平成十五年に重要刀剣に指定された小振りの平造の短刀が、粟田口国光を時代の上に定める。生ぶ茎の指表に太めの鏨で「弘安十一年」、指裏に「五月一日」と年紀をきり分け、裏はその下に国光の二字銘を書き下す。説明書は彼を則国の子で国吉の弟と伝える刀工とし、鎌倉時代後期の山城粟田口派に置く。確実な遺例は稀有であり、この短刀のほかには重要文化財の太刀二口や左兵衛尉を冠した銘文の剣などが僅かに知られるのみである。この年紀作について説明書は、「地刃には粟田口物の美点を十分に発揮しており」、また何よりも「弘安十一年紀の資料的価値は計り知れない」と記す。国光銘が指裏にきられることから、或は馬手指であった可能性も考えられるという。
説明書は彼の作風を僅かな、しかし一貫した言葉で述べる。昭和四十五年指定の大磨上の刀について、「国光と二字銘にきり、地がねがよく、直刃を得意として上手である」とする。令和元年指定の刀ではより詳しく、その作風を「地がねがよくつみ、地沸が微塵について美しく、穏やかな直刃を得意としている」と記す。
地鉄は小板目がよくつみ、地沸細かに、地景が入る。令和元年の刀では地沸微塵につき、地景よく入り、淡く沸映りが立つ。年紀の短刀では小板目に流れ柾の肌を交え、地沸よくつき、細かな地景入り、かな色は頗る晴れやかで冴える。昭和四十五年の刀は板目肌がよくつみ、総体に流れごころの肌寄り、地沸よくつく。
刃文は細直刃である。令和元年の刀は僅かに小足入り、沸よくつき、上半部分的にほつれを見せ、裏僅かに二重刃状かかり、処々金筋入り、匂口明るく冴える。昭和四十五年の刀は細直刃にほつれ・喰違い刃を交え、匂口締りごころに小沸つき、やや荒めの沸を交え、金筋かかる。短刀は直刃が浅くのたれ、裏は小互の目を交え、総じて匂深く、小沸厚くつく。帽子は三口ともに直ぐに小丸となり、令和元年の刀では短めに、短刀ではやや長めに返る。
姿は形によって異なる。令和元年の刀は身幅尋常、元先の幅差つき、反り浅めに腰反りとなって中鋒、表裏に棒樋を掻き流す。昭和四十五年の刀は大磨上で反りやや浅く、中鋒詰り猪首ごころとなる。短刀は細身で重ね薄く小振りに内反りの姿態となり、表に素剣、裏に護摩箸とみられる彫の痕跡がある。その国光二字銘は重要文化財の太刀と共通項がみられると説明書はいう。朱書のある令和元年の刀について説明書は、よく錬れた精良な地鉄を特筆し、やや細身の穏和な姿態に匂口の明るい端正な直刃を焼いた、「格調高い品格を備えた同工極めの佳品である」と評する。
その名を負う指定作は五口を数える。二口は重要文化財で、いずれも国光と銘し、鎬造丸棟、鍛え小板目に細直刃を焼く。すなわち説明書が代表作としてよく知られるとする岐阜・養老寺の長さ七三・三cmの太刀と、兵庫・黒川古文化研究所の長さ八〇・三cmの太刀で、寺院と研究機関に伝わる遺産である。残る三口は重要刀剣で、年紀の短刀と二口の刀である。国宝はない。藤代は上々作とする。国光の重要刀剣が市場に現れることは稀であり、在銘の一口は遺例の少なさからして、粟田口を蒐める者が出会いうる最も稀な物の一つである。