相州貞宗の重要刀剣、相州伝最上工の沸の強さ、煌めきを存分に示した堂々たる一振り、最高権威、本阿弥光忠折紙付き、大和国郡山藩主柳沢家伝来品です。 相州貞宗は、彦四郎と称し、岡崎五郎入道正宗門人で、後に養子になったと伝えています。鎌倉末期から南北朝前期の刀工で、『亀甲貞宗』、『伏見貞宗』など国宝一口、『切刃貞宗』、『二筋樋貞宗』、『幅広貞宗』など重要文化財十二口、重要美術品三口を数える名工ながら、在銘正真作は現存しておらず、現存品は、無銘若しくは金象嵌銘、朱銘などによる極めになります。 作風は、光り美しい刃沸、地景を頻りに織り成す地鉄など、師風を最も良く受け継いでいます。師との相違点は、師に比してやや大柄な姿形、刃調が湾れ主体で穏やかである点になります。 本作は、昭和三十九年(一九六四)、第十二回重要刀剣指定品で、『伝貞宗』と極められています。 寸法二尺二寸四分強、身幅しっかりとした勇壮な造り込み、姿も美しく、 地刃健全、茎裏には朱書きの痕跡らしきものがありますが、判読不明です。 板目に杢目、流れて肌を交えた地鉄は、地景繁く入り、良く錬られて潤いがあり、湾れ調で小互の目交じりの刃は、刃縁良く沸付いて匂い深く明るく冴え、刃中小足、小互の目足入り、金筋、砂流し頻りに掛かるなど、一見して分かる鉄質の良さ、鍛錬の良さ、刃中に光の強い荒沸が付いて太い金筋がうねるように掛かる様は、師正宗風を良く継承しています。 前述したように、刃調が穏やかである点、姿が大柄な点を踏まえると、貞宗の極めは至極妥当です。 また本刀には、宝永七年(一七一〇)、十三代本阿弥光忠による『貞宗』極めの折紙が附帯しており、『代金子百枚』の代付けがされています。 本阿弥光忠は、本阿弥本家十三代当主で、折紙は元禄九年(一六九六)~享保十年(一七二五)まで残されており、同年九月没。 本阿弥本家の折紙でも、特に十三代光忠までのものは、鑑定が厳格で信用が置けるため、『古折紙』又は『上折紙』と呼ばれ珍重されます。 その光忠が、晩年の享保四年、八代将軍吉宗の命により編纂したのが、かの有名な『享保名物帳』です。 『享保名物帳』とは、それまで本阿弥家で鑑定し、押形を残していた名物刀剣台帳、これをまとめた人物の折紙となれば、無論最高権威です。 後に本阿弥光春(一七一九~七八)こと、本阿弥次郎左衛門永清が再鑑定した折紙も附帯しており、『お刀を改めて拝見したところ、現在では五百枚の価値はあろうかと思われる見事な出来。』とあります。 加えて探山先生鞘書きにもあるように、本刀は大和国郡山(こおりやま)藩主柳沢家に伝来した由緒正しき一振りです。 郡山藩は、大和国に存在した藩で、藩庁は郡山城(現奈良県大和郡山市)に置かれました。享保九年(一七二四)、八代将軍徳川吉宗の『享保の改革』に於ける幕府直轄領拡大に際し、吉宗の命により、甲斐国甲府藩から柳沢吉里が入って以降、幕末まで同家が治めました。吉里の父が吉保、江戸時代前期の幕府側用人(そばようにん)であり、第5代将軍徳川綱吉の側近として絶大な権勢を振るった譜代大名です。 藩の創立が江戸中期で、歴史は浅いにもかかわらず、同家には相当数の名刀が伝来しています。その数は、到底十五万石の大名の蔵刀とは思えません。 これは歴代の将軍に寵愛、重用された柳沢親子ならではのこと。惜しげもなく将軍から名刀を拝領していたために他なりません。 また喘喜堂こと柴田光男先生(一九二三~二〇〇六)の添え状によると、『柳沢家伝来 柳沢美濃守佩用と伝う』とあります。『柳沢美濃守』とは、柳沢吉保のこと、古鞘にも同様の記載があります。 重厚でズシッと重い金無垢二重ハバキには、柳沢家の定紋、柳沢唐花菱紋がビシッと入っています。このハバキだけでも今や大変な価格です。 鞘書きには、『地景頻りに入る精強温潤なる肌合いに、大のどかな湾れ刃を焼き、刃中金筋を織り成すなど、沸出来の妙味を存分に発揮、総体に穏秀の感ある作域を示した味わい深き優品也。』とあるように、相州伝最上工らしい品格と迫力を備えた名品、このレベルの貞宗は中々お目に掛かりません。 出来、健全さに加えて、伝来、光忠の折紙、代付け等々の付加価値まで与えられた素晴らしい貞宗の登場です。
