日本刀 刀 則重(伝) 日本美術刀剣保存協会 保存刀剣鑑定書付 【解説】 本作は、鎌倉時代末期(1308年〜1329年頃)に越中国(現在の富山県)で活躍した則重(のりしげ)と伝承される一振りです。則重は、新藤五国光あるいは相州正宗を師に持ったと伝えられています。国光は五ヶ伝の一つである「相州伝」の基礎を築き、正宗がそれを完成させました。正宗は日本刀の歴史において最も高名な刀工の一人と言えるでしょう。則重は相模国(現在の神奈川県)にて相州伝の技術を学び、後に越中へと移り住みました。彼は相州伝を代表する名工の一人として数えられ、その卓越した鍛錬技術と、独特の肌合い(松皮肌)を持つ作風は古来より高く評価されています。 相州伝について 相州伝は鎌倉時代中期に誕生しました。当時、大和伝や山城伝は既に高度な発展を遂げており、多くの名工を輩出していましたが、関東の相模国における作刀技術は未だ発展途上にありました。 1185年に成立した鎌倉幕府の初期、初代将軍・源頼朝は政治的安定のための体制づくりを優先しており、お抱えの刀工を育成する余裕がありませんでした。そのため、幕府は当初、大和や山城といった他国の刀工に武器の発注を行っていました。 しかし、幕府の確立とともに武士からの需要が急増したため、五代執権・北条時頼は、山城国から粟田口国綱、備前国から備前三郎国宗という二人の名工を招聘しました。さらに七代将軍・惟康親王も備前より福岡一文字助真を招きました。 これら三名の名工が相州伝の礎を築く上で重要な役割を果たしたと言われています。その後、粟田口国綱の養子とされる新藤五国光が登場し、その卓越した技術は弟子の行光へと受け継がれました。そして行光の弟子であり、日本刀史上最も著名な刀工の一人である正宗が、相州伝を完成させ、その名を天下に轟かせました。正宗が確立した様式は、相州伝を学ぶ多くの刀工の模範となり、古刀期から新刀期に至るまで、大坂の井上真改や江戸の水心子正秀など、多くの名工に多大な影響を与えました。 本刀は、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により「保存刀剣」に鑑定されています。この鑑定書は、保存状態が良く、美術品としての価値が高い本物の日本刀に対してのみ発行されるものです。 ※刀身に数箇所、目立つ鍛え傷(きたえきず)がございます。詳細なコンディションについては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身】 長さ(長短):67.6 cm 反り:2.0 cm 刃文:焼入れによって刃先に現れる結晶構造。 地鉄(地肌):鍛錬の過程で折り返し、叩くことによって生まれる鋼の表面模様。 切先:刀身の先端部分。 茎(なかご):刀身の柄に収まる部分。 日本の刀工は、柄の中での赤錆を防ぐために茎に黒錆を残します。この茎の錆色は長い年月を経て形成されるもので、専門家が製作年代を推定する際の重要な指標となります。 拵: 刀剣の外装。複数の金具で構成されています。























Soshu / Etchu · 越中 · 1308-1314頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位2%
現在7点販売中
則重は鎌倉時代末期の越中の工で、新藤五国光の門人、行光・正宗とは兄弟弟子として相州伝を完成へ導いた。『古今銘尽』など江戸期の刀剣書は正宗十哲の一人に挙げるが、現存する正和・元応などの年紀や太刀・短刀の姿形からすれば、室町期の刀剣書のいう新藤五国光門下説が妥当で、正宗とは相弟子、あるいはやや先行とみるべきである。
常の作風はその名を負う松皮肌である。板目が大模様に肌立ち、杢を交え、太い地景が頻りに入って松皮の如き肌をなし、地沸厚く、かねは黒みを帯びる。諸書は相州上工中もっとも正宗に近いとしつつ、「正宗以上に沸の変化を露に表現」[[c:1]]したものが多いとし、刃中・地鉄ともに「千変万化の沸の働き」[[c:2]]をあらわすという。刃文はのたれに互の目を交えた沸出来で、匂口は沈みごころ、金筋・砂流しが烈しく働き、二重刃・湯走りを交える。帽子は単なる小丸ではなく、掃きかけて乱れ込み、時に尖り・焼詰め風となる。
