赤文は性を桂野、名を正蔵と称し、寛政二年三月三日、越後国村上に桂野雲軒の次男として生まれました。兄に光長(鷺洲)、弟に忠吾(南山)がいる金工一家に育ち、素質と環境に恵まれた逸材で、青年期には江戸へ上り浜野一門に学びました。文政七年(1824年)には庄内藩から召抱えの声がかかり、この時には他藩からも要請されていましたが、赤文は生まれ故郷に近い庄内藩を選びました。その逸話からも解るように、各藩からその腕を認められた名工です。 桂野家史によれば、赤文は髭をたくわえ、一見常人とは思えない風貌であったと伝えられます。名人気質で気が向けば一心不乱に製作し、気が向かぬ時は誰に頼まれても造らなかったといいます。 生活は決して楽ではなかったものの、画家や職人の来客をもてなし、国情を聞くのが楽しみで、困窮する旅人に出会えば、宿料をやったり、衣類など分けてやるなど、手を差し伸べる情の深さも併せ持つ人物であり、酒を愛し、剽悍磊落な気性の持ち主であったといいます。 本作はいかにも四分一らしい色合いの鐔で、表面には文字で「子」「丑」を配し、巧みな片切彫で虎(寅)・兎(卯)・龍(辰)を刻んでいます。裏面には「未」「戌」「巳」の三文字を添え、同じく片切彫にて鶏(酉)・馬(午)・猪(亥)・猿(申)を描出。 表面は睨み合う龍虎に挟まれたおどけた兎、裏面は猿にそそのかされ猪が鶏の掛け声を待ちつつ馬と駆け比べを始めようとする... 一枚の鐔の中に十二支の物語を巧みに収めた構図は、赤文の卓越した技量を存分に示しています。細やかな鏨使いと遊び心溢れる構図により、観る者を一目で引き込む名品です。









赤文
江戸
町彫 · 出羽 · 1670頃
現在4点販売中
桂野赤文は寛政二年(1790年)越後国村上に生まれ、青年時代に出府して浜野家に学んだと伝えられる。また、その遊洛斎の号から京都で修業したとも推測される。文政七年(1824年)に庄内藩酒井家の抱え工となり、弘化二年(1845年)以後鶴岡に定住し、明治八年(1875年)同地で八十七歳で歿している。
赤文の作は鐔が多く、地がねには鉄と赤銅を多用し、高肉彫形式で色絵を施すのを得意とする。その他に片切彫・肉合彫・象嵌等も見られる。銘文には郷里である越後の書家、亀田鵬斎流の草書体を用いている。土屋安親を手本として研鑽を積み、画題としては動物や鳥を好んで彫っている。作域は鐔にとどまらず、「赤文作の素銅亀の置物で、甲をはずせば盃となる」[[c:1]]といった置物も手掛けている。
赤文の作風は、安親流の八角形の形状に、鋤出高彫で金銀の象嵌色絵を施すなど、構成力、彫技ともに洗練されている点が特徴である。特に、動物を題材とした作品においては、遠近法を用いるなどして、その生態や情景を巧みに表現している。重要刀装具指定の十二支図揃金具においては、「あらゆる彫法や象嵌色絵の手法を駆使して製作」[[c:2]]しており、「作者の腕の冴えを十分に発揮した大作」[[c:3]]と評されている。鐔工としての評価が高い一方で、晩年には置物などの余技にも傑出した作品を残しており、その作域の広さを示している。
赤文の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
町彫 · Edo
現在31点販売中
