左国弘(無銘)の重要刀剣、左文字一派にあって、最も放胆で覇気溢れる出来を示す同工の典型作、南北朝盛期に於ける同派の烈しい相州伝を堪能出来る名品です。 南北朝初期、筑前国には『正宗十哲』の一人である左文字が登場して、それまでの古典的な九州物の作風を打破、烈しい相州伝本位の垢抜けした作域を確立、その門弟達も、師風を受け継ぎ大いに栄えました。一門には、安吉、行弘、吉弘、定行、国弘、吉貞、弘行、弘安、貞吉などがおり、これらを総称して『末左』と呼んでいます。 同派の作風は、湾れに互の目交じりの刃を基調とし、刃中金筋、砂流し、刃縁にほつれ、喰い違い刃、沸崩れ、鍛えは板目に杢目、流れ肌が肌立ち、地景が繁く入るなど、地刃の沸の強さが一際目立ち、帽子の先は尖り心を基本とします。造り込みは、身幅の広い、南北朝期特有の力強い姿を示します。 また無銘『末左』の極めに関して、近年の審査では、その出来によって差別化をし、出来るだけ個銘を入れる傾向があります。例えば、小湾れ、互の目、丁子、尖り刃交じりで、地刃に備前気質が見られるものには安吉、最も盛んに乱れたものには国弘、特に互の目が目立つものには弘安、穏やかな直刃調のものには貞吉などが挙げられます。 本作は、大磨り上げ無銘ながら『左国弘』と極められた名品、昭和五十一年(一九七六)、第二十四回重要刀剣指定品です。 国弘は、大左の子と云われる吉弘、若しくは行弘門人と云われる定行の子と伝えており、在銘現存作はほとんどありませんが、僅かに『正平十二年(一三五七)』年紀入りの在銘短刀が残されており、その活躍期を伺い知ることが出来ます。 寸法二尺三寸三分弱、切っ先延び心、三つ棟の造り込みで、反りやや深め、元先身幅しっかりとした勇壮なスタイルは、南北朝盛期の典型的な太刀姿を示しており、ピシッと整った慶長磨り上げの美しい茎も見所です。 小板目に板目、杢目を交えて良く詰んだ精良な地鉄は、地沸微塵に厚く付き、細かな地景繁く入り、焼き幅広い湾れ調で互の目心のある刃は、刃縁明るく冴え、刃中互の目足、小足、葉入り、金筋、砂流し良く掛かり、帽子は、湾れ込んで焼きすこぶる深く完全に一枚となっています。 刃が深々として明るく、すこぶる健全、鉄も良く冴えており、まるで新刀を見るかのような状態の良さ、地刃には左一門の特色が顕現されています。 図譜にも『左一類と鑑せられる地刃の出来ながら、特に刃文が大模様で、沸付きに変化があり、刃中の働きが豊富で、派手やかで、且つ放胆な作域を示していることから、国弘に最も擬せられるものである。』とあります。 左国弘の典型的な出来を示した会心の一振り、南北朝盛期に於ける同派の代表作にも成り得るでしょう。強くお薦め致します。





Chikuzen Samonji (Sa school) · 筑前 · 1346-1370頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位21%
現在3点販売中
正平十二年紀の在銘の平造短刀「国弘作」は、その記録の定点である。在銘の遺作が他に乏しいため、説明書はこれによって本工の活躍期を窺い知る。国弘は南北朝時代の筑前左文字、すなわち左一派の刀工で、吉弘の子とも一説に定行の子とも伝える。説明書は本工を大左から継がれた高弟の一人に置き、一派は南北朝初期に出現し、従来の伝統的な九州物の作域を脱して「地刃が明るく冴えて垢抜けした作風」[[c:1]]を確立したと記す。安吉・行弘・吉貞・国弘・弘行・弘安・貞吉らがその師風をよく受け継いだなかで、最も放胆で焼の高い作をあてられたのが国弘である。
本工の見どころは、のたれを主調とした大模様の乱れ刃である。説明書は作風に両様あるとし、その一を「のたれを主調としたやや大模様の乱れ刃」[[c:2]]と述べて、これに互の目・小互の目・小のたれ・尖りごころの刃を交え、総じて焼高く華やかに乱れるとする。匂深く、沸は厚くむらにつき処々荒めの沸を交え、細やかな金筋・砂流しが地にこぼれてさかんにかかり、湯走り状の飛焼を頻りに見せる。これは左一類中最も華やかな手であり、それが国弘の手とされる所以でもある。すなわち本阿弥家は左一類を鑑するに、「最もさかんに乱れ」[[c:3]]たものに国弘の極めをあてる傾きがあった。
