戦国の世、一派は第二の主家に仕えた。小田原の後北条氏である。その庇護のもと綱広系は打刀の時代の皆焼を鍛え続け、1590年の落城とともに新刀の時代へ散った。
古刀 正廣作(白鞘付) 室町時代後期、天文頃の六代または七代正廣の作と思われます。 三つ棟に広い身幅、先反りのついた鋭い姿を見せる、相州伝の魅力に富んだ小脇差です。 長く眺めても飽きることのない、味わい深い一振りです。 ★我公司可以合法地将日本刀運送到中国。 【登録】平成24年6月12日 東京都 第307893号 【種別】脇差 【長さ】41.6cm 【反り】0.8cm 【目釘穴】2個 【銘文】(表) 正広作 【元幅】29.7mm 【先幅】24.9mm 【元重】4.7mm 【先重】3.4mm 【重量】刀身 285g 【時代】室町時代後期













相州伝 · 相模 · 1362-1392頃
刀剣大鑑 上位18%
現在1点販売中
相州住正広は、南北朝時代から室町時代にかけて相州鎌倉で活躍した刀工である。初代は貞治年間(1362-1368)に年紀のあるものが確認されており、室町時代末期まで四、五代続いたとされる。銘鑑には正宗の門人と記載されることもあるが、年代的に考慮すると正宗との直接的な師弟関係は疑問視され、間に一人を介在させる必要があろう。作風から広光、秋広との関連性も指摘されている。政広と銘を切る刀工も存在する。
正広の作風は、板目肌に地沸がよくつく地鉄に特徴がある。刃文は、互の目乱れを基調とし、丁子刃、小湾れなどが交じる。飛焼、湯走り、金筋、砂流しが見られるものもあり、皆焼風となる作もある。帽子は乱れ込み、尖りごころに返るもの、掃きかけて小丸ごころに返るものなどがある。姿は、平造、鎬造があり、寸延びで身幅が広く、重ね薄く、反りの浅いものが多く見られる。彫物は、倶利迦羅、梵字、三鈷剣などを表裏に施す。茎は生ぶが多く、先栗尻、鑢目は切り、勝手下りがある。銘は指表の目釘孔の下、棟寄りに五字銘を切るものが多い。「相州住」と在銘するものが多いが、「鎌倉住」と切るものもある。
正広の刀は、地刃の出来が優れ、彫物も見事であると評される。健全なものが多く、資料的価値も高い。南北朝時代の年紀のあるものは珍重される。各代の区別は明らかではないものの、室町時代の相州物の典型として位置づけられている。
正廣の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
相州伝 · 相模
時期区分: 末相州· 1356–1868
現在19点販売中
末相州は、南北朝の広光・秋広の代を承け、室町期に入って相模で営まれた相州伝の継続である。現存遺品に即せば、室町中期を遡るものはなく、室町後期から戦国期にかけてが本区分の中心をなす。その軸となる工が綱広で、銘鑑には初代を建武とする伝もあるが、確かな在銘は天文年紀のものが最も古く、通説はこれを初代として、二代を天正、三代を慶長、四代を寛永、五代を万治頃と伝える。綱広は広正の子孫で、初め名跡を継いだが、後北条家の氏綱に召されて小田原に居を移し、綱の一字を賜って改銘したと伝え、その名跡は新々刀期にまで連なった。鎌倉にはこの綱広らが住し、これと別に小田原には康春・康国・総宗・景総らが在住して、これらを小田原相州と称する。広次もまた相州鎌倉に住して明応・天文の頃に活躍し、室町後期を代表する相州鍛冶の一人に数えられる。後北条氏の庇護のもと、正宗・貞宗を生んだ南北朝の盛時を遠く望みつつ、皆焼の系譜を保持して相州伝を伝えたのが、この区分の刀工たちであった。 作風の核は、広光・秋広が完成させた皆焼を継ぐ点にある。