昭和四十八年、第二回特別重要刀剣に指定された「備州住正広」銘の太刀について、説明書は、磨上げながら「地刃の出来が最も優れ、同工の特色がよく示されている」と記す。正広は備後国三原の刀工で、正家と並び、鎌倉時代末期より南北朝期の作を総称する古三原を代表する存在である。「正広は古三原正家の子と伝えられている」が、一説には門人ともいう。しかし説明は繰り返し年代を逆転させ、「作刀上からは正家よりも正広の方が古調である」とし、在銘作も正広の方が多く現存するという。銘鑑では「備後に同名を六人挙げ」、年紀は貞治三年(一三六四)に始まって至徳・嘉慶・応永に及ぶが、現存する年紀作は稀有で、僅かに至徳及び応永等が知られるのみであり、「応永は二代とみられている」。指定の上でも同名は一括して扱われ、年紀作がその定点をなす。
作風は備後の地鉄にあらわれた大和気質である。同国には東寺や蓮華王院など畿内中央の社寺の荘園が多く、大和との交流が頻繁であったとみられる。説明の定型句は、大和本国との分かれ目を一文で示す。「大和本国のものに比べては、地刃の沸が弱いのが通例で、鍛えが杢立ち、白け映りが目立ち、刃文は匂口が締まりごころの直刃で、帽子も穏やかに丸く返る」。白け映りは現存作の半ば近くに立ち、帽子は焼詰めとならず小丸に穏やかに返って掃きかけ、鍛えは流れて肌立ちながら柾には徹しない。
鍛えは板目に杢・流れ肌を交えて処々肌立ち、地沸が微塵につき、地景・地斑が入る。刃文は中直刃乃至直刃調に小互の目・小乱れを交え、小足・葉がよく入り、刃縁は細かにほつれ、金筋・砂流しが働き、匂口は締まりごころ乃至沈みごころに小沸が厚くつく。作域は二様である。在銘の太刀は磨上が多いが生ぶ茎も存し、銘は細鏨で大振りに切り、初代は必ず「備州住」と切って「備後国住」とは切らない。稀に「正広作」の三字銘・二字銘があり、三字銘の太刀は最も古調で、一口は室町時代の押形集『往昔抄』に茎が載せられ、古三原の代表的なものと記される。他方は三原正広に極められた大磨上無銘の刀で、金象嵌銘で定まるものが数口あり、南北朝姿のものは身幅広く大鋒で、「もとは三尺に近い太刀であった」とみられる一口もある。
一作風の内にも別趣の類が立つ。至徳元年(一三八四)紀の長銘太刀は長寸で、総体によく沸づき、上半に湯走りが強くかかって二重・三重刃風となり、棟焼きもかかって、「同作中にあって地刃の沸の強い作風を示している」と記され、後年の説明は南北朝末期の三字銘太刀にも同趣の湯走り・二重刃を見出して両者の類似を興味深いとする。応永年紀の作は二代と読まれ、隣国の気質へ寄る。応永六年(一三九九)紀の太刀は「一見山城国来派の作に見紛う作風」で、やや先反りのつくところのみが時代を語る。応永二十二年(一四一五)紀の「備後国住正広」銘の刀は備中青江に寄り、直刃に逆がかる乱れを交え、地には乱れ映りが立って地斑が入り、「帽子は返りを滝落し風に深く焼下げる所謂三原帽子となっている」。同じ頃の寸延短刀は「一見同国の法華兼安あたりをおもわせる出来」と記される。青江との近さは古い指摘で、室町期の『新刊秘伝抄』は早くも「面ぶり備中太刀に似たり」と述べている。
同派のいま一人の大工正家との分かれ目は、刃中に引かれる。本間順治の談に「正家の刃文は殆ど整然たる直刃であるが、正広には多少乱ごころのもの、刃中の働きが多いものが多く」とあり、帽子も正家の如く丸く尋常とは限らず、乱ごころ・沸崩れごころのものもある。姿でも「正家に大鋒の作品が多いのに対し、正広には比較的鋒の尋常な作が多く見受けられる」。一派の流れは室町時代末期にまで及び、極め物の側の返りの深い帽子は、金象嵌銘の刀として重要文化財に指定される名物大三原に拠り所をもつ。説明書は「名物大三原の如く目立って返りが深いものを見る」とこれを引く。
藤代の極めで上々作。公の指定記録に三十七口を数え、重要文化財一口(名物大三原)、特別重要刀剣三口、重要刀剣二十五口、重要美術品八口、うち在銘二十六口・無銘七口で、ほかに金象嵌銘の四口がある。伝来の録された七口には、近衛文麿公旧蔵で現在は京都の陽明文庫に伝わる「備後住正」銘の重要美術品太刀や、浅野紀伊守を経た一口がある。重要文化財は永く公の財として伝えられ、所在の知られる所蔵には東京国立博物館・塚本美術館・陽明文庫があり、残りは私蔵にある。蒐集家が現実に出会いうるのは特別重要・重要の二十八口であるが、市に現れることは多くない。細鏨大振りの長銘を負う在銘太刀は一派の編年の拠り所そのものであり、特別重要刀剣の説明書が作品のみならず「屈託のない穏やかな銘字も魅力である」と結ぶ通りである。