Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 鎌倉時代末期から南北朝時代前期の備後国では、正家と正広の活躍が目覚ましい。左衛門尉正広は右衛門尉正家の子と伝える。一門の鍛冶は応永頃の二代目を経て後も栄え、文明頃に三原に定住したことから、これらの祖に当たる正家や正廣を古三原と呼び分けている。いずれも比較的寸法が長く、多くが磨り上げられて伝えられたが、切れ味に優れて戦国武将の信頼を集めた。


Ko-Mihara (Bingo) · 備後 · 1362-1389頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位11%
現在1点販売中
昭和四十八年、第二回特別重要刀剣に指定された「備州住正広」銘の太刀について、説明書は、磨上げながら「地刃の出来が最も優れ、同工の特色がよく示されている」[[c:13]]と記す。正広は備後国三原の刀工で、正家と並び、鎌倉時代末期より南北朝期の作を総称する古三原を代表する存在である。「正広は古三原正家の子と伝えられている」[[c:3]]が、一説には門人ともいう。しかし説明は繰り返し年代を逆転させ、「作刀上からは正家よりも正広の方が古調である」[[c:4]]とし、在銘作も正広の方が多く現存するという。銘鑑では「備後に同名を六人挙げ」[[c:14]]、年紀は貞治三年(一三六四)に始まって至徳・嘉慶・応永に及ぶが、現存する年紀作は稀有で、僅かに至徳及び応永等が知られるのみであり、「応永は二代とみられている」。指定の上でも同名は一括して扱われ、年紀作がその定点をなす。
作風は備後の地鉄にあらわれた大和気質である。同国には東寺や蓮華王院など畿内中央の社寺の荘園が多く、大和との交流が頻繁であったとみられる。説明の定型句は、大和本国との分かれ目を一文で示す。「大和本国のものに比べては、地刃の沸が弱いのが通例で、鍛えが杢立ち、白け映りが目立ち、刃文は匂口が締まりごころの直刃で、帽子も穏やかに丸く返る」[[c:5]]。白け映りは現存作の半ば近くに立ち、帽子は焼詰めとならず小丸に穏やかに返って掃きかけ、鍛えは流れて肌立ちながら柾には徹しない。
鍛えは板目に杢・流れ肌を交えて処々肌立ち、地沸が微塵につき、地景・地斑が入る。刃文は中直刃乃至直刃調に小互の目・小乱れを交え、小足・葉がよく入り、刃縁は細かにほつれ、金筋・砂流しが働き、匂口は締まりごころ乃至沈みごころに小沸が厚くつく。作域は二様である。在銘の太刀は磨上が多いが生ぶ茎も存し、銘は細鏨で大振りに切り、初代は必ず「備州住」と切って「備後国住」とは切らない。稀に「正広作」の三字銘・二字銘があり、三字銘の太刀は最も古調で、一口は室町時代の押形集『往昔抄』に茎が載せられ、古三原の代表的なものと記される。他方は三原正広に極められた大磨上無銘の刀で、金象嵌銘で定まるものが数口あり、南北朝姿のものは身幅広く大鋒で、「もとは三尺に近い太刀であった」[[c:6]]とみられる一口もある。
一作風の内にも別趣の類が立つ。至徳元年(一三八四)紀の長銘太刀は長寸で、総体によく沸づき、上半に湯走りが強くかかって二重・三重刃風となり、棟焼きもかかって、「同作中にあって地刃の沸の強い作風を示している」[[c:7]]と記され、後年の説明は南北朝末期の三字銘太刀にも同趣の湯走り・二重刃を見出して両者の類似を興味深いとする。応永年紀の作は二代と読まれ、隣国の気質へ寄る。応永六年(一三九九)紀の太刀は「一見山城国来派の作に見紛う作風」で、やや先反りのつくところのみが時代を語る。応永二十二年(一四一五)紀の「備後国住正広」銘の刀は備中青江に寄り、直刃に逆がかる乱れを交え、地には乱れ映りが立って地斑が入り、「帽子は返りを滝落し風に深く焼下げる所謂三原帽子となっている」。同じ頃の寸延短刀は「一見同国の法華兼安あたりをおもわせる出来」[[c:15]]と記される。青江との近さは古い指摘で、室町期の『新刊秘伝抄』は早くも「面ぶり備中太刀に似たり」[[c:8]]と述べている。
