室町は刀剣業を産業に変えた。徒歩の集団戦とともに打刀が興り、長船と関は数打ち物と注文打ちを並行して産し、勘合貿易は日本刀を数万振の単位で海外へ運んだ。
<audio controls preload="auto"> <source src="clocktowerbell.mp3" type="audio/mpeg" /> </audio> Oei era(A.D.1394-1427, early Muromachi period) Moto-haba (width at Ha-machi) approx. 2.58cm Shu kawari nuri saya, chisagatana koshirae この短刀は、藤嶋友重の優質が存分に示された一口。身幅が広くわずかに反りの付いた、応永より一時代上がる風情の姿。穏やかな地景を伴う板目鍛えの地鉄は杢肌を交えて肌起ち、全面に細かな地沸が湧いて沸映りが立つ。刃文は互の目に小互の目、浅い湾れ、尖りごころの刃を交え、激しい湯走りが掛かって地刃の境を装い、帽子は浅く乱れ込み、突き上げごころの小丸に、長めに返る。沸と匂の複合になる焼刃は淡雪のように叢付いた沸で明るく、刃境の湯走りは太い金筋、激しい砂流しとなって匂で透明感のある刃中に流れ込む。茎は刃方が強く上がった所謂加州茎の先駆をなし、逆鑚が多用された細鑚の銘字は一画一画に力が籠り、銘振りに衒いが全くなく格別なる味わい。二つの目釘穴も表裏から穿たれて古色がある。高位の武士のために特別に鍛造された作で、出来が頗る優れている。
加州藤嶋派の代表工友重の生ぶ茎在銘の短刀である。友重の現存する年紀で最も古いのは応永であるが、年紀の無い 作でこれよりも作風的にやや年代の上がると思われるものがあり、また一方で時代の下がるものも存在する。同派の作風 は地鉄が肌立ちごころで黒みを帯びるのが一つの見どころであり、刃文は互の目・箱刃・尖り刃などが交じり、備前風と 美濃風が混在した感の乱れで、足やや長く入り、沸づくものが多く、短刀には細直刃で小沸のつくものもみられる。 この短刀は地に北国肌が交じるが総じて鍛えがよく、刃文は互の目を焼き、ほつれ・砂流し・金筋湯走り・二重刃を あらわすなどして、働きが豊富である。 製作年代は室町初期であろう。























加州藤嶋派の代表工友重の生ぶ茎在銘の短刀である。友重の現存する年紀で最も古いのは応永であるが、年紀の無い作でこれよりも作風的にやや年代の上がると思われるものがあり、また一方で時代の下がるものも存在する。同派の作風は地鉄が肌立ちごころで黒みを帯びるのが一つの見どころであり、刃文は互の目・箱刃・尖り刃などが交じり、備前風と美濃風が混在した感の乱れで、足やや長く入り、沸づくものが多く、短刀には細直刃で小沸のつくものもみられる。 この短刀は地に北国肌が交じるが総じて鍛えがよく、刃文は互の目を焼き、ほつれ・砂流し・金筋湯走り・二重刃をあらわすなどして、働きが豊富である。 製作年代は室町初期であろう。
Kaga (Kashu), the Fujishima school · 加賀 · 1394-1428頃
藤代 中上作 · 刀剣大鑑 上位26%
現在2点販売中
友重は加賀国藤島に住した藤島派の祖にして代表工であり、その名は南北朝末から室町を経て近世にまで数代にわたる。年紀の見られる最も古い作は応永二年の短刀で、説明は友重の年紀として最も古いものとしてこれを極めて貴重とする。初代は俗に山城の来国俊の門人、あるいは同国真景の門と伝える。ある重要刀剣の説明はそのいずれをも疑い、最古の作と思われる熱田神宮の太刀をみるに「来国俊とは作風的に結ばれず」[[c:1]]、真景とは年代的に肯定し難いとして、作風・茎仕立よりすればむしろ大和物の系統を引くと判ずる。別の説明はその作風を大和尻懸派などに似、また備前風のところもあるとする。重要刀剣の説明は、南北朝期を遡る現存作はないと見る。
