応仁の乱が足利の体制を砕いた後、戦国の一世紀はほとんどすべての国を武装させた。この時代は選ぶ目に報いる。並の作は多いが、その傍らには第一級の注文打ちが立っている。
南北朝時代の加賀国には、山城国より『来国俊』の門人である『藤島友重』が来住し、また『則重』の高弟『真景』が隣国越中より加賀に来住すると活況を呈するようになったと言われています。 表題の『行光』は『藤島友重』の門人で初代は康正頃(1455~)作刀が見られます。 山城伝の京反りの太刀造りの体躯に相伝備前を加味した互の目丁子乱れの刃文を焼いて見応え十分。以降、室町時代を通じて五代まで続くと言われております。銘鑑によれば業物に列せられています。 さて、本刀ですが腰ゾリ深く付いた典型的な太刀姿。元幅は踏ん張りついて元先幅に開き付き、地は板目流れて白気立ち直刃調の刃紋は互ノ目交じりに足入り、刃縁締まり心で切先乱れ込み掃けて返っています。 茎もさび色良く切り鑢、古美な控えめの銘を切っております。 また、付属の拵えは幕末の本歌太刀拵えで金具も揃っております。 兜金、縁金具、足金具、責め金具、石附全て一作。 足金具は5つのパーツから出来ています。 目貫は赤銅、蛇の目紋。本刀の登録証は大分県の昭和26年登録、俗にいう大名登録4桁であり、加藤家と何らかの関係があるのやもしれません。 切羽は金着せ、鎺は金着せと銀着せの昼夜二重鎺とこれも貴重です。 鍔も平安城菊花透かしで古美であります。 ※太刀緒と太鼓革金具は現代物です。 鞘塗も凝っていて本漆の茶梨地塗に中程から黒石目塗として、表裏7か所に雨龍の紋が入っています。 ※時代相応のヒビ、へこみ、剥がれは見受けられますが、太刀を佩いて使用出来ます。 武道的にみますと、(勿論刀身も拵えも貴重なので使用しないほうが良いとも思いますが、割り切って稽古に使うとすれば) 太刀を佩いて時代祭りや、流鏑馬、武道演武などで試斬されても良いでしょう。 長さもあって、現代人が佩いても見劣りしません。 古流と言われるご流派の方に特にお勧めします。 物打ちの重も薄めに余分な刃肉も付いていないので、藁斬りにも使用できます。 形演武からの試斬などに使用しては如何でしょうか。 また、オリジナルの樋彫は浅めでバランスと重量軽減の為でありますが、チリが張っており予想外に振ると良い音が出ています。この辺りも演武向きと言えます。 大鎧に太刀を佩いて試斬演武や奉納演武を行えば、中々見ないので映えると思います。 勿論お家の床の間に飾られても威厳があります。 この機会に、太刀を所蔵されては如何でしょうか。 宜しくお願い致します。 加藤家 蛇の目家紋 太刀足金具




山城伝 · 加賀 · 1455-1457頃
藤代 上作 · 刀剣大鑑 上位49%
山城伝 · 加賀
現在16点販売中
藤島派は加賀国藤島の地に興り、北陸道にあって数代を重ねた一門である。その祖にして代表工が友重で、名跡は南北朝末から室町を経て近世にまで及び、現存する年紀作のうち最も古いものは応永二年の短刀である。構成員の解説はいずれも、初代を山城の来国俊の門人、あるいは同国真景の門とする古伝を載せながらこれを疑い、作風の上で来国俊に結ばれず、年代の上で真景にも肯定し難いとして、茎仕立と地刃よりすればむしろ大和物の系統、大和尻懸の手に近いものと判ずる。南北朝期を遡る作はみないとされ、初代は建武の頃、二代は貞治、三代は応永と伝える説もあるが、構成員はおおむね各作を一個人の経歴にではなく、固定した同派の特質に照らして鑑する。北陸の地にあって、同派は越中・越前の工と気脈を通じ、美濃と大和の風を受けた古刀の一門として立つ。 作風の眼目はその地鉄にある。板目に杢を交え、流れごころに肌立って、地沸つき地景入り、かねは際立って黒みをおびる。構成員はこれを同派一番の見どころとして、地鉄が肌立ちごころで黒みを帯びることを北国物の徴とし、ある作には白気映りが淡く立つと記す。山城のようなつんだ小板目には締まらず、槍・薙刀や磨上の太刀では柾目に寄った肌となって、その地に大和を素直に示す。刃文はこの地に応えて自らの混在を示し、互の目乱れを基調に、箱がかった刃・尖り刃・角ばる刃をのたれ・小のたれとともに交える。これを構成員は備前気質と美濃風が混在した感のある乱れ刃と呼び、足やや長く入り、総体に沸づいて砂流しかかり金筋入り、処々に飛焼や二重刃を交え、帽子は直ぐまたは乱れ込んで小丸となり、しばしば掃きかける。短刀ではこの手が穏やかになり、鍛えは小板目につみ、焼刃は細直刃あるいは低い小のたれ・小互の目に小沸を交え、匂口はうるんでほつれ・湯走りを交えて、同派の大和の素地が最も素直に現れる。 鑑定の勘所は、大和を素地とする黒く肌立つかねの上に、備前・美濃を想わせる躁ぎ立つ焼刃を置くという取り合わせにある。互の目と長い足は備前の作に似るが、箱がかった刃と尖り刃、肌立つ黒い地、絶えずかかる砂流しが素直な備前丁子からこれを引き離し、柾に寄る地と黒いかねが真の山城・純然たる大和の作からもこれを隔てる。同派は売立や商家に時に現れる重要刀剣を遺し、銘はほぼ在銘で、藤嶋友重の四字銘が最も多く、友重の二字銘がこれに次ぎ、生ぶ茎の作が大半を占める。藤代は同工を中上作、あるいは古刀の中位に位置づける。中心となるのは応永頃の友重で、室町から後代にかけての作が最も多く現存する。白眉として、三鈷剣と妙見大菩薩の神号を彫った大身槍を同時代を代表する名槍とする評があり、太刀の遺例は数少なく取り立てられる。伝来は稲葉家に伝わった刀や本間による御物台帳に所載の短刀があり、市場の品ではなく長く家に伝えられた重宝を含む。一口の黒いかねの作が北国一派の総体をその地に湛えるところに、同派の値はある。 詳しく見る →
室町時代
応仁の乱が足利の体制を砕いた後、戦国の一世紀はほとんどすべての国を武装させた。この時代は選ぶ目に報いる。並の作は多いが、その傍らには第一級の注文打ちが立っている。