説明

南北朝時代(1333-1392) 日本美術刀剣保存協会 第15回重要刀剣(1965年指定) 長さ:70.2 cm(二尺三寸二分) 反り:1.1 cm 元幅:2.8 cm 先幅:2.05 cm 元重:6.7 mm 姿:鎬造、庵棟、反り浅く、中切先(3.7 cm) 鍛え:板目肌主体に地沸つく 刃文:小湾れに互の目尖り、尖りごころを交える。小足、砂流し入り、匂口深く小沸つく 帽子:乱れ込み、尖りごころに返り、掃き掛けかかる 彫物:表裏に棒樋、表は茎に掻き通し、裏は掻き流す 茎:大磨上、切尻、鑢目勝手下がり、目釘孔三(内二つ埋)、無銘 鑑定書:日本美術刀剣保存協会(NBTHK)重要刀剣指定書(昭和40年・第15回) 鞘書き:人間国宝・本阿弥日洲(1908-1996)による執筆 「重要刀剣 備前国兼光 磨上無銘 貞治頃 長サ二尺三寸二分 奥村家珍蔵品之一 昭和丁未年早春研記之 本阿弥日洲(花押)」 外装:赤銅地金象嵌縁頭、肥後鉄地鍔を付した時代拵 伝来:奥村家旧蔵 備前国長船派は、数ある刀工流派の中でも最も優れた技量を誇り、かつ長期にわたって繁栄した名門です。長船の正系は鎌倉時代中期の建長年間(1250年頃)に光忠によって興されました。 その後、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて相州伝が隆盛を極めると、多くの刀工が鎌倉へ赴き、その技法を学び故郷へと持ち帰りました。こうした刀工たちの往来は、後に「正宗十哲」の伝承を生むこととなります。今日では、これら諸国の名工たちが必ずしも正宗の直弟子であったわけではないことが知られていますが、彼らが相州伝の革新的な作風に多大な影響を受けたことは紛れもない事実です。 本作の作者とされる兼光は、長船派の全盛期を築いた巨匠であり、景光の子として知られます。その作風は、父譲りの片落ち互の目から、時代を反映したダイナミックな相州伝風の「備前長船兼光」へと変遷を遂げました。本作は、その力強い南北朝期の特色を色濃く反映した一口です。

Katana den Kencho, circa 1365 – Jūyō Tōken

Katana den Kencho, circa 1365 – Jūyō Tōken

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流派

Osafune

時代

Teiji (1362-1368) ND

仕様

長さ

70.2 cm

反り

1.1 cm

元幅

2.8 cm

先幅

2.05 cm

作者について

Kencho兼長

4 重要美術品11 特別重要刀剣79 重要刀剣

備前の兼長、銘は「兼長」と記し、説明書は長船長義の門と伝え(長船長義の門と伝え)、正宗に発する相州伝を備前の地に取り込んだ相伝備前の系の工とする。在銘作の遺存が極めて少ないことを説明書は率直に記す。基準作は、重要美術品認定の貞治五年(一三六六)紀の脇指、及び至徳四年(一三八七)・嘉慶二年(一三八八)紀の各短刀であり、後二者は前者以上に沸が強く地刃の働きも豊富である。これら僅かな年紀作から、説明書は同工の極め全体を支える判断を導く。すなわち、その出来口は「長義の作風に近似しながらもそれ以上に相州伝が強調された」ものである、と。ただし鑑定の実際はそこにはなく、その名で遺るものはほとんどが、銘ではなく作柄によって同工に極められた豪壮な大磨上無銘の刀である。 その多数を占める一群について、説明書は、「長義に似て一段と沸が強く、刃中よく働く」刀と描く。記される姿そのものが見どころの一であって、身幅広く元先の幅差殆どなく、重ね厚く、反りやや深くつき、大鋒あるいは中鋒の延びる、南北朝の豪壮な体配を大磨上に留める。刃文は、のたれ又は互の目を基調に、互の目・小互の目に丁子・角ばる刃・尖り刃を交え、振りを与える腰開きの互の目を交えた大模様の乱れである。足・葉よく入り、匂口は深く明るく、沸はよくつき処々荒めに沸づき、金筋・砂流しが頻りにかかる。小さな湯走り・飛焼が刃の上に飛び、帽子は乱れ込んで尖りごころに掃きかけ、火焔風となるものが多い。 地鉄は、その相州伝の刃を載せる備前の地である。説明書は、板目に杢・大杢目を交え、処々流れ肌を交えて肌立ち、地沸が微塵に厚くつき、地景がよく入ると記す。備前の映りは現れるが淡く、繰り返し淡く乱れ映り立つ(淡く乱れ映り立つ)と記される。その淡さこそが見どころで、相州伝を強く推せば推すほど備前地は薄れ、最も相州伝の強い作では映りはほとんど引く。説明書はその残る映りを国の証と読み、ある刀を「映りが現れていることから、相伝備前と鑑せらる」ものと判ずる。 作はそれゆえ二様に分かれる。稀な年紀の在銘作が基準で、貞治の脇指は皆焼風に傾き、至徳・嘉慶の短刀は相州伝を極めて、説明書はこれを則重に擬し、「一見則重にも紛れる位に相州伝の強調された」作と書く。これら年紀作の銘の書風と鏨使いが、この手が長義派に連なることを首肯せしめるという。これに対して大半を占めるのが、長義その人よりも放胆で大模様な大磨上無銘の刀の群である。説明書はまた本間の談として年代の問題を留める。すなわち、貞治の兼長の銘振りは長義と相違し、後の至徳・嘉慶・明徳の作は長義の応安頃の銘振りに通ずるため、「通説を検討すべき」であり、貞治の兼長は「長義とは別系であり、至徳以後の兼長が長義の門下であろう」と説く。説明書はこれを定説ではなく検討の余地ある問題として提示する。 長義一類の中で、同工の位置は最も相州伝が強調された極にある。説明書は度合をもって長義と分かつ。長義に極める常の大磨上無銘がやや静かに納まるのに対し、兼長のそれは一段と放胆で大模様、沸の強い手であり、ある特別重要刀剣の刀を「長義一類の中でも兼長に最も擬すべき」ものと判ずる。腰開きの互の目はその最も特有の見どころで、正系備前の同類には見られぬ振りであり、砂流し・金筋は最も豊かに、飛焼は最も執拗に現れる。かくして、丁子の備前線に近い正系備前寄りの兼光・元重とは作風を異にし、相伝備前の相州寄りを最も推し進めた長義門の工として、長義と並ぶ。 兼長は藤代の極めで上作、刀剣美術の評価において刀工大鑑九〇〇。在銘作が極めて少ないにもかかわらず、その名を負う指定の重みは厚く、国の文化財指定を受けた作はないものの、特別重要刀剣十一口、重要刀剣七十九口、上位二級で九十口に達し、重要美術品に認定された作も数口を遺す。来歴には格のある名が録され、真田家・藤堂家・酒井忠以・土浦土屋家・山内、米国の蒐集家ウォルター・A・コンプトンらの手を経る。所在の知れるもののうち、二口は備前長船刀剣博物館・厳島神社の所蔵にかかり、他は私蔵に帰す。在銘がほとんど遺らず、極めの刀自体も多くは出ぬため、兼長が市に現れることは稀であり、最上級の文化財指定に永く封ぜられた作はないものの、所在の知れる作は特別重要刀剣・重要刀剣の級にあって、その多くは取引されず保たれている。一口が世に出るのは、求めて得られるものではなく、出れば一事件というべきものである。

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Giuseppe Piva

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