政権は鎌倉にあったが、美意識はなお京都が定めた。粟田口派の梨子地肌は完璧の代名詞となり、来派は公家にも上級の武家にも大寺にも、堂々たる太刀を納めている。
SOLD Outstanding Katana by Niji Kunitoshi SOLD! Translation of the setsumei (commentary) from the Juyo Zufu Nagasa 68.75 cm Sori 1.55 cm motohaba 2.8 cm sakihaba 2.1 cm kissaki-nagasa 3.5 cm nakago- nagasa 20.6 cm, only very little nakago-sori Description Keijō: shinogi-zukuri, iori-mune, mihaba and kasane of normal proportions and dimensions, slightly noticeable taper, relatively shalow sori, somewhat elongated chū-kissaki Kitae: finely standing-out itame that is mixed with mokume and that features ji-nie and a faint nie- utsuri Hamon : nie -laden ch ō ji-ch ō with a wide, bright, and clear nioiguchi that is mixed with some gunome and togari , ashi , y ō , kinsuji , sunagashi , and a few muneyaki , the ha tends to suguha-ch ō in places and does not feature prominent ups and downs B ō shi : midare-komi with a ko-maru-kaeri on the omote side and a somewhat pointed kaeri on the ura side, hakikake appear on both sides Nakago : ō -suriage , kirijiri , kiri-yasurime , one mekugi-ana , mumei Explanation It is said that Kunitoshi (国俊) was the son of Rai Kuniyuki (来国行). To differentiate them from works signed with the three characters “Rai Kunitoshi,” works that do not contain the prefix Rai and that are only signed with the two characters (Japanese: niji ) “Kunitoshi” are referred to as Niji Kunitoshi . Dated blades from both categories do not rule out that we are facing here the body of work of a single smith, but as noticeable differences in workmanship exist, the terms Niji Kunitoshi and Rai Kunitoshi can be used as stylistic differentiators. This blade is ō -suriage mumei It shows an itame with nie-utsuri and a relatively flamboyant, nie – laden, and ch ō ji -based midareba , that also features muneyaki . Thus, the blade displays a workmanship, which attributes it to Niji Kunitoshi and we are in agreement with its period attribution to this smith. Also, the work is of an excellent deki . More images of this piece will be posted in the next few days. Offered On Consignm