いま一つ、精到で珍重される作風がある。在銘の太刀や前期の在銘短刀では地肌が常ほど肌立たず、整った小板目に締まって地刃ともに穏やかとなり、かねは一段と明るく冴え、地景・金筋は静かである。ある在銘太刀は「常の則重の作に比べて地刃共に穏やか」[[c:3]]と評され、小のたれ主調の底に則重特有の渦巻肌と地景を沈めてよく冴える。正和三年紀の在銘短刀は肌立たず明るく、「新藤五国光や行光につながる出来」[[c:4]]として前期作とされる。これは松皮肌の崩れではなく、別個の、そして高く評価される一面である。
鑑別の核は二様に共通する。太い地景、沈みごころの匂口、烈しい金筋・砂流し、そして掃きかける帽子である。沈む匂口は明るい備前と分かち、沸の変化の激しさと肌立ちは正宗と分かつ。藤代は最上作に列し、特別重要刀剣の指定数は全工中でも上位に位置する。在銘作は短刀が主で、太刀については、かつて「太刀は僅かに二口をかぞえるのみである」[[c:5]]と記されたが、指定品では今日、重要文化財二口・特別重要刀剣二口の計四口の在銘太刀が知られる。名物は豊臣秀吉より徳川綱吉を経て柳沢家へ、ほかに島津・前田・細川・井伊などの諸家を歴とし、国宝・重要文化財として動かぬものも多い。松皮肌は門人為継により越中へ受け継がれた。
則重の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
相州伝 · 相模
時期区分: 相州· 1288–1385
現在43点販売中
板目に杢を交えた地鉄に地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに織りなされて明るく冴える鍛え、これが相州(鎌倉後期から南北朝期にかけての相州伝の古典的全盛期)を貫く核である。この区分は始祖新藤五国光が粟田口由来の精緻な小板目と直刃の基盤の上に、地刃ともに沸を主体とする鍛えを据えたところに始まる。国光の門から行光、正宗、則重が出て技術が大成し、続いて正宗の系から養子貞宗、越中の郷義弘が出て、伝統が頂点に達した。さらに南北朝期に入ると相模国にあって時代的にも技術的にも貞宗の次に位置する広光と秋広が現れ、十四世紀後半まで本流が続く。鎌倉幕府の府たる鎌倉を母体とし、その滅亡から南北朝の動乱という時代背景のなかで、姿は身幅広く寸延びた豪壮なものへと推移していった。 作風は説示にいう板目に杢交じり、地沸厚くつき、地景頻りに入る鍛えを土台とし、刃文はのたれを基調に互の目を交え、匂口深く沸厚くつき、金筋・沸筋・砂流しが頻りにかかって匂口明るく冴える点にある。郷義弘の作では、正宗・則重に比べて地景・金筋は穏やかながら、刃中に沸足がよく働き、地刃が一段と明るく冴え、肌合に柾ごころを交え、帽子を一枚風に深く焼くのが見どころとされる。広光・秋広に至ると、板目が肌立ちごころとなり、丁子に互の目を交え、飛焼・棟焼を交えて皆焼となり、頭の丸い団子丁子を交える刃文がこの時代に始まる。これらは母体である粟田口の抑制された直刃の源流からは遠く隔たり、沸の働きを前面に押し出した展開である。一方、後続の末相州(室町期の継続と衰退)が、こうした皆焼や帽子の一枚焼きといった形を継承しつつ地刃の冴えと沸の質を次第に薄めていくのに対し、本区分は地刃ともに明るく冴え、働きが豊富である点で截然と区別される。秋広の彫物が後の正広・広正、さらに室町末期の相州鍛冶の先駆となったことも、本区分が型を確立した側であることを示す。 収集家がこの区分を別格とするのは、正宗を頂点に、貞宗、そして正宗十哲の筆頭に挙げられる郷義弘という頂の刀工を擁するからである。鑑定上の要点は、郷義弘・貞宗ともに在銘作が皆無であるため、地刃の明るい冴え、沸足の働き、柾ごころ、一枚風に深く焼く帽子といった作域から極めることにある。代表作には金象嵌銘の兜切り江や名物中川江があり、宇和島伊達家、小田原藩大久保家、薩摩の島津家など大名家への伝来が説示に記される。秋広には延文二年から至徳四年に及ぶ年紀作があり、銘の切り方の変遷とともに資料的価値を支えている。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.