鍛えは板目に杢や流れ肌を交えてやや肌立ち、地沸がつき、地景が入る。刃文はのたれ・互の目に丁子・矢筈風の刃・尖り刃などを交え、飛焼・棟焼を盛んに交えて皆焼となり、沸がよくつき、金筋・砂流しがかかる。綱広は玉状ないし三日月状の飛焼を見せる皆焼を得意とし、広次に至っては焼高く、沸の強い迫力ある皆焼を焼いて、一見すると南北朝の長谷部派を思わせるほどに到る。古典相州の頂点と分かつのは、この皆焼の扱いに見える。正宗・貞宗の代では、のたれ基調の地刃に沸が深く澄んで明るく冴え、地にこぼれた沸が湯走りをなして自在に働いたのに対し、末相州の皆焼は飛焼・棟焼を全面に散らす構成そのものを看どころとして前に押し出す傾きを帯び、地鉄もやや肌立って、鎌倉期の鉄の冴えからは一段隔たる。小田原相州はこの大筋において綱広らと大差ないが、小振りの刀姿があること、濃厚緻密な彫刻を多く備えることに特色があり、殊に総宗の倶利迦羅や八幡大菩薩・梵字の彫は巧緻と評される。 鑑定にあっては、まずやや肌立つ板目に地沸・地景が働き、飛焼・棟焼を交えた皆焼に金筋・砂流しがかかる地刃を相州の継続と読み、次に古典との隔たりを沸の深さと鉄の冴えの差、そして皆焼を誇示的に焼き出す傾きに求めて末相州と分かつ。区分内では、綱広を皆焼と玉状の飛焼に、広次を長谷部風を思わせる強い沸の皆焼に、総宗ら小田原相州を小振りの姿と緻密な彫刻に見分ける。主要工は綱広・広次・総宗で、康春・康国・景総がこれに連なる。伝来の面では、綱広に後北条家の重臣桜井大学の所持銘を有する一口があり、本区分が後北条氏の小田原を地盤として営まれた事実を裏づけている。 詳しく見る →
戦国の世、一派は第二の主家に仕えた。小田原の後北条氏である。その庇護のもと綱広系は打刀の時代の皆焼を鍛え続け、1590年の落城とともに新刀の時代へ散った。
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古刀 正廣作(白鞘付) 室町時代後期、天文頃の六代または七代正廣の作と思われます。 三つ棟に広い身幅、先反りのついた鋭い姿を見せる、相州伝の魅力に富んだ小脇差です。 長く眺めても飽きることのない、味わい深い一振りです。 ★我公司可以合法地将日本刀運送到中国。 【登録】平成24年6月12日 東京都 第307893号 【種別】脇差 【長さ】41.6cm 【反り】0.8cm 【目釘穴】2個 【銘文】(表) 正広作 【元幅】29.7mm 【先幅】24.9mm 【元重】4.7mm 【先重】3.4mm 【重量】刀身 285g 【時代】室町時代後期













相州伝 · 相模 · 1362-1392頃
刀剣大鑑 上位18%
現在1点販売中
相州住正広は、南北朝時代から室町時代にかけて相州鎌倉で活躍した刀工である。初代は貞治年間(1362-1368)に年紀のあるものが確認されており、室町時代末期まで四、五代続いたとされる。銘鑑には正宗の門人と記載されることもあるが、年代的に考慮すると正宗との直接的な師弟関係は疑問視され、間に一人を介在させる必要があろう。作風から広光、秋広との関連性も指摘されている。政広と銘を切る刀工も存在する。
正広の作風は、板目肌に地沸がよくつく地鉄に特徴がある。刃文は、互の目乱れを基調とし、丁子刃、小湾れなどが交じる。飛焼、湯走り、金筋、砂流しが見られるものもあり、皆焼風となる作もある。帽子は乱れ込み、尖りごころに返るもの、掃きかけて小丸ごころに返るものなどがある。姿は、平造、鎬造があり、寸延びで身幅が広く、重ね薄く、反りの浅いものが多く見られる。彫物は、倶利迦羅、梵字、三鈷剣などを表裏に施す。茎は生ぶが多く、先栗尻、鑢目は切り、勝手下りがある。銘は指表の目釘孔の下、棟寄りに五字銘を切るものが多い。「相州住」と在銘するものが多いが、「鎌倉住」と切るものもある。
