目立って開かず、元重ね7.7ミリを有する肉置きのしっかりとした体配となっています。地鉄は小板目に杢目を交えてよく錬れ、肌目が詰んで地沸が付き、刃文は匂口明るく、互ノ目に小湾れを交えて刃縁には細かな砂流しがかかり、鋩子は直ぐに入り先丸く返るなど、端正な姿の中に相州鍛冶の伝統を受け継ぐ綱廣らしい趣を見せています。華美に走ることなく地刃ともに破綻なくまとまり、寸延びながら十分な重ねと身幅を保った健全さも本作の大きな見どころです。 さらに本作の価値を大きく高めているのが、刀身とともに伝来した青貝微塵散刷毛目塗鞘小脇指拵です。黒漆地の鞘に青貝微塵を散らした落ち着きのある外観に、七宝に割菱紋を配した一作金具で統一され、縁頭、鐔、栗形、返角から小柄、笄に至るまで共通した地文と意匠によってまとめられています。とりわけ小脇指拵では伝来の過程で失われやすい小柄と笄がともに完備している点は極めて貴重で、単なる付属外装の域を超えて刀装史料としても興味深い一作となっています。鐔には僅かな鳴りが認められるものの柄にがたつきはなく、はばきと切羽の造り込みを仔細に見ると元来は着せが施されていたことが窺え、往時には現在以上に華やかな姿であったものと考えられます。 刀身、時代拵、白鞘、継木がまとまって今日まで伝存した本刀は、鑑賞できる、資料性と美術性を兼ね備えた優品です。























相州伝 · 相模 · 1781-1789頃
刀剣大鑑 上位76%
現在1点販売中
相州伝 · 相模
時期区分: 末相州· 1356–1868
現在45点販売中
末相州は、南北朝の広光・秋広の代を承け、室町期に入って相模で営まれた相州伝の継続である。現存遺品に即せば、室町中期を遡るものはなく、室町後期から戦国期にかけてが本区分の中心をなす。その軸となる工が綱広で、銘鑑には初代を建武とする伝もあるが、確かな在銘は天文年紀のものが最も古く、通説はこれを初代として、二代を天正、三代を慶長、四代を寛永、五代を万治頃と伝える。綱広は広正の子孫で、初め名跡を継いだが、後北条家の氏綱に召されて小田原に居を移し、綱の一字を賜って改銘したと伝え、その名跡は新々刀期にまで連なった。鎌倉にはこの綱広らが住し、これと別に小田原には康春・康国・総宗・景総らが在住して、これらを小田原相州と称する。広次もまた相州鎌倉に住して明応・天文の頃に活躍し、室町後期を代表する相州鍛冶の一人に数えられる。後北条氏の庇護のもと、正宗・貞宗を生んだ南北朝の盛時を遠く望みつつ、皆焼の系譜を保持して相州伝を伝えたのが、この区分の刀工たちであった。 作風の核は、広光・秋広が完成させた皆焼を継ぐ点にある。鍛えは板目に杢や流れ肌を交えてやや肌立ち、地沸がつき、地景が入る。刃文はのたれ・互の目に丁子・矢筈風の刃・尖り刃などを交え、飛焼・棟焼を盛んに交えて皆焼となり、沸がよくつき、金筋・砂流しがかかる。綱広は玉状ないし三日月状の飛焼を見せる皆焼を得意とし、広次に至っては焼高く、沸の強い迫力ある皆焼を焼いて、一見すると南北朝の長谷部派を思わせるほどに到る。古典相州の頂点と分かつのは、この皆焼の扱いに見える。正宗・貞宗の代では、のたれ基調の地刃に沸が深く澄んで明るく冴え、地にこぼれた沸が湯走りをなして自在に働いたのに対し、末相州の皆焼は飛焼・棟焼を全面に散らす構成そのものを看どころとして前に押し出す傾きを帯び、地鉄もやや肌立って、鎌倉期の鉄の冴えからは一段隔たる。小田原相州はこの大筋において綱広らと大差ないが、小振りの刀姿があること、濃厚緻密な彫刻を多く備えることに特色があり、殊に総宗の倶利迦羅や八幡大菩薩・梵字の彫は巧緻と評される。 鑑定にあっては、まずやや肌立つ板目に地沸・地景が働き、飛焼・棟焼を交えた皆焼に金筋・砂流しがかかる地刃を相州の継続と読み、次に古典との隔たりを沸の深さと鉄の冴えの差、そして皆焼を誇示的に焼き出す傾きに求めて末相州と分かつ。区分内では、綱広を皆焼と玉状の飛焼に、広次を長谷部風を思わせる強い沸の皆焼に、総宗ら小田原相州を小振りの姿と緻密な彫刻に見分ける。主要工は綱広・広次・総宗で、康春・康国・景総がこれに連なる。伝来の面では、綱広に後北条家の重臣桜井大学の所持銘を有する一口があり、本区分が後北条氏の小田原を地盤として営まれた事実を裏づけている。 詳しく見る →
