国内の戦乱と海外への貿易が、室町の備前を国内随一の刀剣産地にした。応仁の乱以後は戦国の需要が一世紀続き、遣明船は数万振の単位で刀を運んでいる。
宗光は戦国期の備前長船の刀工。二歳年上の兄勝光と共に備前、播磨、美作の守護大名赤松政則に仕えて篤実な働きが認められ、兄勝光は右京亮、宗光は左京進を任官している。抜群に優れた作刀技術の持ち主で、直刃出来の刀や脇差、短刀に見るべき作が多い。


Osafune (Sue-Bizen), Bizen · 備前 · 1469-1509頃
藤代 上々作 · 刀剣大鑑 上位17%
現在2点販売中
長享二年八月紀の短刀に、長船宗光は重ね厚く内反り強く、ふくら枯れごころの平造を造り、精良な小板目に地沸つき地景入る地に、明るく冴えた中直刃を焼いて金筋をかける。説明書はこれを「同作中の傑作と称して過言でない」[[c:1]]とする。作者は左京進を名乗り、六郎左衛門尉祐光の次男、右京亮勝光の弟である。説明書は本工を、末備前と総称される室町末期の長船鍛冶を代表する刀工の一人に数える。一派が焼の高い華やかな刃で知られるのに対し、宗光は直刃で知られる。
説明書は本工の個性を明言する。末備前特有の複式互の目の作例もあるが、それ以上に「直刃の上手として定評がある」[[c:2]]。通常の作は室町末の片手打の打刀で、寸さほど延びず、先反りつき、片手の抜打のために茎短い。その上に明るい直刃を、あるいは細く、あるいは中直刃に、あるいは広直刃に焼く。永正二年(一五〇五)紀の刀は左京進宗光の典型的作風を示すとされ、広直刃調に足・葉がよく働き、地刃共に明るく冴える。その銘下には九字が切られ、さらに一字「勝」があり、説明書はこれを勝光との合作を示すものか、勝利の意かにわかに決し難いとする。勝光と並べれば違いは刃文の規模にある。説明書は本工の作を、勝光などより「刃文が小模様で宗光によくみる作風を示している」[[c:3]]とする。
地鉄はよくつんだ小板目に地沸細かにつき地景入り、乱れ映りが立ち、控えめな作には棒映りとなって現れる。文明十一年(一四七九)紀の刀には源加賀守宗吉の所持銘もある。説明書はこの刀について、地がねがよく整い、棒映りが立ち、細直刃に匂口締りごころの、一見やや古調ある趣を記す。本間による御物台帳に所載の文明十三年紀の脇指については、末備前物としては「映気が強く、一寸時代を上げて見たくなる出来である」[[c:4]]と記す。直刃の作の帽子は直ぐに丸く返る。表裏には倶利迦羅・梵字・素剣、八幡大菩薩や摩利支尊天の神号など当代の宗教的彫物を施し、説明書はこれを本工のみならず時代と系統の特色とする。
本工は華やかな手も焼き、それは永正年間の身幅広い脇指に最もよく見える。小板目よくつみ地沸微塵に厚くつき乱れ映りの立つ地に、焼幅広く、腰の開いた互の目に丁子・複式互の目風の刃を交える。足・葉入り、小さな飛焼を交え、砂流し・金筋入り、匂口明るく冴える。帽子は乱れ込んで長く返る。説明書はこれをこの期の長船鍛冶の典型的な作風とする。また互の目の中に目立つ丁子刃は末備前のうち勝光に最も多く、次いで宗光に多い見どころであるとし、「互の目の中に丁子刃が目立つ」[[c:5]]と記す。作刀期間が長く、甥の二郎左衛門尉勝光との合作銘も残るところから、説明書は宗光の名が二代に及んだとみて、永正の作を二代に当てる。ただし初・二代の確たる時代区分は難しいとする。
勝光・宗光の合作は世上「宗勝」と称して珍重されたと説明書は記し、兄勝光との合作銘は勝光の名のもとに収められる。本工自身の記録に残る合作は前後の世代とのものである。甥二郎左衛門尉勝光と合作した永正五年紀の脇指について、説明書は年紀を添えた合作銘が「研究をする上で資料的にも大変貴重である」[[c:6]]とする。祐光次男と銘し天照大神宮の神号を彫った文明九年紀の短刀は、「恐らく父子合作の意であろう」[[c:7]]と読まれる。文明十三年紀の脇指には長船左京進宗光と銘し、説明書はこれを長船が既に地名から姓に変っていたことを示すものとする。説明書はまた、長享二年に将軍足利義尚の命に応じ兄勝光と共に近江の陣中に上って作刀し、備前・備中の各地に駐槌し、赤松政則の配下として合戦に加わったとの伝えを記す。