地鉄は両様の下に一貫する。杢・流れ肌を交えて肌立つ板目に、地沸厚くつき、太い地景頻りに入り、かね色やや黒みを帯びる。これは相州伝に発する左の地鉄で、肌立って働きに富み、明るくつんだ備前の小板目・映りではない。小振りの在銘作で鍛えがつまれば地沸は微塵となって冴える。帽子は典型の作では乱れ込み、突き上げて先尖り、さかんに掃きかけて長く返り、穏やかな作では直ぐに小丸となる。説明書が第一と併せて挙げるもう一様は、直刃調に互の目を交えた穏やかな手で、主に平造の短刀・寸延びの脇指に見られる。
現存の記録の多くは無銘である。左一派の長大な南北朝の太刀は後世に磨り上げられて打刀に改められ、今日その名を負う作の大半は大磨上無銘で、身幅広く元先の幅差目立たず、反り浅く大鋒の延びた南北朝盛期の豪壮な姿をなす。これらについて説明書はあらゆる点から左一派と首肯し、その中でも焼が高く大模様で沸づきに変化があり、刃中の働きが豊富で湯走り状の飛焼もよくかかることから、「同派の国弘に最も擬せられる」[[c:4]]と判ずる。正平十二年紀の短刀が年代を定め、在銘の太刀は一口が『光山押形』に所載され、一派全体を研究する上でも資料性が高いものとされる。
本工を分かつ言葉は、他派に対してではなく、その一門のうちに語られる。左の工は技倆ほぼ伯仲して個々の鑑別が頗る困難であり、説明書もそれに率直で、国弘への極めは個性の見どころよりも作域の放胆と大模様に拠るとする。同門のなかで最も華やかで焼の高い乱れを保ち、放胆な湯走りと突き上げて尖る帽子をその目当てとする点が、これを分かつ。同じ説明書はその技倆についても正直で、「技術は遠く大左に及ばず」[[c:5]]と記すが、最上の小品の精良で明るい地刃には「一脈大左に相通ずるものがあって」[[c:6]]、この縁が本工を一派の高弟に列せしめる。
収集の観点では、稀な南北朝の名である。藤代の極めは上々作。国宝はなく、その記録は神社に伝わる在銘短刀二口に重要文化財の級を見る。一は香川の金刀比羅宮、一は愛媛の東雲神社の蔵で、いずれも社に守られた文化財である。これを措けば、記録される作は現代のより高い級を通じ、特別重要刀剣に四口、ほかは重要刀剣で、指定を受けた作は凡そ五十口を数える。その来歴は大名家にも及び、徳川将軍家に伝わった刀があり、久松松平家伝来の作があり、現在は徳川美術館・岩手県立博物館にも収まる。在銘の作は頗る稀で、紀年の短刀はそれ自体が一個の証であり、磨上無銘の刀のうち特別重要刀剣・重要刀剣の級はわずかであるから、左国弘が私蔵に渡ることは稀であり、在銘の一口はさらに稀で、左一派がその明るく放胆な作風を南北朝盛期に伝えた様を伝える得難い遺品である。
國弘の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
相州伝 · 筑前
時期区分: 末左· 1338–1450
現在16点販売中
末左とは、大左の後を承けた左文字派の後代を総称する呼び名である。説明文がたびたび繰り返すように、筑前国左文字は南北朝時代初期に出現し、それまでの古典的な九州物の作域から脱皮して地刃の明るく冴えた作風を確立したが、その一門は末左と汎称され、安吉・行弘・吉貞・国弘・弘行・弘安・貞吉らが師風をよく受け継いで活躍した。これらの諸工は大左の子あるいは門人と伝えられる。安吉は大左の子で、後に筑前から長州へ移住したと伝え、その移住は正平十七年紀の「長州住安吉」の銘振りが常々の安吉銘と一致することから首肯される。弘安は行弘の子と伝え、現存作に正平二十年紀、『埋忠押形』所載のものに正平十三年紀がある。国弘は吉弘の子とも定行の子とも伝え、貞国は左国弘の子で時代を応安頃とする。世代は南北朝盛期から末期、降って室町初期の応永にまで及び、安吉の作には永和・応永年紀のものが遺って代替りの存在も窺われる。 作風の上では、末左は大左が確立した相州伝を一代隔てて受け継いでいる。