相州貞宗は、通称を彦四郎と云い、正宗に学んでよく師風を継承し、後その養子となるという。地沸が厚く、地 景を交えた地がね、湾れを主調として金筋の見事に働いた刃文等皆その見どころであり、貞宗の特色ある作風でもあ この刀は所伝を認めることが出来る作風を示し、地味ながら出来もよい。 貞宗有銘作は遺憾乍ら皆無であるが、貞宗の門下である信国の作風から推察してほぼその全貌を知り得る。 大上、先








相州貞宗は、通称を彦四郎と云い、正宗に学んでよく師風を継承し、後その養子となるという。地沸が厚く、地 景を交えた地がね、湾れを主調として金筋の見事に働いた刃文等皆その見どころであり、貞宗の特色ある作風でもあ この刀は所伝を認めることが出来る作風を示し、地味ながら出来もよい。 貞宗有銘作は遺憾乍ら皆無であるが、貞宗の門下である信国の作風から推察してほぼその全貌を知り得る。 大上、先
Soshu (Sagami) · 相模 · 1329-1331頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位2%
第二十七回特別重要刀剣に指定された名物御堀出貞宗は、徳川家康が伏見で見出したことに名号が由来し、元和二年(一六一六)に家康から前田利常に贈られた享保名物の刀である。その作者貞宗は通称彦四郎、正宗の門人で後に養子になったと伝え(子とする伝もある)、相州正系の二代を継ぎ、鎌倉時代最末期から南北朝時代前期にかけて作刀した。指定書は「確実な在銘の作は皆無」[[c:1]]と繰り返し、現存作は悉く無銘で、本阿弥の金象嵌・朱銘・折紙によって極められる。その位置は「正宗と信国の間をつなぐものが貞宗」[[c:2]]と、師と弟子の双方から挟んで定められる。
師との分かれ目は質にあり一貫する。「正宗に比較すると総じて穏やかでおっとりした湾れ調の乱れ刃に持味があり」[[c:3]]という定型句がほぼ半数の説明に明記され、ある説明は、正宗に比して鍛はややおだやかで、肌がそれほどに立たず、地沸も少なく、金筋・稲妻などの働きがやや乏しく穏やかになると細かく対比する。積極的な見どころは彫物にある。相州随一の彫物の名手で、梵字・素剣・護摩箸・三鈷剣・倶利迦羅が正宗・行光・則重に見られない頻度で施され、「二筋樋は貞宗の得意としたところ」[[c:4]]とされて名物二筋樋貞宗の号の刀がある。彫物こそ正宗に見られなかったものであり、「大進坊の流れを汲んで、重ね彫を得意とし、これを弟子の信国に伝えて」[[c:5]]と記される。
鍛えは板目に杢を交え、優品では地沸が微塵に厚くつき、地景が細かく頻りに入り、時に肌立ちごころとなる。刃文は浅いのたれに互の目・小互の目・小丁子を交え、足・葉入り、匂口深く、沸厚く明るく冴え、金筋・砂流しがかかり、刃縁にほつれ・湯走りを見せる。帽子は乱れ込みまたは直ぐに小丸、掃きかけて尖りごころとなるものが多い。「相州伝上位作特有の光美しい沸」[[c:6]]がその出来の標識として挙げられる。この主流の両極に二つの部類が立つ。「直刃は稀」であり、少数の直刃調の作は浅くのたれごころを帯びて小互の目が間遠に交じり、特別重要の短刀は国宝の名物伏見貞宗を思わせると評される。賑やかな極では互の目が目立ち、処々荒沸を交え、飛焼・湯走りが散って帽子は火焔状に掃きかけ、皆焼ごころに及ぶ作もあるが、「広光・秋広までには至らない」[[c:8]]と測られる。