江戸時代
徳川の泰平のもと、大小は法度の定める身分の制服となり、需要は城下町、とりわけ江戸に集まった。工芸は二つに分かれる。目利きのための華やかな鑑賞の作と、截断の結果を金象嵌に刻む実証の刀である。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトお求めになられた商品とは異なる商品をお届けしてしまった場合や、表記内容と現物とに大きな隔たりなどがあった場合を除き、基本的に返品はお受けいたしません。返品をご要望の場合は、商品到着後3日以内に御連絡の上ご返送下さい。
¥1,430,000
相州住綱廣 -Soshu ju Tsunahiro- 刃長29.2センチ 反り0.2センチ 元幅28.2ミリ 元重ね7.7ミリ 物打幅24.55ミリ 物打重ね6.7ミリ 裸身重量303グラム 拵に納めて鞘を払った重量469グラム 目釘穴1個 江戸 Edo era 昭和43年10月19日 岡山県登録 附属 特別保存刀剣鑑定書、青貝微塵散刷毛目塗鞘小脇指拵、素銅はばき、白鞘、継木 相州住綱廣は室町時代後期から江戸時代末期まで連綿と続いた相州鍛冶の名跡で、初代は山村姓、初銘を正廣と切り、その後小田原の北條氏綱に召し出されて「綱」の一字を賜り、綱廣と改銘したと伝えられています。綱廣の代別については判別の難しいものが少なくありませんが、藤代刀工辞典では初代を天文、二代を永禄、三代を文禄頃とし、山村家系図および古文書によれば天文七年(1538)から天文十年(1541)の間に初・二代の代替わりがあったとされています。三代綱廣は山村宗右衛門と称して鎌倉扇ケ谷に住し、後に津軽藩主の招きによって津軽へ赴き、大小三百振を鍛刀して慶長十一年(1606)に帰国したと伝わり、その作には「津軽主為信相州綱廣 慶長十乙巳八月吉日 三百腰之内」「津軽主為信相州綱廣呼下作之 慶長十乙巳八月吉日」などの銘文を残しています。こうして中世相州鍛冶の伝統を受け継いだ綱廣の名跡は代々継承され、江戸時代を通じて幕末まで栄えました。 本作はその長い系譜のうち新々刀期に鍛えられた綱廣の一口で、平造、庵棟、刃長29.2センチの寸延びの姿を呈し、元先の幅差は目立って開かず、元重ね7.7ミリを有する肉置きのしっかりとした体配となっています。地鉄は小板目に杢目を交えてよく錬れ、肌目が詰んで地沸が付き、刃文は匂口明るく、互ノ目に小湾れを交えて刃縁には細かな砂流しがかかり、鋩子は直ぐに入り先丸く返るなど、端正な姿の中に相州鍛冶の伝統を受け継ぐ綱廣らしい趣を見せています。華美に走ることなく地刃ともに破綻なくまとまり、寸延びながら十分な重ねと身幅を保った健全さも本作の大きな見どころです。 さらに本作の価値を大きく高めているのが、刀身とともに伝来した青貝微塵散刷毛目塗鞘小脇指拵です。黒漆地の鞘に青貝微塵を散らした落ち着きのある外観に、七宝に割菱紋を配した一作金具で統一され、縁頭、鐔、栗形、返角から小柄、笄に至るまで共通した地文と意匠によってまとめられています。とりわけ小脇指拵では伝来の過程で失われやすい小柄と笄がともに完備している点は極めて貴重で、単なる付属外装の域を超えて刀装史料としても興味深い一作となっています。鐔には僅かな鳴りが認められるものの柄にがたつきはなく、はばきと切羽の造り込みを仔細に見ると元来は着せが施されていたことが窺え、往時には現在以上に華やかな姿であったものと考えられます。 刀身、時代拵、白鞘、継木がまとまって今日まで伝存した本刀は、鑑賞できる、資料性と美術性を兼ね備えた優品です。