鍛えは板目に小板目・杢を交え、肌立ちごころとなって地沸が厚くつき、地景が細かに頻りに入り、淡く沸映りが立つ。刃文はのたれを基調に互の目・小互の目・尖りごころの刃を交え、足・葉が入り、匂が深く小沸が厚くついて、金筋・砂流しが細かにかかる。帽子は乱れ込んで突き上げ、先が尖りごころとなって掃きかけ、長く返る。これらは左一類の特徴であり、無銘の刀を左一類と鑑る拠りどころとなる。ただし大左の地刃に見られる際立った冴えに対し、末左ではその度合いがやや劣り、匂口が沈みごころとなる作も少なくない。作柄は一門の諸工に比して特に際立った個性を見出し難く、定型化の傾きをもつ。なかには安吉のように刃沸が弱く匂勝ちで、刃近くに棒映りを現して備前気質を交える手もあり、大左の純然たる相州伝からの隔たりを示している。 末左を大左と分かつ鑑定の要点は、地刃の冴えの度合いと、作風の定型化の度合いにある。明るく冴えた地と突き上げて尖る帽子という見どころは共有しつつも、末左ではその冴えが一段退く。無銘極めにおいては、互の目の目立つものは弘安に、最も華やかに大模様へ乱れたものは国弘に擬する、というのが本阿弥家以来の見方である。主要工としては、行弘が大左に最も接近する弟子として一群の頭に立ち、安吉・国弘・弘安・貞国らが続く。在銘作は一様に頗る稀で、太刀の弘安在銘や安吉の生ぶ在銘短刀のごときは資料的価値が極めて高く、その多くは大磨上無銘の同工極めを通じて世に伝わる。伝来も豊かで、弘安の刀には黒田家・高須松平家・久松家に伝わったものがあり、本阿弥光忠・光温らの折紙を伴う。貞国の短刀は毛利家に伝わり、吉弘の太刀は備前池田家に伝来して、八代将軍吉宗より池田継政が拝領したと考えられている。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト刀剣、刀装具、骨董等1点ものにつきましては、キャンセル待ちのお客様がおられる場合がございますので、ご返品のご連絡は商品到着後3日以内、ご返送は8日以内にお願いいたします。ご返金は商品ご返送到着後即日に致します。
左国弘(無銘)の重要刀剣、左文字一派にあって、最も放胆で覇気溢れる出来を示す同工の典型作、南北朝盛期に於ける同派の烈しい相州伝を堪能出来る名品です。 南北朝初期、筑前国には『正宗十哲』の一人である左文字が登場して、それまでの古典的な九州物の作風を打破、烈しい相州伝本位の垢抜けした作域を確立、その門弟達も、師風を受け継ぎ大いに栄えました。一門には、安吉、行弘、吉弘、定行、国弘、吉貞、弘行、弘安、貞吉などがおり、これらを総称して『末左』と呼んでいます。 同派の作風は、湾れに互の目交じりの刃を基調とし、刃中金筋、砂流し、刃縁にほつれ、喰い違い刃、沸崩れ、鍛えは板目に杢目、流れ肌が肌立ち、地景が繁く入るなど、地刃の沸の強さが一際目立ち、帽子の先は尖り心を基本とします。造り込みは、身幅の広い、南北朝期特有の力強い姿を示します。 また無銘『末左』の極めに関して、近年の審査では、その出来によって差別化をし、出来るだけ個銘を入れる傾向があります。例えば、小湾れ、互の目、丁子、尖り刃交じりで、地刃に備前気質が見られるものには安吉、最も盛んに乱れたものには国弘、特に互の目が目立つものには弘安、穏やかな直刃調のものには貞吉などが挙げられます。 本作は、大磨り上げ無銘ながら『左国弘』と極められた名品、昭和五十一年(一九七六)、第二十四回重要刀剣指定品です。 国弘は、大左の子と云われる吉弘、若しくは行弘門人と云われる定行の子と伝えており、在銘現存作はほとんどありませんが、僅かに『正平十二年(一三五七)』年紀入りの在銘短刀が残されており、その活躍期を伺い知ることが出来ます。 寸法二尺三寸三分弱、切っ先延び心、三つ棟の造り込みで、反りやや深め、元先身幅しっかりとした勇壮なスタイルは、南北朝盛期の典型的な太刀姿を示しており、ピシッと整った慶長磨り上げの美しい茎も見所です。 小板目に板目、杢目を交えて良く詰んだ精良な地鉄は、地沸微塵に厚く付き、細かな地景繁く入り、焼き幅広い湾れ調で互の目心のある刃は、刃縁明るく冴え、刃中互の目足、小足、葉入り、金筋、砂流し良く掛かり、帽子は、湾れ込んで焼きすこぶる深く完全に一枚となっています。 