二十世紀は二度この工芸を殺しかけた。戦時の歪みと、占領下の禁令である。1948年の日刀保設立と1953年の作刀再開が刀を美術として再建し、人間国宝と無鑑査がその頂に立つ。
陸軍受命刀匠 兼秀 注文打ち刀のご案内です。 兼秀は独軍ヒットラー、伊軍ムッソリーニ、東条英機、三首相への刀を鍛刀しております。 また、天皇皇后両陛下行幸に際しての献上刀鍛錬の栄誉にも浴されております。 詳しくは説明下部をご覧ください。 さて、本作を見て行きます。 姿はやや腰よりに反りが付いて物打ち伏せ目に、鎬は高めになり、切先は中帽子に結んでいます。 地肌は板目良く詰み、刃紋は匂い出来の細かめな三本杉でふんわり足も刃先まで入り品があります。切先は乱れ気味に入って小丸に返っています。注文刀だけあってとても出来が良いです。 拵えは98式後期型の略式木製革巻き鞘が付属していますが、柄には家紋銀象嵌、猿手は標準の銅製ですが、尉官の刀緒が付いています。 当初は98式前期型の鉄鞘が付属していたと思われます。戦場で破損損壊してしまったのでしょう。 付属の後期型鞘は革の状態良く、駐爪の掛かりもパチッと収まります。 この拵えで特筆するべきは、駐爪(ちゅうそう)にあります。 駐爪とは軍刀特有の縁金具にある、止め爪のことですが、98式の後期革包鞘タイプの軍刀鯉口は、旧来の鎺留め、または革ボタン留め、革ベルト留め等になるはずですが本刀は駐爪留めとなっており、この後に制定される3式軍刀への過渡期に作られた物であると思われます。 また、吊り金具も付属しており資料的にも面白いです。 オリジナル刀箱も付属しております。 当時の墨書きも残っています。刀の反りに合わせて箱自体にも反りが付いており特注品です。 この当時、昭和13年はまだ刀匠や刀装具関係も軍に統制されていない、自由販売、自由競争でしたので注文打ちの刀は大変高価な品物でした。 刀身や峰にも薄錆はありますが、油を塗って手入れして頂ければ問題ありません。 現状でも十分に鑑賞して頂けます。 お好きな方、宜しくお願い致します。 以下に 『日本刀鍛錬塾』と『刀匠 兼秀 中田 勇』について説明を載せておきます。 ご参照ください。 ※『日本刀鍛錬塾』 その前身は昭和7年に美濃刀匠擁護会(会長 後藤治兵衛、理事 後藤扇吉・山田長蔵・兼村虎之助・山田勝・生駒平十郎・森豊)の設立に始まる。 七百年の歴史と伝統を有する美濃関伝の継承と日本刀鍛錬の技術向上を図ることを目的に有志が後援会を組織した。 その後、昭和9年4月に「日本刀鍛錬・渡邊兼永指導所」が開設され、支援者も増えたこともあって、昭和12年4月に「日本刀鍛錬塾」となった。 昭和12年の日華事変から関では軍刀として製作するようになった。 昭和16年12月8日大東亜戦争が始まるまでは「昭和刀」とも呼ばれた軍刀は自由販売・自由競争であった。 戦争がはじまると、日本陸軍統制下となり全刀工は陸海軍の軍刀を製作して、多い時は月産五万本から六万本を製作。中でも関刀剣株式会社は軍監理工場となる。 昭和20年8月15日大東亜戦争の日本国の 敗戦による終戦のため20日に「日本刀鍛錬塾」は解散式を行いました。 鍛錬塾長 渡邊兼永、塾頭 山田長蔵(兼長)、塾生長 中田勇(兼秀)、 理事長 後藤治兵衛、理事 兼村虎之助・小坂利雄・椎名威・ 福田好司・遠藤斎治朗・河田新次・吉田亨三郎・石田清三郎、主事会計 大野庄一が運営。 ※中田 勇、刀匠銘『兼秀』は大正二年(1913)八月二十四日、長野県木曽郡大桑村に生まれました。 昭和三年(1928)、大桑村の尋常小学校卒業後は高知県安芸市、十二代川島正秀鍛錬所にて徒弟として八年間の鍛錬技術習得後、昭和十二年(1937)二月には岐阜県関市に移住し渡辺兼永の門下で日本刀美濃伝の研究に着手、昭和十五年十月まで日本刀鍛錬塾の塾生長となりました。 当時の同盟国(三国同盟)である独国首相ヒットラーと伊国ムッソリーニ首相に日本刀を献上しました。 同十六年(1941)に関刀剣株式会社に陸軍指定刀匠として入社後は優秀な鍛錬技術を認められて、東條英機総理大臣に軍刀を献上 するなど昭和前期を代表する刀匠でした。 戦後に作刀を再開し昭和三十年(1955)、(財)日本美術刀剣保存協会主催の作刀技術発表会での初入選後は努力賞2回、入選13回を連続受賞しました。 昭和三十二年(1957)には、天皇・皇后両陛下への献上刀を鍛錬の栄誉に浴されました。 昭和三十八年(1963)には、『兼秀日本刀鍛錬所』を設立して日本刀の鍛錬と研究に専念し、また後進を育成しました。 昭和五十一年(1976)十一月二十二日『関市重要無形文化財』認定、翌五十二年(1977)三月十一日には『岐阜県重要無形文化財』に指定されております。 峯側写真です。真ん中辺り↑に薄錆あります。
