説明

重要刀剣 短刀 銘 正広(古三原) 日本美術刀剣保存協会(NBTHK) 重要刀剣指定品 【解説】 概要 本作は、備後国(現在の広島県)の名門「古三原(こみはら)」一派の工、正広による銘が切られた短刀です。近年の研究によれば、三原派は鎌倉時代後期(13世紀末〜14世紀初頭)に国分寺助国によって興されたと伝えられています。同派の中でも、三原正家とその子である正広は、最も高名な絵師として知られています。 日本刀の用語において、三原派はその製作年代により三つの区分に分けられます。南北朝時代以前のものは「古三原」、室町時代初期から中期にかけてのものは単に「三原」、そして室町時代末期のものは「末三原(すえみはら)」と呼ばれます。日本美術刀剣保存協会の鑑定によれば、本作は鎌倉時代末期から南北朝時代(14世紀初頭〜後期)にかけて製作されたものであり、約600年以上の歴史を刻んでいます。 古来、備後国の多くの土地は、大和(現在の奈良県)の有力寺院の荘園となっていました。これらの所領を警護するために武士団が組織され、それに伴い大和伝の技術を持つ刀工たちが備後へと移住し、武士たちのために作刀を行いました。 このような歴史的背景から、三原派の作風には五ヶ伝の一つである「大和伝」の特色が色濃く反映されています。鎌倉末期から室町時代にかけて、武器の需要が高まったこともあり、三原派を含む備後の刀工たちは数多くの名刀を世に送り出しました。 また、備後は中国山地に近く、日本刀の主原料である良質な砂鉄が豊富に産出される地でもありました。この地質的な利点が、三原派による精鍛で質の高い作刀を支えたと考えられます。 大和伝の伝統を汲む刀剣は、美しい地鉄(じがね)と、気品ある直刃(すぐは)の焼出しで知られています。本作においても、大和伝の真髄を示す見事な地鉄に、静謐な直刃を焼いており、同派の特色が顕著に表れた傑作といえます。 短刀とは 一般に刃渡り30cm(約1尺)以下のものを「短刀」と呼び、中には鍔(つば)を付けない「合口(あいくち)」仕立てのものも多く見られます。携帯性に優れ、接近戦において重宝されました。鎌倉・室町時代には、長柄武器や太刀を主兵装とする騎馬武士の補助兵器として用いられ、鎧の隙間を突く際などに使用されました。 また、その携行方法や用途により「懐刀(ふところがな)」や「腰刀(こしがな)」とも呼ばれます。古来より短刀は魔除けの力を持つと信じられており、日本の伝統的な婚礼において、花嫁が実家から贈られる守り刀としての役割も担っています。 鑑定 本作は、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により「重要刀剣」に指定されています。この鑑定書は、保存状態が極めて良好であり、かつ美術品として格段に高い価値を持つ真作の日本刀にのみ与えられるものです。「重要刀剣」は「特別保存刀剣」の上位ランクに位置し、まず特別保存の指定を受けた上で、さらに厳しい審査を経る必要があります。重要刀剣に指定されることは稀であり、愛刀家にとって垂涎の的となっています。 ※本作には数箇所「鍛え傷」が見受けられます。詳細なコンディションについては、お気軽にお問い合わせください。