刃が深々として明るく、すこぶる健全、鉄も良く冴えており、まるで新刀を見るかのような状態の良さ、地刃には左一門の特色が顕現されています。 図譜にも『左一類と鑑せられる地刃の出来ながら、特に刃文が大模様で、沸付きに変化があり、刃中の働きが豊富で、派手やかで、且つ放胆な作域を示していることから、国弘に最も擬せられるものである。』とあります。 左国弘の典型的な出来を示した会心の一振り、南北朝盛期に於ける同派の代表作にも成り得るでしょう。強くお薦め致します。





Chikuzen Samonji (Sa school) · 筑前 · 1346-1370頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位21%
現在3点販売中
正平十二年紀の在銘の平造短刀「国弘作」は、その記録の定点である。在銘の遺作が他に乏しいため、説明書はこれによって本工の活躍期を窺い知る。国弘は南北朝時代の筑前左文字、すなわち左一派の刀工で、吉弘の子とも一説に定行の子とも伝える。説明書は本工を大左から継がれた高弟の一人に置き、一派は南北朝初期に出現し、従来の伝統的な九州物の作域を脱して「地刃が明るく冴えて垢抜けした作風」[[c:1]]を確立したと記す。安吉・行弘・吉貞・国弘・弘行・弘安・貞吉らがその師風をよく受け継いだなかで、最も放胆で焼の高い作をあてられたのが国弘である。
本工の見どころは、のたれを主調とした大模様の乱れ刃である。説明書は作風に両様あるとし、その一を「のたれを主調としたやや大模様の乱れ刃」[[c:2]]と述べて、これに互の目・小互の目・小のたれ・尖りごころの刃を交え、総じて焼高く華やかに乱れるとする。匂深く、沸は厚くむらにつき処々荒めの沸を交え、細やかな金筋・砂流しが地にこぼれてさかんにかかり、湯走り状の飛焼を頻りに見せる。これは左一類中最も華やかな手であり、それが国弘の手とされる所以でもある。すなわち本阿弥家は左一類を鑑するに、「最もさかんに乱れ」[[c:3]]たものに国弘の極めをあてる傾きがあった。
地鉄は両様の下に一貫する。杢・流れ肌を交えて肌立つ板目に、地沸厚くつき、太い地景頻りに入り、かね色やや黒みを帯びる。これは相州伝に発する左の地鉄で、肌立って働きに富み、明るくつんだ備前の小板目・映りではない。小振りの在銘作で鍛えがつまれば地沸は微塵となって冴える。帽子は典型の作では乱れ込み、突き上げて先尖り、さかんに掃きかけて長く返り、穏やかな作では直ぐに小丸となる。説明書が第一と併せて挙げるもう一様は、直刃調に互の目を交えた穏やかな手で、主に平造の短刀・寸延びの脇指に見られる。
現存の記録の多くは無銘である。左一派の長大な南北朝の太刀は後世に磨り上げられて打刀に改められ、今日その名を負う作の大半は大磨上無銘で、身幅広く元先の幅差目立たず、反り浅く大鋒の延びた南北朝盛期の豪壮な姿をなす。これらについて説明書はあらゆる点から左一派と首肯し、その中でも焼が高く大模様で沸づきに変化があり、刃中の働きが豊富で湯走り状の飛焼もよくかかることから、「同派の国弘に最も擬せられる」[[c:4]]と判ずる。正平十二年紀の短刀が年代を定め、在銘の太刀は一口が『光山押形』に所載され、一派全体を研究する上でも資料性が高いものとされる。
本工を分かつ言葉は、他派に対してではなく、その一門のうちに語られる。左の工は技倆ほぼ伯仲して個々の鑑別が頗る困難であり、説明書もそれに率直で、国弘への極めは個性の見どころよりも作域の放胆と大模様に拠るとする。同門のなかで最も華やかで焼の高い乱れを保ち、放胆な湯走りと突き上げて尖る帽子をその目当てとする点が、これを分かつ。同じ説明書はその技倆についても正直で、「技術は遠く大左に及ばず」[[c:5]]と記すが、最上の小品の精良で明るい地刃には「一脈大左に相通ずるものがあって」[[c:6]]、この縁が本工を一派の高弟に列せしめる。