来 · 山城 · 1278-1288頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位2%
弘安元年(1278)紀の太刀一口が現存し、重要文化財に指定されて東京国立博物館に所蔵される。これが二字国俊を時代に繋ぎ留める唯一の二字銘の年紀作である。山城国の国俊は銘を国俊と二字にきり、「来」の字を冠しないことから、来国俊三字銘の工と区別して二字国俊と呼ばれる。来国行の子と伝え、来派本流の中で最も父の作に近く、鍛えから彫物に至るまで父譲りの特色が説明書に指摘される。鎌倉中期の来派の豪壮な時期に活躍し、三字銘の来国俊との同人・別人は、ほとんど全ての説明書が未決のまま伝える来派の古典的な論点である。
説明書が典型と記す作風は来派本流で最も華やかである。身幅広く元先の幅差少なく、重ね厚く、輪反り深くつき、猪首鋒に結ぶ力強い体配に、小沸出来の丁子主調の乱れを焼き、その賑やかさは古書に「備前一文字などに似たり」[[c:1]]と評されるほどである。足・葉が繁く入り、砂流し・金筋がかかり、焼頭には湯走りが交じる。棟には棟焼が見られ、ある説明書はこれを「来物の手癖」と呼ぶ。一方で京物の鑑別点も明記される。焼刃が沸主調で刃中の沸が一層強いこと、映りが沸映りであること、そして主に佩表の刃中の足が備前とは逆に茎の方へ斜めに入る、所謂「京逆足」となることである。
鍛えは国行同様に肌合が比較的大きく肌立ちごころの板目で、地沸が厚くつき、地景が細かに入り、かねが明るい。通常の沸映りの傍ら、時に乱れ映りが立ち、暗帯を伴う乱れ映りは類例が少なく、来国俊や了戒の在銘作にも確認できるものと特記され、その例外までもが派内に納まる。華やかな作の帽子は乱れ込み、掃きかけて焼詰め風に結んで力強く、穏やかな作では静かな小丸に納まる。多くの作に棒樋を刻し、佩表腰元の樋中に素剣を浮彫にしたものがあり、父と伝える国行にも「同調の彫物」が存在すると指摘される。
在銘作は比較的少なく、殆どが太刀である。短刀は重要文化財の名物愛染国俊の「僅かに一口」と記され続けてきたが、第六十一回重要刀剣で二口目の正真作が指定され、後に特別重要刀剣に進んだ。その銘字、特に国の字は弘安元年紀の太刀に酷似すると判じられている。稀な在銘の太刀には、いま一つの穏やかな作域が集中する。よく約んだ小板目に地沸が微塵につき、広直刃・中直刃調に小丁子・小互の目を交え、帽子は穏やかな小丸となる。朱銘の太刀は「国行に近接した出来口」[[c:5]]と読まれ、尾張徳川家伝来の生ぶ茎の太刀は「来国俊と殆ど大差のない」[[c:6]]穏やかな作域とされ、真の直刃の在銘太刀は同人説を展開する場合の「貴重な資料」となろうと評される。論争はまさにここにかかる。両銘の年紀作は弘安元年から元亨元年に及ぶ約四十年で、一刀工の作刀期間として無理はなく、正和四年(1315)に七十五歳の行年銘をきる来国俊の太刀から逆算すれば、弘安元年は三十八歳にあたる。本間による御物台帳の説明も年齢的には同一人と見ることも可能としつつ、「作風銘振から見て、二字と来国俊とは別人と見ることが妥当である」[[c:8]]と結ぶ。他方、解紛記は「二字国俊是は国行が嫡子也。若時死たり。来国俊国行が二男也。是より来の字を打初むる」[[c:9]]と別の線を引く。そして近年の説明書は、作風・銘字の再検討による同人説が定着しつつあり、「別人説の再考を促している」[[c:10]]と記すに至っている。
最も似るとされる一文字に対しては、自身の特色によって鑑別される。刃中の沸の強さ、映りが沸映りとして立つこと、茎方向へ斜めに入る京逆足である。ある重要刀剣の説明書は、来派の中で一文字や長船の賑やかな出来に紛れる作域を示す工と位置づける。系譜上の役割は二重である。上流では来派中最も国行に近く、肌立つ板目と棟焼と樋中の彫を共有し、下流では穏やかな在銘の直刃が三字銘来国俊の精錬な作風へそのまま流れ込む。兄であれ、父であれ、同人の前期作であれ、鎌倉中期の豪壮な様式を末期の洗練へ繋ぐ架け橋である。
