1333年に鎌倉は落ちたが、一派の最大の時代はその後に来た。師の水準で鍛える貞宗、皆焼を大成した広光と秋広。相州風は軍勢とともに広がり、一時は国じゅうの様式となった。

















相州 · 相模 · 1329-1331頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位2%
第二十七回特別重要刀剣に指定された名物御堀出貞宗は、徳川家康が伏見で見出したことに名号が由来し、元和二年(一六一六)に家康から前田利常に贈られた享保名物の刀である。その作者貞宗は通称彦四郎、正宗の門人で後に養子になったと伝え(子とする伝もある)、相州正系の二代を継ぎ、鎌倉時代最末期から南北朝時代前期にかけて作刀した。指定書は「確実な在銘の作は皆無」[[c:1]]と繰り返し、現存作は悉く無銘で、本阿弥の金象嵌・朱銘・折紙によって極められる。その位置は「正宗と信国の間をつなぐものが貞宗」[[c:2]]と、師と弟子の双方から挟んで定められる。
師との分かれ目は質にあり一貫する。「正宗に比較すると総じて穏やかでおっとりした湾れ調の乱れ刃に持味があり」[[c:3]]という定型句がほぼ半数の説明に明記され、ある説明は、正宗に比して鍛はややおだやかで、肌がそれほどに立たず、地沸も少なく、金筋・稲妻などの働きがやや乏しく穏やかになると細かく対比する。積極的な見どころは彫物にある。相州随一の彫物の名手で、梵字・素剣・護摩箸・三鈷剣・倶利迦羅が正宗・行光・則重に見られない頻度で施され、「二筋樋は貞宗の得意としたところ」[[c:4]]とされて名物二筋樋貞宗の号の刀がある。彫物こそ正宗に見られなかったものであり、「大進坊の流れを汲んで、重ね彫を得意とし、これを弟子の信国に伝えて」[[c:5]]と記される。
鍛えは板目に杢を交え、優品では地沸が微塵に厚くつき、地景が細かく頻りに入り、時に肌立ちごころとなる。刃文は浅いのたれに互の目・小互の目・小丁子を交え、足・葉入り、匂口深く、沸厚く明るく冴え、金筋・砂流しがかかり、刃縁にほつれ・湯走りを見せる。帽子は乱れ込みまたは直ぐに小丸、掃きかけて尖りごころとなるものが多い。「相州伝上位作特有の光美しい沸」[[c:6]]がその出来の標識として挙げられる。この主流の両極に二つの部類が立つ。「直刃は稀」であり、少数の直刃調の作は浅くのたれごころを帯びて小互の目が間遠に交じり、特別重要の短刀は国宝の名物伏見貞宗を思わせると評される。重要美術品の直刃の短刀について本間順治は、姿と地景、金筋と沸づきの良さから相州伝上々の作と見つつ、「上手な梵字と素剣の彫、及び茎尻の剣形から貞宗と鑑せられる」[[c:8]]と談じており、静かな作の極めの拠り所を示す。賑やかな極では互の目が目立ち、処々荒沸を交え、飛焼・湯走りが散って帽子は火焔状に掃きかけ、皆焼ごころに及ぶ作もあるが、「広光・秋広までには至らない」[[c:9]]と測られる。
姿は太刀・短刀ともに二様あり、いずれの体配かによって製作年代が読まれる。早い方は鎌倉末の「古調」で、身幅尋常・中鋒の刀と反りのほとんどない小振りの短刀があり、最も小振りの一口は名物太鼓鐘貞宗に共通すると評される。遅い方は現存の主流たる南北朝の大柄な姿で、身幅広く元先の幅差の開かない大磨上無銘の刀と、幅広で寸延び重ね薄い平造の短刀・小脇指があり、後者は多く生ぶ茎である。生ぶの作では茎自体が見どころとなり、舟形で先剣形、鑢目勝手下りの茎は「貞宗の掟通り」と評される。片切刃造も得意とした造込みで、紀州徳川家に伝来し南龍公頼宣の指料と伝える切刃貞宗が著名である。
正宗門中で最もよく師風を継承し、技倆もこれに次ぐとされ、上限では師との境が問われる。池田仲博旧蔵の重要美術品の刀について本間順治は、常の作より刃文に変化があり、火焔帽子と輝く沸を見せるとして「むしろ、正宗と見たいものである」[[c:11]]と談じた。下流では穏やかなのたれと彫物がそのまま信国に再現され、相州の彫技は貞宗を経て信国へ渡る。
