江戸は刀の目利きの時代である。本阿弥の鑑定、1719年の享保名物帳、盛んな刀剣書が、戦で抜かれることのなくなった刀を学問の対象へと変えていった。
日本刀 大小 兼春(無銘・保存刀剣)/肥前国陸奥守忠吉(特別保存刀剣) 【解説】 -打刀 本作は「兼春」と極められた一振りです。兼春の名は室町中期から江戸中期まで続きますが、鑑定書には詳細な年代の記載がないものの、日本刀保存協会(NBTHK)への電話確認により、室町後期(16世紀初頭)の作と鑑定されていることが分かっています。 兼春は「末関(すえぜき)」に分類される工です。末関とは室町後期の美濃国の刀工群を指し、室町期(1459-1557年)には約7名の兼春が確認されています。兼春は美濃国関(現在の岐阜県関市)における「関鍛冶七流」の一つ、三阿弥派に属していました。 美濃伝の作風は、大和伝を源流として鎌倉後期(1280-1330年)に興り、室町から江戸期にかけて繁栄しました。基本的には直調の刃文に「尖り刃」が交じり、白く映りが立つのが特徴です。 戦国時代、武器の需要が高まると美濃伝は空前の繁栄を遂げました。その背景には地理的条件があります。美濃の明智光秀、尾張の織田信長、駿河の徳川家康といった有力大名やその家臣団からの需要に加え、関東と京の中間に位置していたため、各地の諸大名にとって注文が非常に容易でした。また、美濃刀は実用本位で切れ味が鋭いという定評もあり、多くの武将に愛用されました。 -脇差 本作は「肥前国陸奥守忠吉」の銘があり、三代忠吉の手によるものです。三代忠吉は万治・寛文年間(1658-1673年:江戸初期)に活躍した名工で、二代近江大掾忠広の嫡男です。忠吉の名は江戸初期から幕末まで九代にわたり受け継がれました。 彼は万治3年(1660年)に陸奥大掾を受領し、翌寛文元年(1661年)には陸奥守へと昇進しました。「守」や「大掾」は、優れた技術を持つ工に対して朝廷から授けられた名誉ある官位です。三代忠吉は父・忠広の「代作」を多く務めたと言われており、自身の銘を切った作刀は希少です。代作とは、師匠の許可を得て弟子や子が師匠の銘を代筆、あるいは師匠に代わって鍛錬することを指します。三代忠吉は50歳で没しました。 また、三代忠吉は極めて切れ味の鋭い刀を打つことで知られ、寛政9年(1797年)に発行された『懐宝剣尺』において「最上大業物」に列せられています。名声・技量ともに最高峰の刀工として評価されています。 (初代忠吉について) 祖父である初代忠吉は佐賀藩に生まれました。慶長元年(1596年)、藩命により京へ上り、江戸初期の巨匠・埋忠明寿に師事して作刀技術を学びました。2年後の慶長3年(1598年)に帰郷。佐賀藩主・鍋島勝茂公はその技量を高く評価し、初代忠吉を藩専属の「御抱え鍛冶」として重用しました。
取扱店 サムライミュージアム









































美濃伝 · 美濃 · 1532-1555頃
美濃伝 · 美濃
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美濃国の関は、南北朝より室町、新刀期に至るまで日本刀の一大生産地として栄えた鍛冶の地である。その源流は二つに発し、説明書は金重と志津兼氏とを並べて美濃鍛冶の祖とする。金重は『古今銘尽』に法名道阿、越前敦賀の住人と伝えられ、敦賀より関へ越えて住したといい、相州正宗十哲の一に数えられて、沸の厚い穏やかな手を美濃の地鉄に持ち込んだ。兼氏に発する志津の系は、尖り互の目に走る乱調をもって、いま一つの根をなす。この二流が南北朝の美濃伝を形づくり、金行のごとく金重に続く工、室町に入って善定派の兼吉のように大和手掻の血を関に運んだ工が加わって、流れは広がった。室町後期には兼元・兼定の二名を頂点とする末関の隆盛を迎え、孫六兼元の名と和泉守兼定の受領とが、地方の量産地にとどまらぬ関の格を世に示した。大和と相州の二つの源流に、備前を意識した白け映りの地が結ばれて、美濃伝という一個の伝法が立ったのである。 関物を貫くのは、工と系統の差を越えて繰り返される美濃の共通語法である。地鉄は板目に柾を交えてしばしば肌立ち、刃寄りに柾がかり、鎬地は柾に流れる。その地に立つ映りは備前の明るい乱れ映りではなく、淡く白ける美濃鉄の靄のような白け映りで、説明書はこれを終始、備前と作を分かつ見どころとして掲げる。刃文は互の目を主調に尖り刃を交え、兼元にあっては整然と並ぶ尖り刃の三本杉となり、兼定や兼之にあっては頭の丸い互の目とのたれを交えて変化に富む。沸は乾いて締まり、匂口は冴え、足入り、砂流し・細かな金筋が刃中を走る。帽子は乱れ込んで先尖りごころとなり、あるいは丸く地蔵風に返る。これらは関の背骨をなす型であって、工により濃淡を異にする。金重・金行の手は穏やかで地が肌立ち、善定兼吉は大和の血を負って締った直刃と柾がかる板目を見せ、末関の氏房は大らかなのたれに尖り刃を折り込み、兼房は頭の丸い互の目の兼房乱れを得意とする。同じ語法のうちに、それぞれの工の手が読み分けられる。 収集家が関物を求めるのは、その鑑定が手応えを伴う一個の眼の修練だからである。映りが白く沸が乾いて締まる美濃の地刃は、備前の華やかな映りとも、山城の長く澄んだ直刃とも異なり、これを見分けることが関を識る勘所となる。主要工の格は説明書の評にそのまま現れる。孫六兼元は三本杉の創始者として名を成し、和泉守兼定すなわちノサダは、白ける板目に焼いた賑やかな美濃の刃と来国俊風の細直刃の双方を能くして、古刀期に珍しい受領を許され、刀剣書が「すぐれたる上手」と評する当代第一の手とされる。兼之は末関中最もよく練れた鍛えを見せて作域広く、永正・大永のノサダとして賞玩が厚い。これらの名は将軍家・大名家の伝来を負い、ノサダの太刀には武田信虎のために打たれた一口があり、菊花紋を切った刀は皇室との関わりを示し、徳川将軍家への献上を経た金重の短刀も伝わる。末関の氏房一門は清須・名古屋へ移って尾張新刀三祖の一を生み、古い美濃の手が新たな伝統へ移る蝶番に立った。切れ味をもって武用に応えた量産の地でありながら、孫六兼元らの最上手の作は美術的価値においても高く評され、その白け映りと乾いた沸の手を識ることが、美濃伝いかに始まり継がれたかを語る証となる。 詳しく見る →
江戸時代
江戸は刀の目利きの時代である。本阿弥の鑑定、1719年の享保名物帳、盛んな刀剣書が、戦で抜かれることのなくなった刀を学問の対象へと変えていった。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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