Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 宗光は兄勝光と共に赤松政則に仕えた戦国期の備前最高の刀工の一人。有力武将赤松政則の刀槍を鍛えたのみならず、時に赤松軍勢として合戦に臨み、近江六角氏との戦いでは近江鈎の陣中に一族を挙げて参上し、足利義尚の御前打��を勤め、史書に足跡を残した稀有の刀工である。

Osafune (Sue-Bizen), Bizen · 備前 · 1469-1509頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位17%
現在2点販売中
長享二年八月、すなわち一四八八年に、長船左京進宗光は重ね厚くふくら枯れごころの平造短刀に銘を切り、小板目のよくつんだ地に地景入り地沸明るくつき、その上に中直刃を焼いて僅かに小足を交え、刃縁処々にほつれ、金筋かかり、匂口明るく冴える刃を仕立てた。説明書はこれを「同作中の傑作と称して過言でない」[[c:1]]とする。この一口が宗光という工をよく語る。本工は六郎左衛門尉祐光の次男、右京亮勝光の弟で、室町末期の長船鍛冶を総称する末備前を代表する名の一つであるが、その一派が焼の高い華やかな刃で知られたのに対し、本工はむしろその逆で知られた。説明書は本工を穏やかな線の名手と定め、一派の派手ではなくその静かな線にこそ、本工の手は看取される。
その個性を説明書は明言する。末備前特有の複式互の目に加え、宗光は「直刃の上手として定評がある」[[c:2]]とされる。本工の典型は室町末の片手打の打刀で、寸さほど延びず、先反りつき、片手の抜打のために茎短く詰まり、その上に明るい直刃を、あるいは細く、あるいは中直刃に、あるいは広直刃に焼く。永正二年すなわち一五〇五年紀の刀はその手を最も確かに示し、広直刃に小互の目を交え、足・葉がよく働き、小沸つき沸筋立ち、地刃共に明るく冴える。兄に並べれば、その違いは伝統ではなく規模と気質の差である。説明書は勝光と比して、本工は「刃文が小模様で宗光によくみる作風を示している」[[c:3]]とし、勝光が腰の開いた互の目を一段と華やかな丁子の出来へ押し進めたのに対する。
地鉄はよく錬れた小板目で、肌つみ精良に、地沸細かにつき地景入り、その上に乱れ映りが立ち、より古調の作には棒映りとなって現れる。このつんだ地に立つ映りが直刃に古い味を添えるのであり、文明十一年すなわち一四七九年紀の刀に、説明書は地がねのよく整い、棒映りの立ち、細直刃に匂口締りごころの一見やや古調ある趣を記す。表裏には末備前の作を画す宗教的彫物を施し、真の倶利迦羅、梵字、素剣、四鈷と蓮台、八幡大菩薩や摩利支尊天の神号を彫る。説明書はこれらを協力する彫物師の手とし、一工に限らず時代と系統の特色と読む。帽子は直刃の作には直ぐに小丸あるいは大丸に返り、刃文の賑やかな作には乱れ込んで長く返る。
宗光は静かな線のみに留まらず、説明書もそれを丁寧に断る。末備前特有の複式互の目の作例もあるとし、ただ直刃を高く評価する。その手は永正後半の身幅広い脇指に最もよく見え、小板目に地沸微塵に厚くつき乱れ映りの立つ地に、焼幅広く、腰の開いた互の目に丁子・袋丁子・尖り刃・複式互の目風の刃を交え、足・葉入り、処々小さな飛焼を交え、金筋・砂流しかかり、匂口明るく冴える。互の目の中に目立つ丁子刃を、説明書は末備前のうち勝光に最も多く、次いで宗光に多い見どころとし、「互の目の中に丁子刃が目立つ」[[c:4]]と記すなど、最も華やかな作にあってもなお、看所は本工を二人の兄弟のうち小模様の側に読む。本工の記録にはもう一筋、様式ではなく資料の筋がある。作刀期間が長く、兄とも甥の二郎左衛門尉勝光とも合作銘が残るところから、説明書は宗光の名が二代に及んだとみられるとし、永正の作は二代に属するとしつつ、初・二代の確たる時代区分は難しいとする。