浜野派は江戸時代中期に奈良利寿の門人であった浜野政隨を祖とする装剣金工の一派である。政隨は通称を太郎兵衛といい、奈良四天王の一人として高名を馳せ、江戸金工名譜に「世に雷鳴す」と評される逸材であった。乙柳軒・味墨・閑径・驪風堂・遊壺亭・穐峰斎・半圭子・一瞬庵など多くの別号を有し、多数の門人を育成して町彫の主要な門流を形成し一家をなした。四代正信は乙柳軒味墨の号を継承し、政隨の伝統を継承している。また越後村上出身の桂野赤文は、青年時代に出府して浜野家に学び、のちに遊洛斎の号を用いたことから京都での修業も推測され、庄内藩酒井家の抱え工として活躍した。 浜野派の技術は大胆な高肉彫・鋤出彫・肉合彫・片切彫等あらゆる技法に長じており、その技量は極めて高く評価される。政隨の作には金銀の芋継地に容彫で韋駄天疾駆鬼を表したものや、金無垢地に銀と赤銅の置金を施した容彫で仁王像を表したものがあり、肉取りが巧みで量感に富み、題材の力強さを見事に表現している。その彫口には後藤上代の作を範としたとみられる落ち着きある品格が備わっている。四代正信の作には虫尽総金具の大小拵があり、銀四分一の石目地に高彫と据文色絵を施した各種の虫の図が揃っており、華麗かつ入念な仕上がりを示している。 桂野赤文の作風は土屋安親を手本として研鑽を積んだことが知られ、鐔を多く制作し、鉄と赤銅の地金に高肉彫形式で色絵を施すことを得意とした。片切彫・肉合彫・象嵌等の技法も用い、銘文には郷里越後の書家亀田鵬斎流の草書体を用いている。波千鳥図鐔では安親を手本とした題材を鉄地に鋤出による高肉彫で堂々と表し、千鳥の眼と足にのみ金銀の象嵌を施して画面全体に締まりと動きを与えている。柔軟な鏨使いながらも力強さを感じさせるその彫口は赤文独特のものであり、桂野家史に「生気躍動」「巧緻」と評されるその作風を顕示している。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
お求めになられた商品とは異なる商品をお届けしてしまった場合や、表記内容と現物とに大きな隔たりなどがあった場合を除き、基本的に返品はお受けいたしません。返品をご要望の場合は、商品到着後3日以内に御連絡の上ご返送下さい。
赤文は性を桂野、名を正蔵と称し、寛政二年三月三日、越後国村上に桂野雲軒の次男として生まれました。兄に光長(鷺洲)、弟に忠吾(南山)がいる金工一家に育ち、素質と環境に恵まれた逸材で、青年期には江戸へ上り浜野一門に学びました。文政七年(1824年)には庄内藩から召抱えの声がかかり、この時には他藩からも要請されていましたが、赤文は生まれ故郷に近い庄内藩を選びました。その逸話からも解るように、各藩からその腕を認められた名工です。 桂野家史によれば、赤文は髭をたくわえ、一見常人とは思えない風貌であったと伝えられます。名人気質で気が向けば一心不乱に製作し、気が向かぬ時は誰に頼まれても造らなかったといいます。 生活は決して楽ではなかったものの、画家や職人の来客をもてなし、国情を聞くのが楽しみで、困窮する旅人に出会えば、宿料をやったり、衣類など分けてやるなど、手を差し伸べる情の深さも併せ持つ人物であり、酒を愛し、剽悍磊落な気性の持ち主であったといいます。 本作はいかにも四分一らしい色合いの鐔で、表面には文字で「子」「丑」を配し、巧みな片切彫で虎(寅)・兎(卯)・龍(辰)を刻んでいます。裏面には「未」「戌」「巳」の三文字を添え、同じく片切彫にて鶏(酉)・馬(午)・猪(亥)・猿(申)を描出。 表面は睨み合う龍虎に挟まれたおどけた兎、裏面は猿にそそのかされ猪が鶏の掛け声を待ちつつ馬と駆け比べを始めようとする... 一枚の鐔の中に十二支の物語を巧みに収めた構図は、赤文の卓越した技量を存分に示しています。細やかな鏨使いと遊び心溢れる構図により、観る者を一目で引き込む名品です。









赤文
江戸
町彫 · 出羽 · 1670頃
現在4点販売中