藤代の格付けは最上作。指定を受けた作は八八口を数え、国宝四口、重要文化財一二口、戦前の重要美術品三口、特別重要刀剣二三口・重要刀剣四六口、上位二指定で六九口に上る。極めには名物が連なる。国宝の四口は、茎に花菱亀甲文を毛彫りする名物亀甲貞宗の刀、貞宗の典型作とされる名物寺沢貞宗の短刀、本阿弥の朱銘のある名物伏見貞宗の短刀、そして「同作中特に華やかな作」[[c:12]]とされる名物徳善院貞宗の小脇指である。御堀出のほか、切刃、秀忠から前田利長に贈られた善得院、享保名物牒の氏家、太鼓鐘、二筋樋、そして豊太閤所蔵の大坂御物で大坂夏の陣に焼け、初代康継が再刃して家康遺品として頼宣に与えられた獅子貞宗があり、物吉・石田・国宝伏見貞宗に擬えられる作も記される。伝来は四〇口に記録され、将軍家宣から家継に伝わった指料、元禄十年(一六九七)に綱吉から柳沢吉里へ下賜された刀のほか、尾張・紀州徳川家、前田・伊達・毛利・池田・佐竹・蜂須賀・成瀬・小笠原・鷹司の諸家に及ぶ。蒐集家にとってその大半は手の届かぬところにある。国宝・重要文化財は市場の外の文化財であり、所在の知られるものは東京国立博物館・徳川美術館・三井記念美術館・佐野美術館などに収まる。現実に出会いうるのは特別重要・重要の六九口で、その殆どが本阿弥の極めを拠り所とする大磨上無銘の刀か寸延びの脇指である。かかる一口が市場に現れることは稀で、得意の二筋樋や重ね彫を伴う一口であれば、出色の機会となる。
貞宗の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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相州伝 · 相模
時期区分: 相州· 1288–1385
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板目に杢を交えた地鉄に地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに織りなされて明るく冴える鍛え、これが相州(鎌倉後期から南北朝期にかけての相州伝の古典的全盛期)を貫く核である。この区分は始祖新藤五国光が粟田口由来の精緻な小板目と直刃の基盤の上に、地刃ともに沸を主体とする鍛えを据えたところに始まる。国光の門から行光、正宗、則重が出て技術が大成し、続いて正宗の系から養子貞宗、越中の郷義弘が出て、伝統が頂点に達した。さらに南北朝期に入ると相模国にあって時代的にも技術的にも貞宗の次に位置する広光と秋広が現れ、十四世紀後半まで本流が続く。鎌倉幕府の府たる鎌倉を母体とし、その滅亡から南北朝の動乱という時代背景のなかで、姿は身幅広く寸延びた豪壮なものへと推移していった。 作風は説示にいう板目に杢交じり、地沸厚くつき、地景頻りに入る鍛えを土台とし、刃文はのたれを基調に互の目を交え、匂口深く沸厚くつき、金筋・沸筋・砂流しが頻りにかかって匂口明るく冴える点にある。郷義弘の作では、正宗・則重に比べて地景・金筋は穏やかながら、刃中に沸足がよく働き、地刃が一段と明るく冴え、肌合に柾ごころを交え、帽子を一枚風に深く焼くのが見どころとされる。広光・秋広に至ると、板目が肌立ちごころとなり、丁子に互の目を交え、飛焼・棟焼を交えて皆焼となり、頭の丸い団子丁子を交える刃文がこの時代に始まる。これらは母体である粟田口の抑制された直刃の源流からは遠く隔たり、沸の働きを前面に押し出した展開である。一方、後続の末相州(室町期の継続と衰退)が、こうした皆焼や帽子の一枚焼きといった形を継承しつつ地刃の冴えと沸の質を次第に薄めていくのに対し、本区分は地刃ともに明るく冴え、働きが豊富である点で截然と区別される。秋広の彫物が後の正広・広正、さらに室町末期の相州鍛冶の先駆となったことも、本区分が型を確立した側であることを示す。 収集家がこの区分を別格とするのは、正宗を頂点に、貞宗、そして正宗十哲の筆頭に挙げられる郷義弘という頂の刀工を擁するからである。鑑定上の要点は、郷義弘・貞宗ともに在銘作が皆無であるため、地刃の明るい冴え、沸足の働き、柾ごころ、一枚風に深く焼く帽子といった作域から極めることにある。代表作には金象嵌銘の兜切り江や名物中川江があり、宇和島伊達家、小田原藩大久保家、薩摩の島津家など大名家への伝来が説示に記される。秋広には延文二年から至徳四年に及ぶ年紀作があり、銘の切り方の変遷とともに資料的価値を支えている。 詳しく見る →
南北朝時代の相州
1333年に鎌倉は落ちたが、一派の最大の時代はその後に来た。師の水準で鍛える貞宗、皆焼を大成した広光と秋広。相州風は軍勢とともに広がり、一時は国じゅうの様式となった。
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