1333年に鎌倉は落ちたが、一派の最大の時代はその後に来た。師の水準で鍛える貞宗、皆焼を大成した広光と秋広。相州風は軍勢とともに広がり、一時は国じゅうの様式となった。
地刃美しく重要刀剣級の出来 本刀、筑前左国弘と極められ刃長二尺三寸弱 大磨り上げでこの長さのため元太刀として作刀されたことは容易に推測ができます。 時代は正平(しょうへい)西暦でいうと1346年から1370年までの期間の元号 筑前国左文字は、正宗十哲の一人に数えられ、正宗の相州伝を習得した刀工として名高い。 南北朝時代初期に出現し、それまでの古典的な九州物の作域から脱却し、旧来の西海道諸鍛冶とは全く違う作域を樹立、刃は明るく冴え、垢抜けした独自の作風を創出する。 一門の安吉・行弘・吉貞・国弘・弘行・弘安らは師伝をよく継承して大いに活躍する。 国弘は吉弘の子、また一説には定行の子とも伝えられ、有銘の現存作は少ないが短刀に正平十二年紀のものあり。 商品の状態 *刃切れ・刃絡み・目立った刃こぼれ・曲がり・撓え・膨れ・匂い切れ・駆け出しなどございません。 *時代による、汚れ、細かな擦れ傷,劣化等はご了承ください。写真を参考にしてください。




Chikuzen Samonji (Sa school) · 筑前 · 1346-1370頃
藤代 上々作 · 刀剣大鑑 上位21%
現在1点販売中
正平十二年紀の在銘の平造短刀「国弘作」は、その記録の定点である。在銘の遺作が他に乏しいため、説明書はこれによって本工の活躍期を窺い知る。国弘は南北朝時代の筑前左文字、すなわち左一派の刀工で、吉弘の子とも一説に定行の子とも伝える。説明書は本工を大左から継がれた高弟の一人に置き、一派は南北朝初期に出現し、従来の伝統的な九州物の作域を脱して「地刃が明るく冴えて垢抜けした作風」[[c:1]]を確立したと記す。安吉・行弘・吉貞・国弘・弘行・弘安・貞吉らがその師風をよく受け継いだなかで、最も放胆で焼の高い作をあてられたのが国弘である。
本工の見どころは、のたれを主調とした大模様の乱れ刃である。説明書は作風に両様あるとし、その一を「のたれを主調としたやや大模様の乱れ刃」[[c:2]]と述べて、これに互の目・小互の目・小のたれ・尖りごころの刃を交え、総じて焼高く華やかに乱れるとする。匂深く、沸は厚くむらにつき処々荒めの沸を交え、細やかな金筋・砂流しが地にこぼれてさかんにかかり、湯走り状の飛焼を頻りに見せる。これは左一類中最も華やかな手であり、それが国弘の手とされる所以でもある。すなわち本阿弥家は左一類を鑑するに、「最もさかんに乱れ」[[c:3]]たものに国弘の極めをあてる傾きがあった。
地鉄は両様の下に一貫する。杢・流れ肌を交えて肌立つ板目に、地沸厚くつき、太い地景頻りに入り、かね色やや黒みを帯びる。これは相州伝に発する左の地鉄で、肌立って働きに富み、明るくつんだ備前の小板目・映りではない。小振りの在銘作で鍛えがつまれば地沸は微塵となって冴える。帽子は典型の作では乱れ込み、突き上げて先尖り、さかんに掃きかけて長く返り、穏やかな作では直ぐに小丸となる。説明書が第一と併せて挙げるもう一様は、直刃調に互の目を交えた穏やかな手で、主に平造の短刀・寸延びの脇指に見られる。
現存の記録の多くは無銘である。左一派の長大な南北朝の太刀は後世に磨り上げられて打刀に改められ、今日その名を負う作の大半は大磨上無銘で、身幅広く元先の幅差目立たず、反り浅く大鋒の延びた南北朝盛期の豪壮な姿をなす。これらについて説明書はあらゆる点から左一派と首肯し、その中でも焼が高く大模様で沸づきに変化があり、刃中の働きが豊富で湯走り状の飛焼もよくかかることから、「同派の国弘に最も擬せられる」[[c:4]]と判ずる。正平十二年紀の短刀が年代を定め、在銘の太刀は一口が『光山押形』に所載され、一派全体を研究する上でも資料性が高いものとされる。
本工を分かつ言葉は、他派に対してではなく、その一門のうちに語られる。左の工は技倆ほぼ伯仲して個々の鑑別が頗る困難であり、説明書もそれに率直で、国弘への極めは個性の見どころよりも作域の放胆と大模様に拠るとする。同門のなかで最も華やかで焼の高い乱れを保ち、放胆な湯走りと突き上げて尖る帽子をその目当てとする点が、これを分かつ。同じ説明書はその技倆についても正直で、「技術は遠く大左に及ばず」[[c:5]]と記すが、最上の小品の精良で明るい地刃には「一脈大左に相通ずるものがあって」[[c:6]]、この縁が本工を一派の高弟に列せしめる。