宗光の作は十二口が記録に残り、重要刀剣十口、本間による御物台帳に所載の二口である。国宝・重要文化財・重要美術品・特別重要刀剣はなく、藤代は上々作とする。永正六年紀の刀に附された江戸中期の変り塗半太刀拵は伊達家の伝来で、先に重要刀装に指定され、のち刀と合わせて指定された。個人の蒐集家にとって現実に出会いうるのは重要刀剣の作であり、なかでも年紀ある作は、長い作刀期間と二代問題を示すものとして殊に重んじられる。在銘年紀の宗光は末備前の名としては比較的数多く残るが、年紀の明らかな健全な一口が世に出るのは時折のことであり、銘の確かな合作はさらに稀である。
宗光の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
備前伝 · 備前
時期区分: 末備前· 1441–1596
現在183点販売中
嘉吉から文禄に及ぶ室町時代後期、長船派の最末期を画するのが末備前である。応永備前が古作への復古を志して優美な太刀姿と丁子刃を甦らせたのに続き、この期の長船鍛冶は戦国の世の旺盛な武器需要に応じて作刀の規模を一段と広げ、長船の名のもとに膨大な数の刀剣を世に送り出した。説示にあらわれる主要工は、勝光、宗光、貞光、治光、忠光、清光、春光、祐定の一群である。勝光は宗光・忠光と並ぶ巧者で、右京亮・次郎左衛門尉・修理亮など様々な俗名を冠する同名工を擁し、貞光や子の治光との合作銘も伝わる。祐定にあっては与三左衛門尉・源兵衛尉・彦兵衛尉を冠する者がとりわけ技術が高く、与三左衛門尉祐定は名品の数多くその筆頭に挙げられ、彦兵衛尉はその父と伝えて慶長まで数代を数える。清光は五郎左衛門尉と孫右衛門尉が筆頭格、春光は文明から文禄に及ぶ長期に同名数工があって十郎左衛門が最も知られる。この期には播磨・備前・美作の守護赤松政則が宗光・勝光の一党を陣中に招いて鍛刀の技を学び為打を遺したことも説示に見え、注文打と数打物とが併存した末期の様相をよく伝えている。 体配はまず時代を映す。身幅広く寸のつまり、重ね一段と厚く、踏張りがあって先反りつき、中鋒、茎は片手打に適した短いものとなる、室町後期特有の打刀姿である。鍛えは小板目肌がよくつみ、地沸が微塵につき、地景が細かに入って、淡くあるいは鮮明に乱れ映りが立つ。刃文の中心をなすのは末備前固有の腰の開いた互の目で、焼頭が割れて複式に乱れる複式互の目を基調に、尖り刃・尖りごころの互の目・小互の目を交え、足・葉頻りに入り、匂勝ちに小沸がつき、金筋・砂流しがかかり、処々に小さな飛焼を交える。さらに飛焼・棟焼が頻りにかかって皆焼風となる作もあり、帽子は乱れ込んで先小丸に長く返る。これは光忠の蛙子丁子、長光の丸い頭の丁子、景光の片落ち互の目といった古長船・相伝備前の整然たる丁子主調とは趣を異にし、応永備前の腰開き互の目をさらに崩して量感と変化に向かわせた戦国期の姿である。同時に勝光のように乱れの中へ丁子を多く交えて一段と華やかに焼き、忠光や清光のように直刃の上手として定評を得る工もあり、作域は広い。 鑑定にあっては、まず乱れ映りで備前と読み、つまった寸と厚い重ね、先反り強き打刀姿で時代を末備前に定める。次に俗名と作風で工を分かつ。乱れの中に丁子を多く交えた華やかな出来は勝光、複式風の互の目に飛焼を交えてやや皆焼がかるは与三左衛門尉祐定、板目に杢を交えてやや肌立つ直刃は孫右衛門尉清光、直刃に佳作多きは彦兵衛尉祐定、というように看どころが工を指し示す。表裏に施された梵字・蓮台や棒樋連樋の刀身彫もまた末備前の特色をよく示し、長光景光以来の彫の伝統がこの期まで継承されたことを物語る。代表作には、勝光・貞光合作の明応八年紀の薙刀、勝光・治光父子合作の大永七年紀の短刀、与三左衛門尉二代の元亀元年紀の刀があり、合作銘や所持銘・添銘を伴う注文打は、末備前とそれを支えた三宅氏のごとき在地の氏族を知る上でも資料性が高い。 詳しく見る →
室町時代の備前
国内の戦乱と海外への貿易が、室町の備前を国内随一の刀剣産地にした。応仁の乱以後は戦国の需要が一世紀続き、遣明船は数万振の単位で刀を運んでいる。
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