政権は鎌倉にあったが、美意識はなお京都が定めた。粟田口派の梨子地肌は完璧の代名詞となり、来派は公家にも上級の武家にも大寺にも、堂々たる太刀を納めている。
取扱店 銀座長州屋
「国光」は重要指定の作品がある名ですが、この品の現在有効な鑑定書は確認できませんでした。鑑定書で確かめられるまでは、その名は未確認とお考えください。刀剣商ご自身も極めを控えめに記されています。誠実な表記ですが、それでも未確認とお考えください。 — Hoshi まずはご相談ください
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山城伝 · 山城 · 1249-1256頃
藤代 上々作 · 刀剣大鑑 上位1%
平成十五年に重要刀剣に指定された小振りの平造の短刀が、粟田口国光を時代の上に定める。生ぶ茎の指表に太めの鏨で「弘安十一年」、指裏に「五月一日」と年紀をきり分け、裏はその下に国光の二字銘を書き下す。説明書は彼を則国の子で国吉の弟と伝える刀工とし、鎌倉時代後期の山城粟田口派に置く。確実な遺例は稀有であり、この短刀のほかには重要文化財の太刀二口や左兵衛尉を冠した銘文の剣などが僅かに知られるのみである。この年紀作について説明書は、「地刃には粟田口物の美点を十分に発揮しており」[[c:1]]、また何よりも「弘安十一年紀の資料的価値は計り知れない」[[c:2]]と記す。国光銘が指裏にきられることから、或は馬手指であった可能性も考えられるという。
説明書は彼の作風を僅かな、しかし一貫した言葉で述べる。昭和四十五年指定の大磨上の刀について、「国光と二字銘にきり、地がねがよく、直刃を得意として上手である」[[c:3]]とする。令和元年指定の刀ではより詳しく、その作風を「地がねがよくつみ、地沸が微塵について美しく、穏やかな直刃を得意としている」[[c:4]]と記す。
地鉄は小板目がよくつみ、地沸細かに、地景が入る。令和元年の刀では地沸微塵につき、地景よく入り、淡く沸映りが立つ。年紀の短刀では小板目に流れ柾の肌を交え、地沸よくつき、細かな地景入り、かな色は頗る晴れやかで冴える。昭和四十五年の刀は板目肌がよくつみ、総体に流れごころの肌寄り、地沸よくつく。
刃文は細直刃である。令和元年の刀は僅かに小足入り、沸よくつき、上半部分的にほつれを見せ、裏僅かに二重刃状かかり、処々金筋入り、匂口明るく冴える。昭和四十五年の刀は細直刃にほつれ・喰違い刃を交え、匂口締りごころに小沸つき、やや荒めの沸を交え、金筋かかる。短刀は直刃が浅くのたれ、裏は小互の目を交え、総じて匂深く、小沸厚くつく。帽子は三口ともに直ぐに小丸となり、令和元年の刀では短めに、短刀ではやや長めに返る。
姿は形によって異なる。令和元年の刀は身幅尋常、元先の幅差つき、反り浅めに腰反りとなって中鋒、表裏に棒樋を掻き流す。昭和四十五年の刀は大磨上で反りやや浅く、中鋒詰り猪首ごころとなる。短刀は細身で重ね薄く小振りに内反りの姿態となり、表に素剣、裏に護摩箸とみられる彫の痕跡がある。その国光二字銘は重要文化財の太刀と共通項がみられると説明書はいう。朱書のある令和元年の刀について説明書は、よく錬れた精良な地鉄を特筆し、やや細身の穏和な姿態に匂口の明るい端正な直刃を焼いた、「格調高い品格を備えた同工極めの佳品である」[[c:5]]と評する。
その名を負う指定作は五口を数える。二口は重要文化財で、いずれも国光と銘し、鎬造丸棟、鍛え小板目に細直刃を焼く。すなわち説明書が代表作としてよく知られるとする岐阜・養老寺の長さ七三・三cmの太刀と、兵庫・黒川古文化研究所の長さ八〇・三cmの太刀で、寺院と研究機関に伝わる遺産である。残る三口は重要刀剣で、年紀の短刀と二口の刀である。国宝はない。藤代は上々作とする。国光の重要刀剣が市場に現れることは稀であり、在銘の一口は遺例の少なさからして、粟田口を蒐める者が出会いうる最も稀な物の一つである。
