室町の長船は輸出産業であった。明との勘合貿易はおよそ十二万八千振の日本刀を海の彼方へ運び、国内では戦国の軍勢が買い手となった。注文主の俗名を銘に刻む注文打ちが、兵卒用の数打ち物と並んで鍛えられている。
Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 初代与三左衛門尉祐定は先代彦兵衛尉祐定の子で応仁元年の生まれ(注1)。室町時代中期、次第に激しさを増す戦乱により長舩鍛冶は増産を余儀なくされたため、刀造りには最先端の技術が求められると同時に、多くの職人が必要とされ、長舩の地に人々が参集した。それらの刀鍛冶を統率し、増える需要に応え、長舩物の実力を世に示したのが与三左衛門尉祐定。数多く遺されている戦国武将の所持銘を切り添えた刀から、その活躍ぶりを知ることができる。

Osafune (Sue-Bizen), Bizen · 備前 · 1504-1551頃
藤代 上々作 · 刀剣大鑑 上位8%
現在6点販売中
大永三年(一五二三)の年紀をもち、五十七歳時の作として備前国住長船与三左衛門尉祐定と全銘を切る一口の刀は、蜂須賀家に伝来し、特別重要刀剣に指定されている。祐定は一人の工というよりも一つの家である。この名は学者が末備前と総称する室町後期の長船の鍛冶に属し、説明書はその規模について率直に「この中で最も繁栄したのが祐定の一門である」[[c:1]]と記す。また早見出は「銘に俗名を冠している者を二十一人と数多くあげている」[[c:2]]とする。その中で名と手において第一に立つのが与三左衛門尉の系である。その初代は、現存する「天文六年生年七十一作」[[c:10]]銘の短刀から逆算して応仁元年の生まれである。説明書はその位置を明言し、「与三左衛門尉を冠するものが最も有名で、また上手である」[[c:3]]とする。
本工の特色は、末備前の鍛冶が自らのものとした刃文である。腰の開いた互の目が複式の乱れに組み上がり、小互の目・小丁子・尖り刃を交える。足・葉頻りに入り、匂口締まりごころに小沸つき、小さな飛焼を交え、匂口明るい。説明書は「末備前特有の複式互の目を焼いた」[[c:4]]ものを典型作の標とし、この手の晩年の一口を「末備前作中の典型的の作であり、同作中の最も優秀な代表作である」[[c:5]]と記す。広く複雑な刃取りは、それが最も多く見られる室町後期の打刀の身幅広く先反りのついた姿に応じる。
地鉄はその働く刃を引き立てる。小板目肌よくつみ、地沸微塵につき、地景細かに入る。数口の在銘作には鎬寄りに淡く乱れ映りが立ち、一口には棒映りが立つ。帽子は多く小丸、あるいは乱れ込みやや尖りごころに掃きかけ、返りやや長い。総じて働きは足・葉に豊かで、金筋・砂流し頻りにかかり、匂深く小沸がつく。
複式互の目の外に、本工はさらに二つの作域をもつ。一つは華やかな面で、焼が高く皆焼となり、飛焼・棟焼を交える。説明書は皆焼は兎角品位に欠けるところがあるとしつつ、本工の作を出来がよいとし、その一口は源兵衛尉祐定との合作で天文の年紀をもつ。もう一つは静かな面で、直刃・広直刃に浅くのたれ、時に小互の目を交える。説明書は「直刃を焼いても上手である」[[c:6]]とし、また「末備前刀工中の名工であり、直刃、乱刃共に上手である」[[c:7]]とする。腰元と物打辺を複式互の目とし、その間を広直刃でつなぐ一口は、説明書がめずらしい刃取りとするところである。
これらの底には名跡そのものの年代の問題がある。説明書は「同名二代あって、天文末年中に初二代の交替があった」[[c:8]]と記す。本間による御物台帳もまた与三左衛門尉を冠するものを二人とし、永正・天文の年紀あるものを初代、永禄・天正の年紀あるものを二代とし、大永三年の刀の「与」は「四つ与」、大永五年の短刀の「与」は「一与」と称せられる字体であることに注意を促す。俗名を冠さない祐定銘の一群も、時代と出来から一門に極められる。同派の中で本工を分かつのはその固有の特色で、よくつんだ明るい小板目、淡い映り、広く複式の互の目が、末備前の素朴な量産の作から本工を分かつ。年紀のある優れた打刀は祐定のみならず末備前全体を代表するものと読まれ、その手は一派の無銘作を測る基準となっている。