日本刀 刀 則重(伝) 日本美術刀剣保存協会 保存刀剣鑑定書付 【解説】 本作は、鎌倉時代末期(1308年〜1329年頃)に越中国(現在の富山県)で活躍した則重(のりしげ)と伝承される一振りです。則重は、新藤五国光あるいは相州正宗を師に持ったと伝えられています。国光は五ヶ伝の一つである「相州伝」の基礎を築き、正宗がそれを完成させました。正宗は日本刀の歴史において最も高名な刀工の一人と言えるでしょう。則重は相模国(現在の神奈川県)にて相州伝の技術を学び、後に越中へと移り住みました。彼は相州伝を代表する名工の一人として数えられ、その卓越した鍛錬技術と、独特の肌合い(松皮肌)を持つ作風は古来より高く評価されています。 相州伝について 相州伝は鎌倉時代中期に誕生しました。当時、大和伝や山城伝は既に高度な発展を遂げており、多くの名工を輩出していましたが、関東の相模国における作刀技術は未だ発展途上にありました。 1185年に成立した鎌倉幕府の初期、初代将軍・源頼朝は政治的安定のための体制づくりを優先しており、お抱えの刀工を育成する余裕がありませんでした。そのため、幕府は当初、大和や山城といった他国の刀工に武器の発注を行っていました。 しかし、幕府の確立とともに武士からの需要が急増したため、五代執権・北条時頼は、山城国から粟田口国綱、備前国から備前三郎国宗という二人の名工を招聘しました。さらに七代将軍・惟康親王も備前より福岡一文字助真を招きました。 これら三名の名工が相州伝の礎を築く上で重要な役割を果たしたと言われています。その後、粟田口国綱の養子とされる新藤五国光が登場し、その卓越した技術は弟子の行光へと受け継がれました。そして行光の弟子であり、日本刀史上最も著名な刀工の一人である正宗が、相州伝を完成させ、その名を天下に轟かせました。正宗が確立した様式は、相州伝を学ぶ多くの刀工の模範となり、古刀期から新刀期に至るまで、大坂の井上真改や江戸の水心子正秀など、多くの名工に多大な影響を与えました。 本刀は、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により「保存刀剣」に鑑定されています。この鑑定書は、保存状態が良く、美術品としての価値が高い本物の日本刀に対してのみ発行されるものです。 ※刀身に数箇所、目立つ鍛え傷(きたえきず)がございます。詳細なコンディションについては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身】 長さ(長短):67.6 cm 反り:2.0 cm 刃文:焼入れによって刃先に現れる結晶構造。 地鉄(地肌):鍛錬の過程で折り返し、叩くことによって生まれる鋼の表面模様。 切先:刀身の先端部分。 茎(なかご):刀身の柄に収まる部分。 日本の刀工は、柄の中での赤錆を防ぐために茎に黒錆を残します。この茎の錆色は長い年月を経て形成されるもので、専門家が製作年代を推定する際の重要な指標となります。 拵: 刀剣の外装。複数の金具で構成されています。























Soshu / Etchu · 越中 · 1308-1314頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位2%
現在7点販売中
則重は鎌倉時代末期の越中の工で、新藤五国光の門人、行光・正宗とは兄弟弟子として相州伝を完成へ導いた。『古今銘尽』など江戸期の刀剣書は正宗十哲の一人に挙げるが、現存する正和・元応などの年紀や太刀・短刀の姿形からすれば、室町期の刀剣書のいう新藤五国光門下説が妥当で、正宗とは相弟子、あるいはやや先行とみるべきである。
常の作風はその名を負う松皮肌である。板目が大模様に肌立ち、杢を交え、太い地景が頻りに入って松皮の如き肌をなし、地沸厚く、かねは黒みを帯びる。諸書は相州上工中もっとも正宗に近いとしつつ、「正宗以上に沸の変化を露に表現」[[c:1]]したものが多いとし、刃中・地鉄ともに「千変万化の沸の働き」[[c:2]]をあらわすという。刃文はのたれに互の目を交えた沸出来で、匂口は沈みごころ、金筋・砂流しが烈しく働き、二重刃・湯走りを交える。帽子は単なる小丸ではなく、掃きかけて乱れ込み、時に尖り・焼詰め風となる。