相州伝 · 相模 · 1781-1789頃
刀剣大鑑 上位76%
現在1点販売中
相州伝 · 相模
時期区分: 末相州· 1356–1868
現在45点販売中
末相州は、南北朝の広光・秋広の代を承け、室町期に入って相模で営まれた相州伝の継続である。現存遺品に即せば、室町中期を遡るものはなく、室町後期から戦国期にかけてが本区分の中心をなす。その軸となる工が綱広で、銘鑑には初代を建武とする伝もあるが、確かな在銘は天文年紀のものが最も古く、通説はこれを初代として、二代を天正、三代を慶長、四代を寛永、五代を万治頃と伝える。綱広は広正の子孫で、初め名跡を継いだが、後北条家の氏綱に召されて小田原に居を移し、綱の一字を賜って改銘したと伝え、その名跡は新々刀期にまで連なった。鎌倉にはこの綱広らが住し、これと別に小田原には康春・康国・総宗・景総らが在住して、これらを小田原相州と称する。広次もまた相州鎌倉に住して明応・天文の頃に活躍し、室町後期を代表する相州鍛冶の一人に数えられる。後北条氏の庇護のもと、正宗・貞宗を生んだ南北朝の盛時を遠く望みつつ、皆焼の系譜を保持して相州伝を伝えたのが、この区分の刀工たちであった。 作風の核は、広光・秋広が完成させた皆焼を継ぐ点にある。鍛えは板目に杢や流れ肌を交えてやや肌立ち、地沸がつき、地景が入る。刃文はのたれ・互の目に丁子・矢筈風の刃・尖り刃などを交え、飛焼・棟焼を盛んに交えて皆焼となり、沸がよくつき、金筋・砂流しがかかる。綱広は玉状ないし三日月状の飛焼を見せる皆焼を得意とし、広次に至っては焼高く、沸の強い迫力ある皆焼を焼いて、一見すると南北朝の長谷部派を思わせるほどに到る。古典相州の頂点と分かつのは、この皆焼の扱いに見える。正宗・貞宗の代では、のたれ基調の地刃に沸が深く澄んで明るく冴え、地にこぼれた沸が湯走りをなして自在に働いたのに対し、末相州の皆焼は飛焼・棟焼を全面に散らす構成そのものを看どころとして前に押し出す傾きを帯び、地鉄もやや肌立って、鎌倉期の鉄の冴えからは一段隔たる。小田原相州はこの大筋において綱広らと大差ないが、小振りの刀姿があること、濃厚緻密な彫刻を多く備えることに特色があり、殊に総宗の倶利迦羅や八幡大菩薩・梵字の彫は巧緻と評される。 鑑定にあっては、まずやや肌立つ板目に地沸・地景が働き、飛焼・棟焼を交えた皆焼に金筋・砂流しがかかる地刃を相州の継続と読み、次に古典との隔たりを沸の深さと鉄の冴えの差、そして皆焼を誇示的に焼き出す傾きに求めて末相州と分かつ。区分内では、綱広を皆焼と玉状の飛焼に、広次を長谷部風を思わせる強い沸の皆焼に、総宗ら小田原相州を小振りの姿と緻密な彫刻に見分ける。主要工は綱広・広次・総宗で、康春・康国・景総がこれに連なる。伝来の面では、綱広に後北条家の重臣桜井大学の所持銘を有する一口があり、本区分が後北条氏の小田原を地盤として営まれた事実を裏づけている。 詳しく見る →
江戸時代
徳川の泰平のもと、大小は法度の定める身分の制服となり、需要は城下町、とりわけ江戸に集まった。工芸は二つに分かれる。目利きのための華やかな鑑賞の作と、截断の結果を金象嵌に刻む実証の刀である。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトお求めになられた商品とは異なる商品をお届けしてしまった場合や、表記内容と現物とに大きな隔たりなどがあった場合を除き、基本的に返品はお受けいたしません。返品をご要望の場合は、商品到着後3日以内に御連絡の上ご返送下さい。
¥1,430,000