収集の上では、与三左衛門尉祐定は、鎌倉の名工とは異なり手の届く備前の大名跡であるが、上位の作が普通に見られるわけではない。藤代は初代を上々作とし、刀工総覧は千円と評価する。国宝はない。記録は重要文化財一口、特別重要刀剣一口と重要刀剣六十二口に、戦前の重要美術品が加わる。これらが市場に現れるのは稀で、現れれば注目すべき出来事である。その刀は自らの伝来をもつ旧家・大名家に伝わる。特別重要刀剣の刀は「蜂須賀家に伝来した優れた出来映えの一口である」[[c:9]]とされ、毛利家・井伊家・庄内酒井家も他の作の伝来に名を残す。ほかに広直刃調の大永三年紀の刀と皆焼となる大永五年紀の短刀の二口が、本間による御物台帳に所載する。腰の開いた互の目を明らかに示す、身幅広く明るい在銘年紀入りの与三左衛門尉祐定は、真剣な収集家が現実に出会いを望みうる末備前の一口である。
祐定の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
備前伝 · 備前
時期区分: 末備前· 1441–1596
現在54点販売中
嘉吉から文禄に及ぶ室町時代後期、長船派の最末期を画するのが末備前である。応永備前が古作への復古を志して優美な太刀姿と丁子刃を甦らせたのに続き、この期の長船鍛冶は戦国の世の旺盛な武器需要に応じて作刀の規模を一段と広げ、長船の名のもとに膨大な数の刀剣を世に送り出した。説示にあらわれる主要工は、勝光、宗光、貞光、治光、忠光、清光、春光、祐定の一群である。勝光は宗光・忠光と並ぶ巧者で、右京亮・次郎左衛門尉・修理亮など様々な俗名を冠する同名工を擁し、貞光や子の治光との合作銘も伝わる。祐定にあっては与三左衛門尉・源兵衛尉・彦兵衛尉を冠する者がとりわけ技術が高く、与三左衛門尉祐定は名品の数多くその筆頭に挙げられ、彦兵衛尉はその父と伝えて慶長まで数代を数える。清光は五郎左衛門尉と孫右衛門尉が筆頭格、春光は文明から文禄に及ぶ長期に同名数工があって十郎左衛門が最も知られる。この期には播磨・備前・美作の守護赤松政則が宗光・勝光の一党を陣中に招いて鍛刀の技を学び為打を遺したことも説示に見え、注文打と数打物とが併存した末期の様相をよく伝えている。 体配はまず時代を映す。身幅広く寸のつまり、重ね一段と厚く、踏張りがあって先反りつき、中鋒、茎は片手打に適した短いものとなる、室町後期特有の打刀姿である。鍛えは小板目肌がよくつみ、地沸が微塵につき、地景が細かに入って、淡くあるいは鮮明に乱れ映りが立つ。刃文の中心をなすのは末備前固有の腰の開いた互の目で、焼頭が割れて複式に乱れる複式互の目を基調に、尖り刃・尖りごころの互の目・小互の目を交え、足・葉頻りに入り、匂勝ちに小沸がつき、金筋・砂流しがかかり、処々に小さな飛焼を交える。さらに飛焼・棟焼が頻りにかかって皆焼風となる作もあり、帽子は乱れ込んで先小丸に長く返る。これは光忠の蛙子丁子、長光の丸い頭の丁子、景光の片落ち互の目といった古長船・相伝備前の整然たる丁子主調とは趣を異にし、応永備前の腰開き互の目をさらに崩して量感と変化に向かわせた戦国期の姿である。同時に勝光のように乱れの中へ丁子を多く交えて一段と華やかに焼き、忠光や清光のように直刃の上手として定評を得る工もあり、作域は広い。 鑑定にあっては、まず乱れ映りで備前と読み、つまった寸と厚い重ね、先反り強き打刀姿で時代を末備前に定める。次に俗名と作風で工を分かつ。乱れの中に丁子を多く交えた華やかな出来は勝光、複式風の互の目に飛焼を交えてやや皆焼がかるは与三左衛門尉祐定、板目に杢を交えてやや肌立つ直刃は孫右衛門尉清光、直刃に佳作多きは彦兵衛尉祐定、というように看どころが工を指し示す。表裏に施された梵字・蓮台や棒樋連樋の刀身彫もまた末備前の特色をよく示し、長光景光以来の彫の伝統がこの期まで継承されたことを物語る。代表作には、勝光・貞光合作の明応八年紀の薙刀、勝光・治光父子合作の大永七年紀の短刀、与三左衛門尉二代の元亀元年紀の刀があり、合作銘や所持銘・添銘を伴う注文打は、末備前とそれを支えた三宅氏のごとき在地の氏族を知る上でも資料性が高い。 詳しく見る →
室町時代の備前
室町の長船は輸出産業であった。明との勘合貿易はおよそ十二万八千振の日本刀を海の彼方へ運び、国内では戦国の軍勢が買い手となった。注文主の俗名を銘に刻む注文打ちが、兵卒用の数打ち物と並んで鍛えられている。
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