説明

刀 銘:飛騨守氏房 飛騨守氏房は、その波乱に満ちた生涯から、日本国内でも非常に人気の高い刀工です。 天正5年(1577年)、氏は織田信長の三男である織田信孝の小姓として仕え、紀州征伐などの陣中にも供奉しました。しかし、信孝は後に豊臣秀吉と対立し、岐阜城にて秀吉方の織田信雄に包囲され自害に追い込まれます。天正11年(1583年)、主君・信孝の切腹により、氏房は浪人の身となりました。 もともと氏房は、美濃国の名工として知られた父・若狭守氏房から作刀を学んでいましたが、浪人となった後の天正16年(1588年)、本格的に父に師事し刀工の道を歩み始めます。伝承によれば、父の没後は初代信高のもとで修行を完成させたと伝えられています。 その後、秀吉の甥である関白・豊臣秀次公の推挙により、天正20年(1592年)5月11日、「飛騨守」を受領しました。 飛騨守氏房は、かつて自ら武士として戦場に立った経験から、作刀に対して独自の深い洞察を持っていました。その作品は圧倒的な存在感を放っています。 体配は、身幅広く、反り浅く、鎬の高い、極めて剛健な姿を特徴とします。 地鉄は小板目に木目、流れ肌や政目が交じります。 刃文は、匂口の沈んだ末関風のものから、大互の目乱れに尖り刃を交えるもの、あるいは湾れに互の目や丁子を交え、小沸出来で匂口の明るく冴えるものまで多岐にわたります。その作域は、時に伊勢の村正を彷彿とさせるような、覇気に満ちた激しいものも見受けられます。 飛騨守氏房の刀は「業物」に列せられ、その切れ味の鋭さには定評があります。伯耆守信高や政常らと並び、尾張新刀の先駆者として高く評価される名工です。

Hida no Kami Ujifusa Katana
Tokuho

Hida no Kami Ujifusa Katana

$24,000

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仕様

長さ

68 cm

元幅

3.3 cm

作者について

Seki Ujifusa氏房

9 重要刀剣

若狭守氏房は十六世紀後半の元亀・天正年間に美濃の関で鍛刀した工で、説明書は彼を美濃の伝統の最後で最大の一群たる末関を代表する刀工の一人に数える。関兼房の子であり、説明書はその名にまつわる一事を伝える。始めは父の兼房を襲名し、後に氏房と改めたのは、今川氏真から「氏」の一字を賜ったものともいうのである。若狭守の受領は永禄十三年といい、令和に指定されたある刀には今なお「尾州清須住」の居住地銘があって、晩年に関から尾州清須へ移居した記録を留める。この移居は彼自身の作にとどまらぬ意味を持つ。その子が尾張氏房派の祖たる飛騨守氏房、尾張新刀の三祖の一人であり、父は古い美濃の伝統が新たな尾張の作へと移る蝶番に立つ。 その代表作は大らかな刀で、元亀年紀の一口がその典型である。鎬造・庵棟、身幅広く中鋒あるいは大鋒、延びるものや僅かに磨上げたものもあり、説明書はこの体配を、元亀の頃には打刀が太刀に替って長大となり両手で使用されたことの証と読む。この姿にのたれあるいは大互の目を焼き、美濃の尖り刃を交え、足・葉入り、匂口は締り沈みごころから明るきに至り、小沸ついて砂流し・処々飛焼を交える。大らかな乱れに交える尖り刃は平生の刀の美濃の見どころで、彼を関の本流に据える特徴である。説明書はかかる一口を「この刀は氏房の代表作で、豪壮な造込で大どかな刃文を焼き」と評し、出来がよいとする、説明書が惜しんで用いる静かな賛である。 地鉄も同じ関の性を帯びる。板目は緊まらず肌立ちごころとなり、処々流れて流れ肌となり鎬地は柾に流れ、地沸つき、力強い作には地景も入る。この肌立って流れた地が末関の地であり、彼の沸や飛焼を載せる床である。近年の刀に説明書は元亀・天正の力強い体配に豪快な乱れ刃を読み、匂口明るく沸よくつき、地刃の保存も頗る良いとする。帽子は下の刃に応じて多く乱れ込んで小丸となり、尖りごころに掃きかけるものもあるが、焼が帽子全体へ及んで一枚となるものも少なからずあり、令和指定の一口を説明書は「帽子一枚となり返りを長く焼下げる」とし、昭和指定の一口を「帽子殆んど一枚風に乱れ込み、先小丸」と読む。彫物は棒樋を掻通す。これらは工房平均の冷たく整った関物ではなく、伝統のより豪快で奔放な端であり、ゆえに説明書はこの出来のものを稀れとする。 この大らかな刀の手に対し、第二の稀な面が短刀に見える。山城物写しである。天正年紀の平造の短刀がその遺例で、寸に比して身幅やや広く重ね厚く内反りとなり、総体に流れた小板目に指表は殊に柾気つよく、地沸細かにつき、地に白気を帯びたうつりが立つ。刃文は細直刃、匂勝ちに匂口締まりごころとなって小沸つき、帽子は直ぐに静かな小丸、彫物は表に護摩箸、裏に腰樋。この手について説明書は「この期の関物にはよく山城物写しがみられる」とし、本作を「いかにも品よくまとまっており、氏房中の上々作」と評する。彫物は造込みに連動し、刀が棒樋を掻通すのに対し、護摩箸や腰樋は平造の短刀に属する。 その一門の中の位置は、借りた比較よりも彼自身の地に即した特徴から取るのがよい。彼は末関の工で、その手は肌立った板目、大らかなのたれ・大互の目に折り込んだ尖り刃、時に錬れた山城物写しの直刃に認められる。明るい乱れと棒樋の刀がその背骨、静かな白け映りの短刀がその風情である。系譜は彼を通って清らかに流れる。父兼房より美濃の体を受け、清須への移居とともにそれを尾張の閾へと運び、子飛騨守氏房がその大らかなのたれを落ち着いた尾張新刀の手に錬り上げ、政常・信高と共に同派の三祖の一人に数えられる。説明書は同名数代続いたことを記し、父はその出自の根である。 氏房はすべて重要刀剣の格に残り、国宝も重要文化財も記録されず、その作は美術館の群よりは数寄者の手の届く側にある。指定の記録は在銘の刀九口と在銘の短刀一口をその指定作に擁し、いずれも極めではなく在銘の作で、元亀・天正の年紀を有するものが幾口かあり、一口は説明書が晩年の尾張期研究の好資料として貴ぶ「尾州清須住」の居住地銘を帯びる。これらの刀に大名の伝来も所蔵機関も記録されず、説明書はその現存作、就中打刀が比較的に少く、これ程までに出来の優れたものは稀れと率直に記す。在銘年紀の大らかな元亀・天正型の若狭守氏房の刀に出会うのは稀なことで、数寄者はこれを折にふれ、忍耐をもって、その最も優れたものを末関の領分の頂で見るに過ぎない。説明書はその佳品を平らかに評し、ある一口を豪壮な造込の代表作とし、ある一口を「室町末期の関物の典型的且つ代表作の一口」とし、品よき直刃の短刀を上々作とする。

刀剣商

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