友重の見どころはその地鉄にある。板目に杢を交え、流れごころに肌立って、地沸つき地景入り、かねは際立って黒みをおびる。説明はまさにこれを同派の見どころとし、地鉄が「肌立ちごころで黒みを帯びる」[[c:2]]のが一つの見どころと記す。これに互の目乱れを焼き、箱刃・尖り刃・角ばる刃を小のたれとともに交え、処々複式風の乱れとなる。その作柄を説明は「備前気質と美濃風が混在した感のある乱れ刃」[[c:3]]と呼ぶ。足やや長く入り、総体に沸づく。砂流しかかり、金筋入り、処々に小さな飛焼を交える。帽子は直ぐまたは乱れ込んで小丸となり、しばしば掃きかける。
板目は多く締まるよりも流れて肌立ち、大身槍では柾目肌立つ。黒みはかね自体の性質であり、説明はこれを北国の地に直結させて、応永二年の短刀に「地がねの色が黒みを帯びているところに北国物の見どころが示され」[[c:4]]と記す。数口の地には淡く白気映りが立つ。刃文は地に応えて自らの混在を示す。角ばる刃はある典型作の刀で取り立てての見どころとされ、匂口は時に沸づき、時に匂勝ちとなる。
短刀と年紀作がこの作域の縁を画する。短刀では手が穏やかになり得て、説明は短刀に細直刃で小沸のつくものも見られるとする。小のたれに頭の丸い互の目を交えて沸づき砂流しのかかる後の短刀は直江志津あるいは石州直綱辺にも類似するとされるが、肌立ちごころの板目が黒味を帯びるところに北国物の特質が窺えるとされる。応永十六年の脇指はさらに大和へ寄る。直刃を基調に小さな刃を交えて帽子を焼きづめ風とし、説明はこれに「大和気質が看て取れる」[[c:5]]一方、かねの黒みに「北国風の肌合が明示されている」[[c:6]]と読む。数少ない友重の応永の年紀作として、同工の作域を知る資料とされる。本間による御物台帳に所載の在銘の短刀は、内反り強い平造に板目流れて白けごころがあり、互の目乱れに小のたれを交えて下半に特に砂流しかかり、帽子は乱れ込んで長く焼き下げる。本間はこれを出来よく「時代も室町初期を下らぬもの」[[c:7]]とし、表の梵字のみは拙く、恐らく疵かくしの後刻であろうとする。説明を伴う一五口はことごとく在銘で、うち一四口が生ぶ茎、藤嶋友重の四字銘が最も多く、時に友重の二字銘、長銘は一口に遺る。
友重を分かつものは、彼自身の地に根ざした働きにある。彼の乱れは互の目と長い足において備前の作を想わせるが、箱刃と尖り刃、肌立つ黒い地、絶えずかかる砂流しが、これに彼自身の性格を与える。ある脇指は「青江風の作を見せて優品である」[[c:8]]と評される。師の問題は大和へ向けて消去法で定まり、作風の上で来国俊にも、年代の上で真景にも結ばれない。彼は加賀藤島の作風の祖として立ち、名跡は黒く肌立つ地と箱刃・尖り刃の乱れという同じ特質のままに数代続き、最も多く現存するのは室町時代の作である。
彼の作一四口は重要刀剣に列し、藤代は同工を中上作とする。その白眉は一口の大身槍で、藤島友重と銘して三鈷剣と妙見大菩薩の神号を彫る。説明は同派・同名の作中これに優る槍はないであろうとし、「同時代を代表する名槍の一本である」[[c:9]]と判ずる。現存する彼の薙刀は稀有とされる。記録された伝来は少ない。応永頃の刀の一口は藩政時代に稲葉家に伝来し、金梨子地の糸巻太刀拵を附帯する。また在銘の短刀一口が本間による御物台帳に所載される。国宝・重要文化財はない。その重要刀剣の多くは商われるよりも蔵され、重要の友重は稀な出会いであるが、北国物を集める忍耐ある蒐集家にとって手の届かぬものではない。