関派Seki School
取扱店 刀剣 はせ川



美濃伝 · 美濃
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美濃国の関は、南北朝より室町、新刀期に至るまで日本刀の一大生産地として栄えた鍛冶の地である。その源流は二つに発し、説明書は金重と志津兼氏とを並べて美濃鍛冶の祖とする。金重は『古今銘尽』に法名道阿、越前敦賀の住人と伝えられ、敦賀より関へ越えて住したといい、相州正宗十哲の一に数えられて、沸の厚い穏やかな手を美濃の地鉄に持ち込んだ。兼氏に発する志津の系は、尖り互の目に走る乱調をもって、いま一つの根をなす。この二流が南北朝の美濃伝を形づくり、金行のごとく金重に続く工、室町に入って善定派の兼吉のように大和手掻の血を関に運んだ工が加わって、流れは広がった。室町後期には兼元・兼定の二名を頂点とする末関の隆盛を迎え、孫六兼元の名と和泉守兼定の受領とが、地方の量産地にとどまらぬ関の格を世に示した。大和と相州の二つの源流に、備前を意識した白け映りの地が結ばれて、美濃伝という一個の伝法が立ったのである。 関物を貫くのは、工と系統の差を越えて繰り返される美濃の共通語法である。地鉄は板目に柾を交えてしばしば肌立ち、刃寄りに柾がかり、鎬地は柾に流れる。その地に立つ映りは備前の明るい乱れ映りではなく、淡く白ける美濃鉄の靄のような白け映りで、説明書はこれを終始、備前と作を分かつ見どころとして掲げる。刃文は互の目を主調に尖り刃を交え、兼元にあっては整然と並ぶ尖り刃の三本杉となり、兼定や兼之にあっては頭の丸い互の目とのたれを交えて変化に富む。沸は乾いて締まり、匂口は冴え、足入り、砂流し・細かな金筋が刃中を走る。帽子は乱れ込んで先尖りごころとなり、あるいは丸く地蔵風に返る。これらは関の背骨をなす型であって、工により濃淡を異にする。金重・金行の手は穏やかで地が肌立ち、善定兼吉は大和の血を負って締った直刃と柾がかる板目を見せ、末関の氏房は大らかなのたれに尖り刃を折り込み、兼房は頭の丸い互の目の兼房乱れを得意とする。同じ語法のうちに、それぞれの工の手が読み分けられる。 収集家が関物を求めるのは、その鑑定が手応えを伴う一個の眼の修練だからである。映りが白く沸が乾いて締まる美濃の地刃は、備前の華やかな映りとも、山城の長く澄んだ直刃とも異なり、これを見分けることが関を識る勘所となる。主要工の格は説明書の評にそのまま現れる。孫六兼元は三本杉の創始者として名を成し、和泉守兼定すなわちノサダは、白ける板目に焼いた賑やかな美濃の刃と来国俊風の細直刃の双方を能くして、古刀期に珍しい受領を許され、刀剣書が「すぐれたる上手」と評する当代第一の手とされる。兼之は末関中最もよく練れた鍛えを見せて作域広く、永正・大永のノサダとして賞玩が厚い。これらの名は将軍家・大名家の伝来を負い、ノサダの太刀には武田信虎のために打たれた一口があり、菊花紋を切った刀は皇室との関わりを示し、徳川将軍家への献上を経た金重の短刀も伝わる。末関の氏房一門は清須・名古屋へ移って尾張新刀三祖の一を生み、古い美濃の手が新たな伝統へ移る蝶番に立った。切れ味をもって武用に応えた量産の地でありながら、孫六兼元らの最上手の作は美術的価値においても高く評され、その白け映りと乾いた沸の手を識ることが、美濃伝いかに始まり継がれたかを語る証となる。 詳しく見る →
昭和から現代へ 断絶と再生
二十世紀は二度この工芸を殺しかけた。戦時の歪みと、占領下の禁令である。1948年の日刀保設立と1953年の作刀再開が刀を美術として再建し、人間国宝と無鑑査がその頂に立つ。
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