現存作の多くは勝光系との合作で、古くから宗勝合作の名で珍重された。これら合作の刀・脇指は典型的な片手打で、地は地景・地沸の小板目、刃文は穏やかな互の目交じりの直刃のこともあれば一派の腰の開いた複式互の目のこともあり、倶利迦羅や神号を表裏に彫る。うち二口は長船を離れ、文明年間に備中児嶋に駐槌して焼かれ、銘にその地を記す。文明十八年すなわち一四八六年の合作刀の一口は、出来のよさもさることながら銘文の資料価値も高いとされる。説明書の伝えるところでは、両工は長享二年に将軍足利義尚の命に応じて近江の陣中に上り、備前・備中の各地に駐槌し、赤松政則の配下として合戦に加わった。本工は同じ末長船の与三左衛門尉祐定・五郎左衛門尉清光と並ぶ工で、なかでも直刃の技をもって際立ち、つんだ小板目に立つ明るい乱れ映りと、冴えて統御された直刃が、兄の華やかさに拠らずして本工を分かつ。
宗光は末備前の工のうちでも記録のよく残る側にあり、その指定の記録もそれを映す。勝光と合作し文明十八年に備中児嶋で焼いた刀は重要美術品で、標準的な参考文献に広く所載され、勝光・宗光合作の刀は重要文化財として伝わる。国宝も特別重要刀剣も持たないが、十二口が重要刀剣に合格し、本工の刀は御物として伝わる。永正六年紀の刀に附された変り塗半太刀拵は、丸に引き両竹雀紋を備えた一作で、仙台伊達家に伝来し、それ自体その出来によって指定された。所在の知られる伝来は数こそ少ないが品位は高く、御物、伊達家、戦前の所持者である福岡の首藤整に及ぶ。私の蔵家にとって現実に出会いうるのは、博物館や旧家の外に伝わる指定の作であり、なかでも年紀ある合作は末長船系図に光を当てるものとして殊に重んじられる。在銘年紀の宗光は末備前の名としては比較的数多く残るとはいえ、年紀の明らかな健全な一口が世に出るのは時折のことであり、銘の確かな合作はさらに稀である。
宗光の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
備前伝 · 備前
時期区分: 末備前· 1441–1596
現在232点販売中
嘉吉から文禄に及ぶ室町時代後期、長船派の最末期を画するのが末備前である。応永備前が古作への復古を志して優美な太刀姿と丁子刃を甦らせたのに続き、この期の長船鍛冶は戦国の世の旺盛な武器需要に応じて作刀の規模を一段と広げ、長船の名のもとに膨大な数の刀剣を世に送り出した。説示にあらわれる主要工は、勝光、宗光、貞光、治光、忠光、清光、春光、祐定の一群である。勝光は宗光・忠光と並ぶ巧者で、右京亮・次郎左衛門尉・修理亮など様々な俗名を冠する同名工を擁し、貞光や子の治光との合作銘も伝わる。祐定にあっては与三左衛門尉・源兵衛尉・彦兵衛尉を冠する者がとりわけ技術が高く、与三左衛門尉祐定は名品の数多くその筆頭に挙げられ、彦兵衛尉はその父と伝えて慶長まで数代を数える。清光は五郎左衛門尉と孫右衛門尉が筆頭格、春光は文明から文禄に及ぶ長期に同名数工があって十郎左衛門が最も知られる。この期には播磨・備前・美作の守護赤松政則が宗光・勝光の一党を陣中に招いて鍛刀の技を学び為打を遺したことも説示に見え、注文打と数打物とが併存した末期の様相をよく伝えている。 体配はまず時代を映す。身幅広く寸のつまり、重ね一段と厚く、踏張りがあって先反りつき、中鋒、茎は片手打に適した短いものとなる、室町後期特有の打刀姿である。