姿は太刀・短刀ともに二様あり、いずれの体配かによって製作年代が読まれる。早い方は鎌倉末の「古調」で、身幅尋常・中鋒の刀と反りのほとんどない小振りの短刀があり、最も小振りの一口は名物太鼓鐘貞宗に共通すると評される。遅い方は現存の主流たる南北朝の大柄な姿で、身幅広く元先の幅差の開かない大磨上無銘の刀と、幅広で寸延び重ね薄い平造の短刀・小脇指があり、後者は多く生ぶ茎である。生ぶの作では茎自体が見どころとなり、舟形で先剣形、鑢目勝手下りの茎は「貞宗の掟通り」と評される。片切刃造も得意とした造込みで、紀州徳川家に伝来し南龍公頼宣の指料と伝える切刃貞宗が著名である。
正宗門中で最もよく師風を継承し、技倆もこれに次ぐとされ、上限では師との境が問われる。池田仲博旧蔵の重要美術品の刀について本間順治は、常の作より刃文に変化があり、火焔帽子と輝く沸を見せるとして「むしろ、正宗と見たいものである」[[c:10]]と談じた。下流では穏やかなのたれと彫物がそのまま信国に再現され、相州の彫技は貞宗を経て信国へ渡る。
藤代の格付けは最上作。指定を受けた作は八七口を数え、国宝四口、重要文化財一二口、戦前の重要美術品二口、特別重要刀剣二三口・重要刀剣四六口、上位二指定で六九口に上る。極めには名物が連なる。御堀出のほか、切刃、秀忠から前田利長に贈られた善得院、享保名物牒の氏家、太鼓鐘、二筋樋、そして豊太閤所蔵の大坂御物で大坂夏の陣に焼け、初代康継が再刃して家康遺品として頼宣に与えられた獅子貞宗があり、物吉・石田・国宝伏見貞宗に擬えられる作も記される。伝来は四一口に記録され、将軍家宣から家継に伝わった指料、元禄十年(一六九七)に綱吉から柳沢吉里へ下賜された刀のほか、尾張・紀州徳川家、前田・伊達・毛利・池田・佐竹・蜂須賀・成瀬・小笠原・鷹司の諸家に及ぶ。蒐集家にとってその大半は手の届かぬところにある。国宝・重要文化財は市場の外の文化財であり、所在の知られるものは東京国立博物館・徳川美術館・三井記念美術館・佐野美術館などに収まる。現実に出会いうるのは特別重要・重要の六九口で、その殆どが本阿弥の極めを拠り所とする大磨上無銘の刀か寸延びの脇指である。かかる一口が市場に現れることは稀で、得意の二筋樋や重ね彫を伴う一口であれば、出色の機会となる。
貞宗の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
相州伝 · 相模
時期区分: 相州· 1288–1385
現在46点販売中
板目に杢を交えた地鉄に地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに織りなされて明るく冴える鍛え、これが相州(鎌倉後期から南北朝期にかけての相州伝の古典的全盛期)を貫く核である。この区分は始祖新藤五国光が粟田口由来の精緻な小板目と直刃の基盤の上に、地刃ともに沸を主体とする鍛えを据えたところに始まる。国光の門から行光、正宗、則重が出て技術が大成し、続いて正宗の系から養子貞宗、越中の郷義弘が出て、伝統が頂点に達した。さらに南北朝期に入ると相模国にあって時代的にも技術的にも貞宗の次に位置する広光と秋広が現れ、十四世紀後半まで本流が続く。鎌倉幕府の府たる鎌倉を母体とし、その滅亡から南北朝の動乱という時代背景のなかで、姿は身幅広く寸延びた豪壮なものへと推移していった。 作風は説示にいう板目に杢交じり、地沸厚くつき、地景頻りに入る鍛えを土台とし、刃文はのたれを基調に互の目を交え、匂口深く沸厚くつき、金筋・沸筋・砂流しが頻りにかかって匂口明るく冴える点にある。郷義弘の作では、正宗・則重に比べて地景・金筋は穏やかながら、刃中に沸足がよく働き、地刃が一段と明るく冴え、肌合に柾ごころを交え、帽子を一枚風に深く焼くのが見どころとされる。広光・秋広に至ると、板目が肌立ちごころとなり、丁子に互の目を交え、飛焼・棟焼を交えて皆焼となり、頭の丸い団子丁子を交える刃文がこの時代に始まる。これらは母体である粟田口の抑制された直刃の源流からは遠く隔たり、沸の働きを前面に押し出した展開である。一方、後続の末相州(室町期の継続と衰退)が、こうした皆焼や帽子の一枚焼きといった形を継承しつつ地刃の冴えと沸の質を次第に薄めていくのに対し、本区分は地刃ともに明るく冴え、働きが豊富である点で截然と区別される。