同派のいま一人の大工正家との分かれ目は、刃中に引かれる。本間順治の談に「正家の刃文は殆ど整然たる直刃であるが、正広には多少乱ごころのもの、刃中の働きが多いものが多く」[[c:9]]とあり、帽子も正家の如く丸く尋常とは限らず、乱ごころ・沸崩れごころのものもある。姿でも「正家に大鋒の作品が多いのに対し、正広には比較的鋒の尋常な作が多く見受けられる」[[c:10]]。一派の流れは室町時代末期にまで及び、極め物の側の返りの深い帽子は、金象嵌銘の刀として重要文化財に指定される名物大三原に拠り所をもつ。説明書は「名物大三原の如く目立って返りが深いものを見る」[[c:16]]とこれを引く。
藤代の極めで上々作。公の指定記録に三十七口を数え、重要文化財一口(名物大三原)、特別重要刀剣三口、重要刀剣二十五口、重要美術品八口、うち在銘二十六口・無銘七口で、ほかに金象嵌銘の四口がある。伝来の録された七口には、近衛文麿公旧蔵で現在は京都の陽明文庫に伝わる「備後住正」銘の重要美術品太刀や、浅野紀伊守を経た一口がある。重要文化財は永く公の財として伝えられ、所在の知られる所蔵には東京国立博物館・塚本美術館・陽明文庫があり、残りは私蔵にある。蒐集家が現実に出会いうるのは特別重要・重要の二十八口であるが、市に現れることは多くない。細鏨大振りの長銘を負う在銘太刀は一派の編年の拠り所そのものであり、特別重要刀剣の説明書が作品のみならず「屈託のない穏やかな銘字も魅力である」[[c:12]]と結ぶ通りである。
正廣の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
大和伝 · 備後
時期区分: 古三原· 1288–1393
現在12点販売中
備後国三原派は鎌倉時代末期に興り、室町時代末期に至るまで連綿と作刀を続けたが、その一派のうち鎌倉末期より南北朝期にかけてのものを古三原と汎称し、正家・正広を双璧として、ほかに正信・親次らの工が知られる。同派の繁栄した三原の地には、東寺・蓮華王院をはじめとする大和中央の大社寺の荘園が多く置かれ、畿内中央との交流が頻繁に行われていた。それゆえ三原派の作風には大和気質が色濃く窺われ、初期の工はこの大和の影響を受けて南北朝の動乱期に一派の基礎を築いた。一方で隣国備中の青江風を示した出来も見られ、地理的な交わりのなかから独自の作域を養った点に、この区分の成り立ちがある。 この区分の作は、大和伝を母胎としながらも清雅かつ精良な初期の持ち味を備えている。鍛えは板目に杢目や流れ肌が交じって柾がかり、総体に肌立ちごころとなり、地沸が微塵によくつき、地景が細かに入って、淡く白け映りが立つ。刃文は中直刃を基調に小互の目や小乱れを交え、小足・葉がよく入り、刃縁には細かなほつれ・喰違い刃を交えて、洗練された直刃に変化を見せる。匂口は締まりごころに小沸がよくつき、金筋・砂流しがかかり、帽子は直ぐ調に焼詰め風あるいは掃きかけとなって穏やかに返るのが常である。大和本国のものに比して地刃の沸がやや弱く、白けごころを帯びる点も見どころとなる。後代の末三原が次第に作域を狭め質を落としていくのに対し、古三原は地刃の働きが豊かで、匂口の冴えと地鉄の精良さにおいて一段と清雅・精良であり、ここに両区分の差がはっきりとあらわれる。 鑑定にあたっては、まず大和奈良の諸派との別が要点となる。鎬の高い造込みや直刃調の作風は手白沢や保昌などと紛れやすいが、地鉄に杢が一際目立ち、白け映りが立ち、匂口が締まって沈みごころとなる点に三原物の見どころが示される。あわせて末三原との見極めも肝要で、初期の清雅な地刃と後代のやや緩んだ出来との差を読むことになる。主要工は正家と正広で、正家には豪壮な大鋒の作例が多く、正広には中鋒の尋常なものが多いと伝える。同派は大和気質ゆえに在銘の遺例が乏しく、無銘の大磨上げを正家・正広と極めたものが多く伝わり、本阿弥光徳の金象嵌銘を施した一口など、後世の鑑識を経て価値を保ってきた作が知られる。伝来の面でも靖國神社の蔵刀や伊達家旧蔵の作、近衛家を経て陽明文庫に伝わったものなどがあり、古三原が長く重んじられてきた一派であることを物語っている。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。
Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 鎌倉時代末期から南北朝時代前期の備後国では、正家と正広の活躍が目覚ましい。左衛門尉正広は右衛門尉正家の子と伝える。一門の鍛冶は応永頃の二代目を経て後も栄え、文明頃に三原に定住したことから、これらの祖に当たる正家や正廣を古三原と呼び分けている。いずれも比較的寸法が長く、多くが磨り上げられて伝えられたが、切れ味に優れて戦国武将の信頼を集めた。


Ko-Mihara (Bingo) · 備後 · 1362-1389頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位11%
現在1点販売中
昭和四十八年、第二回特別重要刀剣に指定された「備州住正広」銘の太刀について、説明書は、磨上げながら「地刃の出来が最も優れ、同工の特色がよく示されている」[[c:13]]と記す。正広は備後国三原の刀工で、正家と並び、鎌倉時代末期より南北朝期の作を総称する古三原を代表する存在である。「正広は古三原正家の子と伝えられている」[[c:3]]が、一説には門人ともいう。しかし説明は繰り返し年代を逆転させ、「作刀上からは正家よりも正広の方が古調である」[[c:4]]とし、在銘作も正広の方が多く現存するという。銘鑑では「備後に同名を六人挙げ」[[c:14]]、年紀は貞治三年(一三六四)に始まって至徳・嘉慶・応永に及ぶが、現存する年紀作は稀有で、僅かに至徳及び応永等が知られるのみであり、「応永は二代とみられている」。指定の上でも同名は一括して扱われ、年紀作がその定点をなす。
作風は備後の地鉄にあらわれた大和気質である。同国には東寺や蓮華王院など畿内中央の社寺の荘園が多く、大和との交流が頻繁であったとみられる。説明の定型句は、大和本国との分かれ目を一文で示す。「大和本国のものに比べては、地刃の沸が弱いのが通例で、鍛えが杢立ち、白け映りが目立ち、刃文は匂口が締まりごころの直刃で、帽子も穏やかに丸く返る」[[c:5]]。白け映りは現存作の半ば近くに立ち、帽子は焼詰めとならず小丸に穏やかに返って掃きかけ、鍛えは流れて肌立ちながら柾には徹しない。
鍛えは板目に杢・流れ肌を交えて処々肌立ち、地沸が微塵につき、地景・地斑が入る。刃文は中直刃乃至直刃調に小互の目・小乱れを交え、小足・葉がよく入り、刃縁は細かにほつれ、金筋・砂流しが働き、匂口は締まりごころ乃至沈みごころに小沸が厚くつく。作域は二様である。在銘の太刀は磨上が多いが生ぶ茎も存し、銘は細鏨で大振りに切り、初代は必ず「備州住」と切って「備後国住」とは切らない。稀に「正広作」の三字銘・二字銘があり、三字銘の太刀は最も古調で、一口は室町時代の押形集『往昔抄』に茎が載せられ、古三原の代表的なものと記される。他方は三原正広に極められた大磨上無銘の刀で、金象嵌銘で定まるものが数口あり、南北朝姿のものは身幅広く大鋒で、「もとは三尺に近い太刀であった」[[c:6]]とみられる一口もある。
一作風の内にも別趣の類が立つ。至徳元年(一三八四)紀の長銘太刀は長寸で、総体によく沸づき、上半に湯走りが強くかかって二重・三重刃風となり、棟焼きもかかって、「同作中にあって地刃の沸の強い作風を示している」[[c:7]]と記され、後年の説明は南北朝末期の三字銘太刀にも同趣の湯走り・二重刃を見出して両者の類似を興味深いとする。応永年紀の作は二代と読まれ、隣国の気質へ寄る。応永六年(一三九九)紀の太刀は「一見山城国来派の作に見紛う作風」で、やや先反りのつくところのみが時代を語る。応永二十二年(一四一五)紀の「備後国住正広」銘の刀は備中青江に寄り、直刃に逆がかる乱れを交え、地には乱れ映りが立って地斑が入り、「帽子は返りを滝落し風に深く焼下げる所謂三原帽子となっている」。同じ頃の寸延短刀は「一見同国の法華兼安あたりをおもわせる出来」[[c:15]]と記される。青江との近さは古い指摘で、室町期の『新刊秘伝抄』は早くも「面ぶり備中太刀に似たり」[[c:8]]と述べている。