収集の観点では、稀な南北朝の名である。藤代の極めは上々作。国宝はなく、その記録は神社に伝わる在銘短刀二口に重要文化財の級を見る。一は香川の金刀比羅宮、一は愛媛の東雲神社の蔵で、いずれも社に守られた文化財である。これを措けば、記録される作は現代のより高い級を通じ、特別重要刀剣に四口、ほかは重要刀剣で、指定を受けた作は凡そ五十口を数える。その来歴は大名家にも及び、徳川将軍家に伝わった刀があり、久松松平家伝来の作があり、現在は徳川美術館・岩手県立博物館にも収まる。在銘の作は頗る稀で、紀年の短刀はそれ自体が一個の証であり、磨上無銘の刀のうち特別重要刀剣・重要刀剣の級はわずかであるから、左国弘が私蔵に渡ることは稀であり、在銘の一口はさらに稀で、左一派がその明るく放胆な作風を南北朝盛期に伝えた様を伝える得難い遺品である。
國弘の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
相州伝 · 筑前
時期区分: 末左· 1338–1450
現在16点販売中
末左とは、大左の後を承けた左文字派の後代を総称する呼び名である。説明文がたびたび繰り返すように、筑前国左文字は南北朝時代初期に出現し、それまでの古典的な九州物の作域から脱皮して地刃の明るく冴えた作風を確立したが、その一門は末左と汎称され、安吉・行弘・吉貞・国弘・弘行・弘安・貞吉らが師風をよく受け継いで活躍した。これらの諸工は大左の子あるいは門人と伝えられる。安吉は大左の子で、後に筑前から長州へ移住したと伝え、その移住は正平十七年紀の「長州住安吉」の銘振りが常々の安吉銘と一致することから首肯される。弘安は行弘の子と伝え、現存作に正平二十年紀、『埋忠押形』所載のものに正平十三年紀がある。国弘は吉弘の子とも定行の子とも伝え、貞国は左国弘の子で時代を応安頃とする。世代は南北朝盛期から末期、降って室町初期の応永にまで及び、安吉の作には永和・応永年紀のものが遺って代替りの存在も窺われる。 作風の上では、末左は大左が確立した相州伝を一代隔てて受け継いでいる。鍛えは板目に小板目・杢を交え、肌立ちごころとなって地沸が厚くつき、地景が細かに頻りに入り、淡く沸映りが立つ。刃文はのたれを基調に互の目・小互の目・尖りごころの刃を交え、足・葉が入り、匂が深く小沸が厚くついて、金筋・砂流しが細かにかかる。帽子は乱れ込んで突き上げ、先が尖りごころとなって掃きかけ、長く返る。これらは左一類の特徴であり、無銘の刀を左一類と鑑る拠りどころとなる。ただし大左の地刃に見られる際立った冴えに対し、末左ではその度合いがやや劣り、匂口が沈みごころとなる作も少なくない。作柄は一門の諸工に比して特に際立った個性を見出し難く、定型化の傾きをもつ。なかには安吉のように刃沸が弱く匂勝ちで、刃近くに棒映りを現して備前気質を交える手もあり、大左の純然たる相州伝からの隔たりを示している。 末左を大左と分かつ鑑定の要点は、地刃の冴えの度合いと、作風の定型化の度合いにある。明るく冴えた地と突き上げて尖る帽子という見どころは共有しつつも、末左ではその冴えが一段退く。無銘極めにおいては、互の目の目立つものは弘安に、最も華やかに大模様へ乱れたものは国弘に擬する、というのが本阿弥家以来の見方である。主要工としては、行弘が大左に最も接近する弟子として一群の頭に立ち、安吉・国弘・弘安・貞国らが続く。在銘作は一様に頗る稀で、太刀の弘安在銘や安吉の生ぶ在銘短刀のごときは資料的価値が極めて高く、その多くは大磨上無銘の同工極めを通じて世に伝わる。伝来も豊かで、弘安の刀には黒田家・高須松平家・久松家に伝わったものがあり、本阿弥光忠・光温らの折紙を伴う。貞国の短刀は毛利家に伝わり、吉弘の太刀は備前池田家に伝来して、八代将軍吉宗より池田継政が拝領したと考えられている。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト刀剣、刀装具、骨董等1点ものにつきましては、キャンセル待ちのお客様がおられる場合がございますので、ご返品のご連絡は商品到着後3日以内、ご返送は8日以内にお願いいたします。ご返金は商品ご返送到着後即日に致します。