國光の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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山城伝 · 山城
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かねに潤いがあってよく冴える、という一語が、この一門の解説に幾度も立ち返る。よく約んだ小板目を極くつめて地沸を微塵に厚く均しく敷き、細かな地景を入れて沸映りを立てる手は、古来「梨子地肌」と称され、本流派の名を負う精錬の極みである。山城国粟田口、すなわち京都から近江へ通じる街道筋に居を構えた鍛冶の集まりであり、その地に鍛冶が住したことは鎌倉初頭の説話集『宇治拾遺物語』にも見える。祖は国家といい、その子に国友・久国・国安・国清・有国・国綱の六人兄弟があって、いずれも揃って名を成した。長兄国友をはじめ、久国・国安らは後鳥羽院の番鍛冶、すなわち院に月番で仕えた工に召され、活躍期は承久(一二一九〜二二)の頃にあたる。末弟国綱は後に北条氏の招きで鎌倉へ下向し、相州鍛冶草創の一人に数えられる。長兄国友の子則国を経て、左兵衛尉国吉、その子または弟子の藤四郎吉光へと、御番鍛冶の世代から短刀の名手の世代へと一門は続き、別流の新藤五国光は相州伝の事実上の創始者として行光・正宗・則重を育てた。 作域の核は、備前の華やかな丁子の対極にある、静かで抑えた直刃にある。よく約んだ小板目に地沸を厚くつけた精美な地の上へ、小沸出来の細直刃ないし直刃調の小乱れを匂深く焼き、小互の目・小丁子・小足・葉を交え、金筋・砂流しを細かにかける。匂口は締りごころに明るく冴え、帽子は穏やかな小丸に返り、しばしば掃きかけを伴う。表裏には護摩箸・素剣・梵字を彫り、その護摩箸は間隔狭く棟に寄せて彫るのが一門共通の手癖である。同じ作風の中にも工ごとの標識が宿る。久国は兄弟の中で最も沸が強く、国友・国安は匂口がうるみ、国安は連れごころの小互の目に押し詰まった小乱れを守って一派の乱れの手を担い、則国は国吉・吉光に通じつつ比較的沸が強い。国吉・吉光に至って刃は明るい直刃へ傾き、二重刃や帽子下の沸の喰下がりがその手癖となる。来時代へ下るにつれ穏雅な細直刃の比重が増す一方、国綱のみは板目が肌立って刃沸の目立つ剛壮な異風を見せ、来たるべき相模の力強い作風へ傾く。 鑑定の拠りどころは明快である。梨子地状の精美な小板目地、潤って冴えるかね、締まって明るい直刃調の刃に細かくかかる金筋・砂流し、これらが揃えば初期粟田口と鑑せられる。各工は解説中の物差しによって分かたれる。久国は格調の高さで、国安は安の字の崩しと連れごころの小互の目で、国清は兄国安への親近で、則国は子国吉に近い国の字で読まれる。そして一門を貫く対比は来派との別である。粟田口の地刃の沸は来物より一段と厚く強く感じられ、寸法の割に身幅狭く重ね厚い造込みは来にまず見ない。位置づけの頂点には、相模国の新藤五国光と並ぶ短刀の名人吉光が立ち、江戸期には正宗・江と共に天下三作の筆頭に挙げられた。流暢な二字銘そのものが鑑識の対象である。代表作の重みは伝来に表れ、名物鬼丸国綱は天下五剣の一つとして皇室に伝わり、一期一振藤四郎は太閤秀吉の蔵刀、陸奥新藤五は奥州伊達家重代として伝わる。山城の精錬な沸の直刃は来の名工が汲んだ源であり、ひいては新藤五国光から相州伝へと展開する源流でもあって、本流派は日本刀の地鉄の最高峰を示すとともに、後世の二大潮流の発端に立つ。 詳しく見る →
鎌倉時代の山城
政権は鎌倉にあったが、美意識はなお京都が定めた。粟田口派の梨子地肌は完璧の代名詞となり、来派は公家にも上級の武家にも大寺にも、堂々たる太刀を納めている。
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