秋広の彫物が後の正広・広正、さらに室町末期の相州鍛冶の先駆となったことも、本区分が型を確立した側であることを示す。 収集家がこの区分を別格とするのは、正宗を頂点に、貞宗、そして正宗十哲の筆頭に挙げられる郷義弘という頂の刀工を擁するからである。鑑定上の要点は、郷義弘・貞宗ともに在銘作が皆無であるため、地刃の明るい冴え、沸足の働き、柾ごころ、一枚風に深く焼く帽子といった作域から極めることにある。代表作には金象嵌銘の兜切り江や名物中川江があり、宇和島伊達家、小田原藩大久保家、薩摩の島津家など大名家への伝来が説示に記される。秋広には延文二年から至徳四年に及ぶ年紀作があり、銘の切り方の変遷とともに資料的価値を支えている。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト刀剣、刀装具、骨董等1点ものにつきましては、キャンセル待ちのお客様がおられる場合がございますので、ご返品のご連絡は商品到着後3日以内、ご返送は8日以内にお願いいたします。ご返金は商品ご返送到着後即日に致します。
相州貞宗の重要刀剣、相州伝最上工の沸の強さ、煌めきを存分に示した堂々たる一振り、最高権威、本阿弥光忠折紙付き、大和国郡山藩主柳沢家伝来品です。 相州貞宗は、彦四郎と称し、岡崎五郎入道正宗門人で、後に養子になったと伝えています。鎌倉末期から南北朝前期の刀工で、『亀甲貞宗』、『伏見貞宗』など国宝一口、『切刃貞宗』、『二筋樋貞宗』、『幅広貞宗』など重要文化財十二口、重要美術品三口を数える名工ながら、在銘正真作は現存しておらず、現存品は、無銘若しくは金象嵌銘、朱銘などによる極めになります。 作風は、光り美しい刃沸、地景を頻りに織り成す地鉄など、師風を最も良く受け継いでいます。師との相違点は、師に比してやや大柄な姿形、刃調が湾れ主体で穏やかである点になります。 本作は、昭和三十九年(一九六四)、第十二回重要刀剣指定品で、『伝貞宗』と極められています。 寸法二尺二寸四分強、身幅しっかりとした勇壮な造り込み、姿も美しく、 地刃健全、茎裏には朱書きの痕跡らしきものがありますが、判読不明です。 板目に杢目、流れて肌を交えた地鉄は、地景繁く入り、良く錬られて潤いがあり、湾れ調で小互の目交じりの刃は、刃縁良く沸付いて匂い深く明るく冴え、刃中小足、小互の目足入り、金筋、砂流し頻りに掛かるなど、一見して分かる鉄質の良さ、鍛錬の良さ、刃中に光の強い荒沸が付いて太い金筋がうねるように掛かる様は、師正宗風を良く継承しています。 前述したように、刃調が穏やかである点、姿が大柄な点を踏まえると、貞宗の極めは至極妥当です。 また本刀には、宝永七年(一七一〇)、十三代本阿弥光忠による『貞宗』極めの折紙が附帯しており、『代金子百枚』の代付けがされています。 本阿弥光忠は、本阿弥本家十三代当主で、折紙は元禄九年(一六九六)~享保十年(一七二五)まで残されており、同年九月没。 本阿弥本家の折紙でも、特に十三代光忠までのものは、鑑定が厳格で信用が置けるため、『古折紙』又は『上折紙』と呼ばれ珍重されます。 その光忠が、晩年の享保四年、八代将軍吉宗の命により編纂したのが、かの有名な『享保名物帳』です。 『享保名物帳』とは、それまで本阿弥家で鑑定し、押形を残していた名物刀剣台帳、これをまとめた人物の折紙となれば、無論最高権威です。 後に本阿弥光春(一七一九~七八)こと、本阿弥次郎左衛門永清が再鑑定した折紙も附帯しており、『お刀を改めて拝見したところ、現在では五百枚の価値はあろうかと思われる見事な出来。』とあります。 加えて探山先生鞘書きにもあるように、本刀は大和国郡山(こおりやま)藩主柳沢家に伝来した由緒正しき一振りです。 郡山藩は、大和国に存在した藩で、藩庁は郡山城(現奈良県大和郡山市)に置かれました。