正広の刀は、地刃の出来が優れ、彫物も見事であると評される。健全なものが多く、資料的価値も高い。南北朝時代の年紀のあるものは珍重される。各代の区別は明らかではないものの、室町時代の相州物の典型として位置づけられている。
正廣の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
相州伝 · 相模
時期区分: 末相州· 1356–1868
現在19点販売中
末相州は、南北朝の広光・秋広の代を承け、室町期に入って相模で営まれた相州伝の継続である。現存遺品に即せば、室町中期を遡るものはなく、室町後期から戦国期にかけてが本区分の中心をなす。その軸となる工が綱広で、銘鑑には初代を建武とする伝もあるが、確かな在銘は天文年紀のものが最も古く、通説はこれを初代として、二代を天正、三代を慶長、四代を寛永、五代を万治頃と伝える。綱広は広正の子孫で、初め名跡を継いだが、後北条家の氏綱に召されて小田原に居を移し、綱の一字を賜って改銘したと伝え、その名跡は新々刀期にまで連なった。鎌倉にはこの綱広らが住し、これと別に小田原には康春・康国・総宗・景総らが在住して、これらを小田原相州と称する。広次もまた相州鎌倉に住して明応・天文の頃に活躍し、室町後期を代表する相州鍛冶の一人に数えられる。後北条氏の庇護のもと、正宗・貞宗を生んだ南北朝の盛時を遠く望みつつ、皆焼の系譜を保持して相州伝を伝えたのが、この区分の刀工たちであった。 作風の核は、広光・秋広が完成させた皆焼を継ぐ点にある。鍛えは板目に杢や流れ肌を交えてやや肌立ち、地沸がつき、地景が入る。刃文はのたれ・互の目に丁子・矢筈風の刃・尖り刃などを交え、飛焼・棟焼を盛んに交えて皆焼となり、沸がよくつき、金筋・砂流しがかかる。綱広は玉状ないし三日月状の飛焼を見せる皆焼を得意とし、広次に至っては焼高く、沸の強い迫力ある皆焼を焼いて、一見すると南北朝の長谷部派を思わせるほどに到る。古典相州の頂点と分かつのは、この皆焼の扱いに見える。正宗・貞宗の代では、のたれ基調の地刃に沸が深く澄んで明るく冴え、地にこぼれた沸が湯走りをなして自在に働いたのに対し、末相州の皆焼は飛焼・棟焼を全面に散らす構成そのものを看どころとして前に押し出す傾きを帯び、地鉄もやや肌立って、鎌倉期の鉄の冴えからは一段隔たる。小田原相州はこの大筋において綱広らと大差ないが、小振りの刀姿があること、濃厚緻密な彫刻を多く備えることに特色があり、殊に総宗の倶利迦羅や八幡大菩薩・梵字の彫は巧緻と評される。 鑑定にあっては、まずやや肌立つ板目に地沸・地景が働き、飛焼・棟焼を交えた皆焼に金筋・砂流しがかかる地刃を相州の継続と読み、次に古典との隔たりを沸の深さと鉄の冴えの差、そして皆焼を誇示的に焼き出す傾きに求めて末相州と分かつ。区分内では、綱広を皆焼と玉状の飛焼に、広次を長谷部風を思わせる強い沸の皆焼に、総宗ら小田原相州を小振りの姿と緻密な彫刻に見分ける。主要工は綱広・広次・総宗で、康春・康国・景総がこれに連なる。伝来の面では、綱広に後北条家の重臣桜井大学の所持銘を有する一口があり、本区分が後北条氏の小田原を地盤として営まれた事実を裏づけている。 詳しく見る →
戦国の世、一派は第二の主家に仕えた。小田原の後北条氏である。その庇護のもと綱広系は打刀の時代の皆焼を鍛え続け、1590年の落城とともに新刀の時代へ散った。
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