鍛えは小板目肌がよくつみ、地沸が微塵につき、地景が細かに入って、淡くあるいは鮮明に乱れ映りが立つ。刃文の中心をなすのは末備前固有の腰の開いた互の目で、焼頭が割れて複式に乱れる複式互の目を基調に、尖り刃・尖りごころの互の目・小互の目を交え、足・葉頻りに入り、匂勝ちに小沸がつき、金筋・砂流しがかかり、処々に小さな飛焼を交える。さらに飛焼・棟焼が頻りにかかって皆焼風となる作もあり、帽子は乱れ込んで先小丸に長く返る。これは光忠の蛙子丁子、長光の丸い頭の丁子、景光の片落ち互の目といった古長船・相伝備前の整然たる丁子主調とは趣を異にし、応永備前の腰開き互の目をさらに崩して量感と変化に向かわせた戦国期の姿である。同時に勝光のように乱れの中へ丁子を多く交えて一段と華やかに焼き、忠光や清光のように直刃の上手として定評を得る工もあり、作域は広い。 鑑定にあっては、まず乱れ映りで備前と読み、つまった寸と厚い重ね、先反り強き打刀姿で時代を末備前に定める。次に俗名と作風で工を分かつ。乱れの中に丁子を多く交えた華やかな出来は勝光、複式風の互の目に飛焼を交えてやや皆焼がかるは与三左衛門尉祐定、板目に杢を交えてやや肌立つ直刃は孫右衛門尉清光、直刃に佳作多きは彦兵衛尉祐定、というように看どころが工を指し示す。表裏に施された梵字・蓮台や棒樋連樋の刀身彫もまた末備前の特色をよく示し、長光景光以来の彫の伝統がこの期まで継承されたことを物語る。代表作には、勝光・貞光合作の明応八年紀の薙刀、勝光・治光父子合作の大永七年紀の短刀、与三左衛門尉二代の元亀元年紀の刀があり、合作銘や所持銘・添銘を伴う注文打は、末備前とそれを支えた三宅氏のごとき在地の氏族を知る上でも資料性が高い。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。
Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 宗光は兄勝光と共に赤松政則に仕えた戦国期の備前最高の刀工の一人。有力武将赤松政則の刀槍を鍛えたのみならず、時に赤松軍勢として合戦に臨み、近江六角氏との戦いでは近江鈎の陣中に一族を挙げて参上し、足利義尚の御前打��を勤め、史書に足跡を残した稀有の刀工である。

Osafune (Sue-Bizen), Bizen · 備前 · 1469-1509頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位17%
現在2点販売中
長享二年八月、すなわち一四八八年に、長船左京進宗光は重ね厚くふくら枯れごころの平造短刀に銘を切り、小板目のよくつんだ地に地景入り地沸明るくつき、その上に中直刃を焼いて僅かに小足を交え、刃縁処々にほつれ、金筋かかり、匂口明るく冴える刃を仕立てた。説明書はこれを「同作中の傑作と称して過言でない」[[c:1]]とする。この一口が宗光という工をよく語る。本工は六郎左衛門尉祐光の次男、右京亮勝光の弟で、室町末期の長船鍛冶を総称する末備前を代表する名の一つであるが、その一派が焼の高い華やかな刃で知られたのに対し、本工はむしろその逆で知られた。説明書は本工を穏やかな線の名手と定め、一派の派手ではなくその静かな線にこそ、本工の手は看取される。