桂野赤文は寛政二年(1790年)越後国村上に生まれ、青年時代に出府して浜野家に学んだと伝えられる。また、その遊洛斎の号から京都で修業したとも推測される。文政七年(1824年)に庄内藩酒井家の抱え工となり、弘化二年(1845年)以後鶴岡に定住し、明治八年(1875年)同地で八十七歳で歿している。
赤文の作は鐔が多く、地がねには鉄と赤銅を多用し、高肉彫形式で色絵を施すのを得意とする。その他に片切彫・肉合彫・象嵌等も見られる。銘文には郷里である越後の書家、亀田鵬斎流の草書体を用いている。土屋安親を手本として研鑽を積み、画題としては動物や鳥を好んで彫っている。作域は鐔にとどまらず、「赤文作の素銅亀の置物で、甲をはずせば盃となる」[[c:1]]といった置物も手掛けている。
赤文の作風は、安親流の八角形の形状に、鋤出高彫で金銀の象嵌色絵を施すなど、構成力、彫技ともに洗練されている点が特徴である。特に、動物を題材とした作品においては、遠近法を用いるなどして、その生態や情景を巧みに表現している。重要刀装具指定の十二支図揃金具においては、「あらゆる彫法や象嵌色絵の手法を駆使して製作」[[c:2]]しており、「作者の腕の冴えを十分に発揮した大作」[[c:3]]と評されている。鐔工としての評価が高い一方で、晩年には置物などの余技にも傑出した作品を残しており、その作域の広さを示している。
赤文の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
町彫 · Edo
現在31点販売中
浜野派は江戸時代中期に奈良利寿の門人であった浜野政隨を祖とする装剣金工の一派である。政隨は通称を太郎兵衛といい、奈良四天王の一人として高名を馳せ、江戸金工名譜に「世に雷鳴す」と評される逸材であった。乙柳軒・味墨・閑径・驪風堂・遊壺亭・穐峰斎・半圭子・一瞬庵など多くの別号を有し、多数の門人を育成して町彫の主要な門流を形成し一家をなした。四代正信は乙柳軒味墨の号を継承し、政隨の伝統を継承している。また越後村上出身の桂野赤文は、青年時代に出府して浜野家に学び、のちに遊洛斎の号を用いたことから京都での修業も推測され、庄内藩酒井家の抱え工として活躍した。 浜野派の技術は大胆な高肉彫・鋤出彫・肉合彫・片切彫等あらゆる技法に長じており、その技量は極めて高く評価される。政隨の作には金銀の芋継地に容彫で韋駄天疾駆鬼を表したものや、金無垢地に銀と赤銅の置金を施した容彫で仁王像を表したものがあり、肉取りが巧みで量感に富み、題材の力強さを見事に表現している。その彫口には後藤上代の作を範としたとみられる落ち着きある品格が備わっている。四代正信の作には虫尽総金具の大小拵があり、銀四分一の石目地に高彫と据文色絵を施した各種の虫の図が揃っており、華麗かつ入念な仕上がりを示している。 桂野赤文の作風は土屋安親を手本として研鑽を積んだことが知られ、鐔を多く制作し、鉄と赤銅の地金に高肉彫形式で色絵を施すことを得意とした。片切彫・肉合彫・象嵌等の技法も用い、銘文には郷里越後の書家亀田鵬斎流の草書体を用いている。波千鳥図鐔では安親を手本とした題材を鉄地に鋤出による高肉彫で堂々と表し、千鳥の眼と足にのみ金銀の象嵌を施して画面全体に締まりと動きを与えている。柔軟な鏨使いながらも力強さを感じさせるその彫口は赤文独特のものであり、桂野家史に「生気躍動」「巧緻」と評されるその作風を顕示している。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
お求めになられた商品とは異なる商品をお届けしてしまった場合や、表記内容と現物とに大きな隔たりなどがあった場合を除き、基本的に返品はお受けいたしません。返品をご要望の場合は、商品到着後3日以内に御連絡の上ご返送下さい。