友重の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
山城伝 · 加賀
現在17点販売中
藤島派は加賀国藤島の地に興り、北陸道にあって数代を重ねた一門である。その祖にして代表工が友重で、名跡は南北朝末から室町を経て近世にまで及び、現存する年紀作のうち最も古いものは応永二年の短刀である。構成員の解説はいずれも、初代を山城の来国俊の門人、あるいは同国真景の門とする古伝を載せながらこれを疑い、作風の上で来国俊に結ばれず、年代の上で真景にも肯定し難いとして、茎仕立と地刃よりすればむしろ大和物の系統、大和尻懸の手に近いものと判ずる。南北朝期を遡る作はみないとされ、初代は建武の頃、二代は貞治、三代は応永と伝える説もあるが、構成員はおおむね各作を一個人の経歴にではなく、固定した同派の特質に照らして鑑する。北陸の地にあって、同派は越中・越前の工と気脈を通じ、美濃と大和の風を受けた古刀の一門として立つ。 作風の眼目はその地鉄にある。板目に杢を交え、流れごころに肌立って、地沸つき地景入り、かねは際立って黒みをおびる。構成員はこれを同派一番の見どころとして、地鉄が肌立ちごころで黒みを帯びることを北国物の徴とし、ある作には白気映りが淡く立つと記す。山城のようなつんだ小板目には締まらず、槍・薙刀や磨上の太刀では柾目に寄った肌となって、その地に大和を素直に示す。刃文はこの地に応えて自らの混在を示し、互の目乱れを基調に、箱がかった刃・尖り刃・角ばる刃をのたれ・小のたれとともに交える。これを構成員は備前気質と美濃風が混在した感のある乱れ刃と呼び、足やや長く入り、総体に沸づいて砂流しかかり金筋入り、処々に飛焼や二重刃を交え、帽子は直ぐまたは乱れ込んで小丸となり、しばしば掃きかける。短刀ではこの手が穏やかになり、鍛えは小板目につみ、焼刃は細直刃あるいは低い小のたれ・小互の目に小沸を交え、匂口はうるんでほつれ・湯走りを交えて、同派の大和の素地が最も素直に現れる。 鑑定の勘所は、大和を素地とする黒く肌立つかねの上に、備前・美濃を想わせる躁ぎ立つ焼刃を置くという取り合わせにある。互の目と長い足は備前の作に似るが、箱がかった刃と尖り刃、肌立つ黒い地、絶えずかかる砂流しが素直な備前丁子からこれを引き離し、柾に寄る地と黒いかねが真の山城・純然たる大和の作からもこれを隔てる。同派は売立や商家に時に現れる重要刀剣を遺し、銘はほぼ在銘で、藤嶋友重の四字銘が最も多く、友重の二字銘がこれに次ぎ、生ぶ茎の作が大半を占める。藤代は同工を中上作、あるいは古刀の中位に位置づける。中心となるのは応永頃の友重で、室町から後代にかけての作が最も多く現存する。白眉として、三鈷剣と妙見大菩薩の神号を彫った大身槍を同時代を代表する名槍とする評があり、太刀の遺例は数少なく取り立てられる。伝来は稲葉家に伝わった刀や本間による御物台帳に所載の短刀があり、市場の品ではなく長く家に伝えられた重宝を含む。一口の黒いかねの作が北国一派の総体をその地に湛えるところに、同派の値はある。 詳しく見る →
室町時代
室町は刀剣業を産業に変えた。徒歩の集団戦とともに打刀が興り、長船と関は数打ち物と注文打ちを並行して産し、勘合貿易は日本刀を数万振の単位で海外へ運んだ。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,348口(約202口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。
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