藤代の極めは最上作。指定を受けた作は九十九口を数え、特別重要刀剣二十一口・重要刀剣五十二口の両級で七十三口、その上に重要美術品十八口、本間による御物台帳所載の太刀三口、重要文化財五口があり、重要文化財には名物愛染国俊と東京国立博物館所蔵の弘安元年紀の太刀が含まれる。名物鳥飼国俊は『名物帳』所載の一尺九寸九分の小太刀で、徳川家康の没後に尾張徳川家へ譲られ、徳川黎明会の所蔵となっている。伝来も厚く、二十八口に来歴が録され、尾張・紀州徳川家、前田家、細川家、上杉家、伊達家、浅野家、山内家、蜂須賀家、松平家の手を経、弘安元年紀の太刀そのものは税所家から明治天皇に献上されたものである。尾張徳川家の一口は駿河御分物で、蔵刀中最高位の「仁」の組に列して仁壹ノ廿とされ、他には元禄・宝永の本阿弥折紙が附帯する。重要文化財の諸作は博物館と旧蔵家に護られた文化財であり、所在の知られるものの多くも機関と旧家にある。蒐集家が現実に出会いうるのは特別重要刀剣・重要刀剣の級の約七十口であるが、実際には手放されることが稀であり、二字国俊が市に現れることは稀な出来事で、現れれば斯界の頂点に位置する一口となる。
國俊の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
山城伝 · 山城
現在30点販売中
来派の作をまず見分けさせるのは地鉄である。精美によく約んだ小板目を主体に板目・杢・流れ肌を交えてよく錬れ、地沸が微塵に厚くつき、細かな地景が頻りに入り、沸映りが立って鉄が明るく冴える。処々に交じる柔らかく大模様の肌合は来肌と呼ばれ、疵ではなく一派の見どころとして受け取られている。この明るく精到な山城の鍛えこそ、来一門の作を貫く第一の標識である。 その出発点に位置するのが、鎌倉時代中期に山城国京都に活躍した来国行で、諸書のくり返し記すとおり事実上の祖と仰がれる。自身の作に年紀はないが、その子と伝える二字国俊に弘安元年(一二七八)の太刀があり、これに拠って正元・文応頃の活躍年代が首肯される。以後、二字国俊から三字銘の来国俊へ、さらに来国光・来国次へと血脈が継がれ、鎌倉末から南北朝前期にかけて一門は山城刀工の最上位を占めた。なお来国俊は来派で最初に「来」の字を冠した工であり、以後の一門が皆これに倣っている。二字国俊と三字銘来国俊の同人・別人は、両銘の年紀が弘安元年から元亨元年の約四十年に納まることなどから近年同人説が定着しつつあり、一門の古典的な論点をなす。 地鉄の上に来派の焼く刃は、備前の華やかな丁子ではなく、広直刃調を基調とする。これに小丁子・小互の目・小乱れを交え、足・葉が繁く入り、佩表の足が備前とは逆に茎の方へ斜めに傾く所謂京逆足となるところに京物の本領がある。匂深く明るく、小沸が厚くついて働きは刃の高さではなく沸に宿り、刃中に金筋・砂流しがかかる。帽子は小丸を主としながら掃きかけを伴うことが多く、この掃きかけは小丸と並ぶ第一の鑑別点に据えるべきものである。時代と系統による振幅も明瞭で、二字国俊は身幅広く猪首鋒に結ぶ豪壮な体配に丁子主調の賑やかな乱れを焼き、三字銘来国俊は細身か尋常の姿に締まった直刃の上品な作域を示す。末期の来国光は直刃に互の目を目立って交え作域が最も広く、来国次に至っては地刃の沸が一門で最も強く、のたれに互の目を交えた相州伝寄りの作風から鎌倉来と呼ばれ正宗十哲に数えられる。 収集家がこの一門を求めるべき所以は、まずその鑑定の勘所が明快なことにある。よく約んだ小板目に微塵の地沸と鮮明な沸映り、広直刃に京逆足、そして掃きかける帽子という積極的な特色が揃い、無銘極めの拠りどころが明文化されている。一門内の差も精密に引かれ、来国光は来国次に比して焼きが幾分低く突き上げ気味の帽子に個性を窺い、戸津来あるいは中堂来と呼ばれる光包は来肌の少ない強く冴えた地鉄と広く長く返る帽子で一門中の異色として立つ。代表作と伝来も厚く、来国行在銘の太刀は筑前黒田家に伝わって本阿弥光忠の千貫折紙と後藤家製の糸巻太刀拵を備え、名物愛染国俊・名物鳥飼国俊・名物乱光包をはじめ尾張紀州徳川家、前田家、上杉家、島津家、伊達家など大名家の蔵刀として珍重された。鎌倉末期山城物の最も純粋な姿を示す来派の作は、日本刀剣史において古刀山城の頂点に位置づけられ、真剣な収集家が現実に到達し得る目標であり続けている。 詳しく見る →
鎌倉時代の山城
政権は鎌倉にあったが、美意識はなお京都が定めた。粟田口派の梨子地肌は完璧の代名詞となり、来派は公家にも上級の武家にも大寺にも、堂々たる太刀を納めている。