Antique Japanese Sword Tanto Signed by Masahiro NBTHK JUYO TOKEN Certificate

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短刀

$23,524

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仕様

長さ

25 cm

作者について

Ko-Mihara Masahiro正廣

1 重要文化財8 重要美術品3 特別重要刀剣23 重要刀剣

昭和四十八年、第二回特別重要刀剣に指定された「備州住正広」銘の太刀について、説明書は、磨上げながら「地刃の出来が最も優れ、同工の特色がよく示されている」と記す。正広は備後国三原の刀工で、正家と並び、鎌倉時代末期より南北朝期の作を総称する古三原を代表する存在である。「正広は古三原正家の子と伝えられている」が、一説には門人ともいう。しかし説明は繰り返し年代を逆転させ、「作刀上からは正家よりも正広の方が古調である」とし、在銘作も正広の方が多く現存するという。銘鑑では「備後に同名を六人挙げ」、年紀は貞治三年(一三六四)に始まって至徳・嘉慶・応永に及ぶが、現存する年紀作は稀有で、僅かに至徳及び応永等が知られるのみであり、「応永は二代とみられている」。指定の上でも同名は一括して扱われ、年紀作がその定点をなす。 作風は備後の地鉄にあらわれた大和気質である。同国には東寺や蓮華王院など畿内中央の社寺の荘園が多く、大和との交流が頻繁であったとみられる。説明の定型句は、大和本国との分かれ目を一文で示す。「大和本国のものに比べては、地刃の沸が弱いのが通例で、鍛えが杢立ち、白け映りが目立ち、刃文は匂口が締まりごころの直刃で、帽子も穏やかに丸く返る」。白け映りは現存作の半ば近くに立ち、帽子は焼詰めとならず小丸に穏やかに返って掃きかけ、鍛えは流れて肌立ちながら柾には徹しない。 鍛えは板目に杢・流れ肌を交えて処々肌立ち、地沸が微塵につき、地景・地斑が入る。刃文は中直刃乃至直刃調に小互の目・小乱れを交え、小足・葉がよく入り、刃縁は細かにほつれ、金筋・砂流しが働き、匂口は締まりごころ乃至沈みごころに小沸が厚くつく。作域は二様である。在銘の太刀は磨上が多いが生ぶ茎も存し、銘は細鏨で大振りに切り、初代は必ず「備州住」と切って「備後国住」とは切らない。稀に「正広作」の三字銘・二字銘があり、三字銘の太刀は最も古調で、一口は室町時代の押形集『往昔抄』に茎が載せられ、古三原の代表的なものと記される。他方は三原正広に極められた大磨上無銘の刀で、金象嵌銘で定まるものが数口あり、南北朝姿のものは身幅広く大鋒で、「もとは三尺に近い太刀であった」とみられる一口もある。 一作風の内にも別趣の類が立つ。至徳元年(一三八四)紀の長銘太刀は長寸で、総体によく沸づき、上半に湯走りが強くかかって二重・三重刃風となり、棟焼きもかかって、「同作中にあって地刃の沸の強い作風を示している」と記され、後年の説明は南北朝末期の三字銘太刀にも同趣の湯走り・二重刃を見出して両者の類似を興味深いとする。応永年紀の作は二代と読まれ、隣国の気質へ寄る。応永六年(一三九九)紀の太刀は「一見山城国来派の作に見紛う作風」で、やや先反りのつくところのみが時代を語る。応永二十二年(一四一五)紀の「備後国住正広」銘の刀は備中青江に寄り、直刃に逆がかる乱れを交え、地には乱れ映りが立って地斑が入り、「帽子は返りを滝落し風に深く焼下げる所謂三原帽子となっている」。同じ頃の寸延短刀は「一見同国の法華兼安あたりをおもわせる出来」と記される。青江との近さは古い指摘で、室町期の『新刊秘伝抄』は早くも「面ぶり備中太刀に似たり」と述べている。 同派のいま一人の大工正家との分かれ目は、刃中に引かれる。本間順治の談に「正家の刃文は殆ど整然たる直刃であるが、正広には多少乱ごころのもの、刃中の働きが多いものが多く」とあり、帽子も正家の如く丸く尋常とは限らず、乱ごころ・沸崩れごころのものもある。姿でも「正家に大鋒の作品が多いのに対し、正広には比較的鋒の尋常な作が多く見受けられる」。一派の流れは室町時代末期にまで及び、極め物の側の返りの深い帽子は、金象嵌銘の刀として重要文化財に指定される名物大三原に拠り所をもつ。説明書は「名物大三原の如く目立って返りが深いものを見る」とこれを引く。 藤代の極めで上々作。公の指定記録に三十七口を数え、重要文化財一口(名物大三原)、特別重要刀剣三口、重要刀剣二十五口、重要美術品八口、うち在銘二十六口・無銘七口で、ほかに金象嵌銘の四口がある。伝来の録された七口には、近衛文麿公旧蔵で現在は京都の陽明文庫に伝わる「備後住正」銘の重要美術品太刀や、浅野紀伊守を経た一口がある。重要文化財は永く公の財として伝えられ、所在の知られる所蔵には東京国立博物館・塚本美術館・陽明文庫があり、残りは私蔵にある。蒐集家が現実に出会いうるのは特別重要・重要の二十八口であるが、市に現れることは多くない。細鏨大振りの長銘を負う在銘太刀は一派の編年の拠り所そのものであり、特別重要刀剣の説明書が作品のみならず「屈託のない穏やかな銘字も魅力である」と結ぶ通りである。

刀剣商

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