弘安元年(1278)紀の太刀一口が現存し、重要文化財に指定されて東京国立博物館に所蔵される。これが二字国俊を時代に繋ぎ留める唯一の年紀作である。山城国の国俊は銘を国俊と二字にきり、「来」の字を冠しないことから、来国俊三字銘の工と区別して二字国俊と呼ばれる。来国行の子と伝え、来派本流の中で最も父の作に近く、鍛えから彫物に至るまで父譲りの特色が説明書に指摘される。鎌倉中期の来派の豪壮な時期に活躍し、三字銘の来国俊との同人・別人は、ほとんど全ての説明書が未決のまま伝える来派の古典的な論点である。
説明書が典型と記す作風は来派本流で最も華やかである。身幅広く元先の幅差少なく、重ね厚く、輪反り深くつき、猪首鋒に結ぶ力強い体配に、小沸出来の丁子主調の乱れを焼き、その賑やかさは古書に「備前一文字などに似たり」と評されるほどである。足・葉が繁く入り、砂流し・金筋がかかり、焼頭には湯走りが交じる。棟には棟焼が見られ、ある説明書はこれを「来物の手癖」と呼ぶ。一方で京物の鑑別点も明記される。焼刃が沸主調で刃中の沸が一層強いこと、映りが沸映りであること、そして主に佩表の刃中の足が備前とは逆に茎の方へ斜めに入る、所謂「京逆足」となることである。
鍛えは国行同様に肌合が比較的大きく肌立ちごころの板目で、地沸が厚くつき、地景が細かに入り、かねが明るい。通常の沸映りの傍ら、時に乱れ映りが立ち、暗帯を伴う乱れ映りは類例が少なく、来国俊や了戒の在銘作にも確認できるものと特記され、その例外までもが派内に納まる。華やかな作の帽子は乱れ込み、掃きかけて焼詰め風に結んで力強く、穏やかな作では静かな小丸に納まる。多くの作に棒樋を刻し、佩表腰元の樋中に素剣を浮彫にしたものがあり、父と伝える国行にも「同調の彫物」が存在すると指摘される。
在銘作は比較的少なく、殆どが太刀である。短刀は重要文化財の名物愛染国俊の「僅かに一口」と記され続けてきたが、第六十一回重要刀剣で二口目の正真作が指定され、後に特別重要刀剣に進んだ。その銘字、特に国の字は弘安元年紀の太刀に酷似すると判じられている。稀な在銘の太刀には、いま一つの穏やかな作域が集中する。よく約んだ小板目に地沸が微塵につき、広直刃・中直刃調に小丁子・小互の目を交え、帽子は穏やかな小丸となる。朱銘の太刀は「国行に近接した出来口」と読まれ、尾張徳川家伝来の生ぶ茎の太刀は「来国俊と殆ど大差のない」穏やかな作域とされ、真の直刃の在銘太刀は同人説を展開する場合の「貴重な資料」となろうと評される。論争はまさにここにかかる。両銘の年紀作は弘安元年から元亨元年に及ぶ約四十年で、一刀工の作刀期間として無理はなく、正和四年(1315)に七十五歳の行年銘をきる来国俊の太刀から逆算すれば、弘安元年は三十八歳にあたる。他方、解紛記は「二字国俊是は国行が嫡子也。若時死たり。来国俊国行が二男也。是より来の字を打初むる」と別の線を引く。そして近年の説明書は、作風・銘字の再検討による同人説が定着しつつあり、「別人説の再考を促している」と記すに至っている。
最も似るとされる一文字に対しては、自身の特色によって鑑別される。刃中の沸の強さ、映りが沸映りとして立つこと、茎方向へ斜めに入る京逆足である。ある重要刀剣の説明書は、来派の中で一文字や長船の賑やかな出来に紛れる作域を示す工と位置づける。系譜上の役割は二重である。上流では来派中最も国行に近く、肌立つ板目と棟焼と樋中の彫を共有し、下流では穏やかな在銘の直刃が三字銘来国俊の精錬な作風へそのまま流れ込む。兄であれ、父であれ、同人の前期作であれ、鎌倉中期の豪壮な様式を末期の洗練へ繋ぐ架け橋である。
藤代の極めは最上作。指定を受けた作は八十四口を数え、特別重要刀剣二十一口・重要刀剣四十八口の両級で六十九口、その上に重要美術品九口・重要文化財四口があり、後者には名物愛染国俊と東京国立博物館所蔵の弘安元年紀の太刀が含まれる。名物鳥飼国俊は『名物帳』所載の一尺九寸九分の小太刀で、徳川家康の没後に尾張徳川家へ譲られ、徳川黎明会の所蔵となっている。伝来も厚く、十九口に来歴が録され、尾張・紀州徳川家、前田家、細川家、上杉家、伊達家、浅野家、山内家、蜂須賀家、松平家、そして皇室の手を経る。尾張徳川家の一口は駿河御分物で、蔵刀中最高位の「仁」の組に列して仁壹ノ廿とされ、他には元禄・宝永の本阿弥折紙が附帯する。重要文化財の諸作は博物館と旧蔵家に護られた文化財であり、所在の知られるものの多くも機関と旧家にある。蒐集家が現実に出会いうるのは特別重要刀剣・重要刀剣の級の約六十口であるが、実際には手放されることが稀であり、二字国俊が市に現れることは稀な出来事で、現れれば斯界の頂点に位置する一口となる。