その個性を説明書は明言する。末備前特有の複式互の目に加え、宗光は「直刃の上手として定評がある」[[c:2]]とされる。本工の典型は室町末の片手打の打刀で、寸さほど延びず、先反りつき、片手の抜打のために茎短く詰まり、その上に明るい直刃を、あるいは細く、あるいは中直刃に、あるいは広直刃に焼く。永正二年すなわち一五〇五年紀の刀はその手を最も確かに示し、広直刃に小互の目を交え、足・葉がよく働き、小沸つき沸筋立ち、地刃共に明るく冴える。兄に並べれば、その違いは伝統ではなく規模と気質の差である。説明書は勝光と比して、本工は「刃文が小模様で宗光によくみる作風を示している」[[c:3]]とし、勝光が腰の開いた互の目を一段と華やかな丁子の出来へ押し進めたのに対する。
地鉄はよく錬れた小板目で、肌つみ精良に、地沸細かにつき地景入り、その上に乱れ映りが立ち、より古調の作には棒映りとなって現れる。このつんだ地に立つ映りが直刃に古い味を添えるのであり、文明十一年すなわち一四七九年紀の刀に、説明書は地がねのよく整い、棒映りの立ち、細直刃に匂口締りごころの一見やや古調ある趣を記す。表裏には末備前の作を画す宗教的彫物を施し、真の倶利迦羅、梵字、素剣、四鈷と蓮台、八幡大菩薩や摩利支尊天の神号を彫る。説明書はこれらを協力する彫物師の手とし、一工に限らず時代と系統の特色と読む。帽子は直刃の作には直ぐに小丸あるいは大丸に返り、刃文の賑やかな作には乱れ込んで長く返る。
宗光は静かな線のみに留まらず、説明書もそれを丁寧に断る。末備前特有の複式互の目の作例もあるとし、ただ直刃を高く評価する。その手は永正後半の身幅広い脇指に最もよく見え、小板目に地沸微塵に厚くつき乱れ映りの立つ地に、焼幅広く、腰の開いた互の目に丁子・袋丁子・尖り刃・複式互の目風の刃を交え、足・葉入り、処々小さな飛焼を交え、金筋・砂流しかかり、匂口明るく冴える。互の目の中に目立つ丁子刃を、説明書は末備前のうち勝光に最も多く、次いで宗光に多い見どころとし、「互の目の中に丁子刃が目立つ」[[c:4]]と記すなど、最も華やかな作にあってもなお、看所は本工を二人の兄弟のうち小模様の側に読む。本工の記録にはもう一筋、様式ではなく資料の筋がある。作刀期間が長く、兄とも甥の二郎左衛門尉勝光とも合作銘が残るところから、説明書は宗光の名が二代に及んだとみられるとし、永正の作は二代に属するとしつつ、初・二代の確たる時代区分は難しいとする。
現存作の多くは勝光系との合作で、古くから宗勝合作の名で珍重された。これら合作の刀・脇指は典型的な片手打で、地は地景・地沸の小板目、刃文は穏やかな互の目交じりの直刃のこともあれば一派の腰の開いた複式互の目のこともあり、倶利迦羅や神号を表裏に彫る。うち二口は長船を離れ、文明年間に備中児嶋に駐槌して焼かれ、銘にその地を記す。文明十八年すなわち一四八六年の合作刀の一口は、出来のよさもさることながら銘文の資料価値も高いとされる。説明書の伝えるところでは、両工は長享二年に将軍足利義尚の命に応じて近江の陣中に上り、備前・備中の各地に駐槌し、赤松政則の配下として合戦に加わった。本工は同じ末長船の与三左衛門尉祐定・五郎左衛門尉清光と並ぶ工で、なかでも直刃の技をもって際立ち、つんだ小板目に立つ明るい乱れ映りと、冴えて統御された直刃が、兄の華やかさに拠らずして本工を分かつ。
宗光は末備前の工のうちでも記録のよく残る側にあり、その指定の記録もそれを映す。勝光と合作し文明十八年に備中児嶋で焼いた刀は重要美術品で、標準的な参考文献に広く所載され、勝光・宗光合作の刀は重要文化財として伝わる。国宝も特別重要刀剣も持たないが、十二口が重要刀剣に合格し、本工の刀は御物として伝わる。永正六年紀の刀に附された変り塗半太刀拵は、丸に引き両竹雀紋を備えた一作で、仙台伊達家に伝来し、それ自体その出来によって指定された。所在の知られる伝来は数こそ少ないが品位は高く、御物、伊達家、戦前の所持者である福岡の首藤整に及ぶ。私の蔵家にとって現実に出会いうるのは、博物館や旧家の外に伝わる指定の作であり、なかでも年紀ある合作は末長船系図に光を当てるものとして殊に重んじられる。在銘年紀の宗光は末備前の名としては比較的数多く残るとはいえ、年紀の明らかな健全な一口が世に出るのは時折のことであり、銘の確かな合作はさらに稀である。