収集の観点では、稀な南北朝の名である。藤代の極めは上々作。国宝はなく、その記録は神社に伝わる在銘短刀二口に重要文化財の級を見る。一は香川の金刀比羅宮、一は愛媛の東雲神社の蔵で、いずれも社に守られた文化財である。これを措けば、記録される作は現代のより高い級を通じ、特別重要刀剣に四口、ほかは重要刀剣で、指定を受けた作は凡そ五十口を数える。その来歴は大名家にも及び、徳川将軍家に伝わった刀があり、久松松平家伝来の作があり、現在は徳川美術館・岩手県立博物館にも収まる。在銘の作は頗る稀で、紀年の短刀はそれ自体が一個の証であり、磨上無銘の刀のうち特別重要刀剣・重要刀剣の級はわずかであるから、左国弘が私蔵に渡ることは稀であり、在銘の一口はさらに稀で、左一派がその明るく放胆な作風を南北朝盛期に伝えた様を伝える得難い遺品である。
國弘の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
相州伝 · 筑前
時期区分: 末左· 1338–1450
現在8点販売中
末左とは、大左の後を承けた左文字派の後代を総称する呼び名である。説明文がたびたび繰り返すように、筑前国左文字は南北朝時代初期に出現し、それまでの古典的な九州物の作域から脱皮して地刃の明るく冴えた作風を確立したが、その一門は末左と汎称され、安吉・行弘・吉貞・国弘・弘行・弘安・貞吉らが師風をよく受け継いで活躍した。これらの諸工は大左の子あるいは門人と伝えられる。安吉は大左の子で、後に筑前から長州へ移住したと伝え、その移住は正平十七年紀の「長州住安吉」の銘振りが常々の安吉銘と一致することから首肯される。弘安は行弘の子と伝え、現存作に正平二十年紀、『埋忠押形』所載のものに正平十三年紀がある。国弘は吉弘の子とも定行の子とも伝え、貞国は左国弘の子で時代を応安頃とする。世代は南北朝盛期から末期、降って室町初期の応永にまで及び、安吉の作には永和・応永年紀のものが遺って代替りの存在も窺われる。 作風の上では、末左は大左が確立した相州伝を一代隔てて受け継いでいる。鍛えは板目に小板目・杢を交え、肌立ちごころとなって地沸が厚くつき、地景が細かに頻りに入り、淡く沸映りが立つ。刃文はのたれを基調に互の目・小互の目・尖りごころの刃を交え、足・葉が入り、匂が深く小沸が厚くついて、金筋・砂流しが細かにかかる。帽子は乱れ込んで突き上げ、先が尖りごころとなって掃きかけ、長く返る。これらは左一類の特徴であり、無銘の刀を左一類と鑑る拠りどころとなる。ただし大左の地刃に見られる際立った冴えに対し、末左ではその度合いがやや劣り、匂口が沈みごころとなる作も少なくない。作柄は一門の諸工に比して特に際立った個性を見出し難く、定型化の傾きをもつ。なかには安吉のように刃沸が弱く匂勝ちで、刃近くに棒映りを現して備前気質を交える手もあり、大左の純然たる相州伝からの隔たりを示している。 末左を大左と分かつ鑑定の要点は、地刃の冴えの度合いと、作風の定型化の度合いにある。明るく冴えた地と突き上げて尖る帽子という見どころは共有しつつも、末左ではその冴えが一段退く。無銘極めにおいては、互の目の目立つものは弘安に、最も華やかに大模様へ乱れたものは国弘に擬する、というのが本阿弥家以来の見方である。主要工としては、行弘が大左に最も接近する弟子として一群の頭に立ち、安吉・国弘・弘安・貞国らが続く。在銘作は一様に頗る稀で、太刀の弘安在銘や安吉の生ぶ在銘短刀のごときは資料的価値が極めて高く、その多くは大磨上無銘の同工極めを通じて世に伝わる。伝来も豊かで、弘安の刀には黒田家・高須松平家・久松家に伝わったものがあり、本阿弥光忠・光温らの折紙を伴う。貞国の短刀は毛利家に伝わり、吉弘の太刀は備前池田家に伝来して、八代将軍吉宗より池田継政が拝領したと考えられている。 詳しく見る →
南北朝時代の相州
1333年に鎌倉は落ちたが、一派の最大の時代はその後に来た。師の水準で鍛える貞宗、皆焼を大成した広光と秋広。相州風は軍勢とともに広がり、一時は国じゅうの様式となった。