いま一つ、精到で珍重される作風がある。在銘の太刀や前期の在銘短刀では地肌が常ほど肌立たず、整った小板目に締まって地刃ともに穏やかとなり、かねは一段と明るく冴え、地景・金筋は静かである。ある在銘太刀は「常の則重の作に比べて地刃共に穏やか」[[c:3]]と評され、小のたれ主調の底に則重特有の渦巻肌と地景を沈めてよく冴える。正和三年紀の在銘短刀は肌立たず明るく、「新藤五国光や行光につながる出来」[[c:4]]として前期作とされる。これは松皮肌の崩れではなく、別個の、そして高く評価される一面である。
鑑別の核は二様に共通する。太い地景、沈みごころの匂口、烈しい金筋・砂流し、そして掃きかける帽子である。沈む匂口は明るい備前と分かち、沸の変化の激しさと肌立ちは正宗と分かつ。藤代は最上作に列し、特別重要刀剣の指定数は全工中でも上位に位置する。在銘作は短刀が主で、太刀については、かつて「太刀は僅かに二口をかぞえるのみである」[[c:5]]と記されたが、指定品では今日、重要文化財二口・特別重要刀剣二口の計四口の在銘太刀が知られる。名物は豊臣秀吉より徳川綱吉を経て柳沢家へ、ほかに島津・前田・細川・井伊などの諸家を歴とし、国宝・重要文化財として動かぬものも多い。松皮肌は門人為継により越中へ受け継がれた。
則重の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
相州伝 · 相模
時期区分: 相州· 1288–1385
現在43点販売中
板目に杢を交えた地鉄に地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに織りなされて明るく冴える鍛え、これが相州(鎌倉後期から南北朝期にかけての相州伝の古典的全盛期)を貫く核である。この区分は始祖新藤五国光が粟田口由来の精緻な小板目と直刃の基盤の上に、地刃ともに沸を主体とする鍛えを据えたところに始まる。国光の門から行光、正宗、則重が出て技術が大成し、続いて正宗の系から養子貞宗、越中の郷義弘が出て、伝統が頂点に達した。さらに南北朝期に入ると相模国にあって時代的にも技術的にも貞宗の次に位置する広光と秋広が現れ、十四世紀後半まで本流が続く。鎌倉幕府の府たる鎌倉を母体とし、その滅亡から南北朝の動乱という時代背景のなかで、姿は身幅広く寸延びた豪壮なものへと推移していった。 作風は説示にいう板目に杢交じり、地沸厚くつき、地景頻りに入る鍛えを土台とし、刃文はのたれを基調に互の目を交え、匂口深く沸厚くつき、金筋・沸筋・砂流しが頻りにかかって匂口明るく冴える点にある。郷義弘の作では、正宗・則重に比べて地景・金筋は穏やかながら、刃中に沸足がよく働き、地刃が一段と明るく冴え、肌合に柾ごころを交え、帽子を一枚風に深く焼くのが見どころとされる。広光・秋広に至ると、板目が肌立ちごころとなり、丁子に互の目を交え、飛焼・棟焼を交えて皆焼となり、頭の丸い団子丁子を交える刃文がこの時代に始まる。これらは母体である粟田口の抑制された直刃の源流からは遠く隔たり、沸の働きを前面に押し出した展開である。一方、後続の末相州(室町期の継続と衰退)が、こうした皆焼や帽子の一枚焼きといった形を継承しつつ地刃の冴えと沸の質を次第に薄めていくのに対し、本区分は地刃ともに明るく冴え、働きが豊富である点で截然と区別される。秋広の彫物が後の正広・広正、さらに室町末期の相州鍛冶の先駆となったことも、本区分が型を確立した側であることを示す。 収集家がこの区分を別格とするのは、正宗を頂点に、貞宗、そして正宗十哲の筆頭に挙げられる郷義弘という頂の刀工を擁するからである。鑑定上の要点は、郷義弘・貞宗ともに在銘作が皆無であるため、地刃の明るい冴え、沸足の働き、柾ごころ、一枚風に深く焼く帽子といった作域から極めることにある。代表作には金象嵌銘の兜切り江や名物中川江があり、宇和島伊達家、小田原藩大久保家、薩摩の島津家など大名家への伝来が説示に記される。秋広には延文二年から至徳四年に及ぶ年紀作があり、銘の切り方の変遷とともに資料的価値を支えている。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.