宗光の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
備前伝 · 備前
時期区分: 末備前· 1441–1596
現在232点販売中
嘉吉から文禄に及ぶ室町時代後期、長船派の最末期を画するのが末備前である。応永備前が古作への復古を志して優美な太刀姿と丁子刃を甦らせたのに続き、この期の長船鍛冶は戦国の世の旺盛な武器需要に応じて作刀の規模を一段と広げ、長船の名のもとに膨大な数の刀剣を世に送り出した。説示にあらわれる主要工は、勝光、宗光、貞光、治光、忠光、清光、春光、祐定の一群である。勝光は宗光・忠光と並ぶ巧者で、右京亮・次郎左衛門尉・修理亮など様々な俗名を冠する同名工を擁し、貞光や子の治光との合作銘も伝わる。祐定にあっては与三左衛門尉・源兵衛尉・彦兵衛尉を冠する者がとりわけ技術が高く、与三左衛門尉祐定は名品の数多くその筆頭に挙げられ、彦兵衛尉はその父と伝えて慶長まで数代を数える。清光は五郎左衛門尉と孫右衛門尉が筆頭格、春光は文明から文禄に及ぶ長期に同名数工があって十郎左衛門が最も知られる。この期には播磨・備前・美作の守護赤松政則が宗光・勝光の一党を陣中に招いて鍛刀の技を学び為打を遺したことも説示に見え、注文打と数打物とが併存した末期の様相をよく伝えている。 体配はまず時代を映す。身幅広く寸のつまり、重ね一段と厚く、踏張りがあって先反りつき、中鋒、茎は片手打に適した短いものとなる、室町後期特有の打刀姿である。鍛えは小板目肌がよくつみ、地沸が微塵につき、地景が細かに入って、淡くあるいは鮮明に乱れ映りが立つ。刃文の中心をなすのは末備前固有の腰の開いた互の目で、焼頭が割れて複式に乱れる複式互の目を基調に、尖り刃・尖りごころの互の目・小互の目を交え、足・葉頻りに入り、匂勝ちに小沸がつき、金筋・砂流しがかかり、処々に小さな飛焼を交える。さらに飛焼・棟焼が頻りにかかって皆焼風となる作もあり、帽子は乱れ込んで先小丸に長く返る。これは光忠の蛙子丁子、長光の丸い頭の丁子、景光の片落ち互の目といった古長船・相伝備前の整然たる丁子主調とは趣を異にし、応永備前の腰開き互の目をさらに崩して量感と変化に向かわせた戦国期の姿である。同時に勝光のように乱れの中へ丁子を多く交えて一段と華やかに焼き、忠光や清光のように直刃の上手として定評を得る工もあり、作域は広い。 鑑定にあっては、まず乱れ映りで備前と読み、つまった寸と厚い重ね、先反り強き打刀姿で時代を末備前に定める。次に俗名と作風で工を分かつ。乱れの中に丁子を多く交えた華やかな出来は勝光、複式風の互の目に飛焼を交えてやや皆焼がかるは与三左衛門尉祐定、板目に杢を交えてやや肌立つ直刃は孫右衛門尉清光、直刃に佳作多きは彦兵衛尉祐定、というように看どころが工を指し示す。表裏に施された梵字・蓮台や棒樋連樋の刀身彫もまた末備前の特色をよく示し、長光景光以来の彫の伝統がこの期まで継承されたことを物語る。代表作には、勝光・貞光合作の明応八年紀の薙刀、勝光・治光父子合作の大永七年紀の短刀、与三左衛門尉二代の元亀元年紀の刀があり、合作銘や所持銘・添銘を伴う注文打は、末備前とそれを支えた三宅氏のごとき在地の氏族を知る上でも資料性が高い。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。