同派のいま一人の大工正家との分かれ目は、刃中に引かれる。本間順治の談に「正家の刃文は殆ど整然たる直刃であるが、正広には多少乱ごころのもの、刃中の働きが多いものが多く」[[c:9]]とあり、帽子も正家の如く丸く尋常とは限らず、乱ごころ・沸崩れごころのものもある。姿でも「正家に大鋒の作品が多いのに対し、正広には比較的鋒の尋常な作が多く見受けられる」[[c:10]]。一派の流れは室町時代末期にまで及び、極め物の側の返りの深い帽子は、金象嵌銘の刀として重要文化財に指定される名物大三原に拠り所をもつ。説明書は「名物大三原の如く目立って返りが深いものを見る」[[c:16]]とこれを引く。
藤代の極めで上々作。公の指定記録に三十七口を数え、重要文化財一口(名物大三原)、特別重要刀剣三口、重要刀剣二十五口、重要美術品八口、うち在銘二十六口・無銘七口で、ほかに金象嵌銘の四口がある。伝来の録された七口には、近衛文麿公旧蔵で現在は京都の陽明文庫に伝わる「備後住正」銘の重要美術品太刀や、浅野紀伊守を経た一口がある。重要文化財は永く公の財として伝えられ、所在の知られる所蔵には東京国立博物館・塚本美術館・陽明文庫があり、残りは私蔵にある。蒐集家が現実に出会いうるのは特別重要・重要の二十八口であるが、市に現れることは多くない。細鏨大振りの長銘を負う在銘太刀は一派の編年の拠り所そのものであり、特別重要刀剣の説明書が作品のみならず「屈託のない穏やかな銘字も魅力である」[[c:12]]と結ぶ通りである。
正廣の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
大和伝 · 備後
時期区分: 古三原· 1288–1393
現在12点販売中
備後国三原派は鎌倉時代末期に興り、室町時代末期に至るまで連綿と作刀を続けたが、その一派のうち鎌倉末期より南北朝期にかけてのものを古三原と汎称し、正家・正広を双璧として、ほかに正信・親次らの工が知られる。同派の繁栄した三原の地には、東寺・蓮華王院をはじめとする大和中央の大社寺の荘園が多く置かれ、畿内中央との交流が頻繁に行われていた。それゆえ三原派の作風には大和気質が色濃く窺われ、初期の工はこの大和の影響を受けて南北朝の動乱期に一派の基礎を築いた。一方で隣国備中の青江風を示した出来も見られ、地理的な交わりのなかから独自の作域を養った点に、この区分の成り立ちがある。 この区分の作は、大和伝を母胎としながらも清雅かつ精良な初期の持ち味を備えている。鍛えは板目に杢目や流れ肌が交じって柾がかり、総体に肌立ちごころとなり、地沸が微塵によくつき、地景が細かに入って、淡く白け映りが立つ。刃文は中直刃を基調に小互の目や小乱れを交え、小足・葉がよく入り、刃縁には細かなほつれ・喰違い刃を交えて、洗練された直刃に変化を見せる。匂口は締まりごころに小沸がよくつき、金筋・砂流しがかかり、帽子は直ぐ調に焼詰め風あるいは掃きかけとなって穏やかに返るのが常である。大和本国のものに比して地刃の沸がやや弱く、白けごころを帯びる点も見どころとなる。後代の末三原が次第に作域を狭め質を落としていくのに対し、古三原は地刃の働きが豊かで、匂口の冴えと地鉄の精良さにおいて一段と清雅・精良であり、ここに両区分の差がはっきりとあらわれる。 鑑定にあたっては、まず大和奈良の諸派との別が要点となる。鎬の高い造込みや直刃調の作風は手白沢や保昌などと紛れやすいが、地鉄に杢が一際目立ち、白け映りが立ち、匂口が締まって沈みごころとなる点に三原物の見どころが示される。あわせて末三原との見極めも肝要で、初期の清雅な地刃と後代のやや緩んだ出来との差を読むことになる。主要工は正家と正広で、正家には豪壮な大鋒の作例が多く、正広には中鋒の尋常なものが多いと伝える。同派は大和気質ゆえに在銘の遺例が乏しく、無銘の大磨上げを正家・正広と極めたものが多く伝わり、本阿弥光徳の金象嵌銘を施した一口など、後世の鑑識を経て価値を保ってきた作が知られる。伝来の面でも靖國神社の蔵刀や伊達家旧蔵の作、近衛家を経て陽明文庫に伝わったものなどがあり、古三原が長く重んじられてきた一派であることを物語っている。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。