享保九年(一七二四)、八代将軍徳川吉宗の『享保の改革』に於ける幕府直轄領拡大に際し、吉宗の命により、甲斐国甲府藩から柳沢吉里が入って以降、幕末まで同家が治めました。吉里の父が吉保、江戸時代前期の幕府側用人(そばようにん)であり、第5代将軍徳川綱吉の側近として絶大な権勢を振るった譜代大名です。 藩の創立が江戸中期で、歴史は浅いにもかかわらず、同家には相当数の名刀が伝来しています。その数は、到底十五万石の大名の蔵刀とは思えません。 これは歴代の将軍に寵愛、重用された柳沢親子ならではのこと。惜しげもなく将軍から名刀を拝領していたために他なりません。 また喘喜堂こと柴田光男先生(一九二三~二〇〇六)の添え状によると、『柳沢家伝来 柳沢美濃守佩用と伝う』とあります。『柳沢美濃守』とは、柳沢吉保のこと、古鞘にも同様の記載があります。 重厚でズシッと重い金無垢二重ハバキには、柳沢家の定紋、柳沢唐花菱紋がビシッと入っています。このハバキだけでも今や大変な価格です。 鞘書きには、『地景頻りに入る精強温潤なる肌合いに、大のどかな湾れ刃を焼き、刃中金筋を織り成すなど、沸出来の妙味を存分に発揮、総体に穏秀の感ある作域を示した味わい深き優品也。』とあるように、相州伝最上工らしい品格と迫力を備えた名品、このレベルの貞宗は中々お目に掛かりません。 出来、健全さに加えて、伝来、光忠の折紙、代付け等々の付加価値まで与えられた素晴らしい貞宗の登場です。
相州貞宗は、通称を彦四郎と云い、正宗に学んでよく師風を継承し、後その養子となるという。地沸が厚く、地 景を交えた地がね、湾れを主調として金筋の見事に働いた刃文等皆その見どころであり、貞宗の特色ある作風でもあ この刀は所伝を認めることが出来る作風を示し、地味ながら出来もよい。 貞宗有銘作は遺憾乍ら皆無であるが、貞宗の門下である信国の作風から推察してほぼその全貌を知り得る。 大上、先








相州貞宗は、通称を彦四郎と云い、正宗に学んでよく師風を継承し、後その養子となるという。地沸が厚く、地 景を交えた地がね、湾れを主調として金筋の見事に働いた刃文等皆その見どころであり、貞宗の特色ある作風でもあ この刀は所伝を認めることが出来る作風を示し、地味ながら出来もよい。 貞宗有銘作は遺憾乍ら皆無であるが、貞宗の門下である信国の作風から推察してほぼその全貌を知り得る。 大上、先
Soshu (Sagami) · 相模 · 1329-1331頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位2%
第二十七回特別重要刀剣に指定された名物御堀出貞宗は、徳川家康が伏見で見出したことに名号が由来し、元和二年(一六一六)に家康から前田利常に贈られた享保名物の刀である。その作者貞宗は通称彦四郎、正宗の門人で後に養子になったと伝え(子とする伝もある)、相州正系の二代を継ぎ、鎌倉時代最末期から南北朝時代前期にかけて作刀した。指定書は「確実な在銘の作は皆無」[[c:1]]と繰り返し、現存作は悉く無銘で、本阿弥の金象嵌・朱銘・折紙によって極められる。その位置は「正宗と信国の間をつなぐものが貞宗」[[c:2]]と、師と弟子の双方から挟んで定められる。
師との分かれ目は質にあり一貫する。「正宗に比較すると総じて穏やかでおっとりした湾れ調の乱れ刃に持味があり」[[c:3]]という定型句がほぼ半数の説明に明記され、ある説明は、正宗に比して鍛はややおだやかで、肌がそれほどに立たず、地沸も少なく、金筋・稲妻などの働きがやや乏しく穏やかになると細かく対比する。積極的な見どころは彫物にある。相州随一の彫物の名手で、梵字・素剣・護摩箸・三鈷剣・倶利迦羅が正宗・行光・則重に見られない頻度で施され、「二筋樋は貞宗の得意としたところ」[[c:4]]とされて名物二筋樋貞宗の号の刀がある。彫物こそ正宗に見られなかったものであり、「大進坊の流れを汲んで、重ね彫を得意とし、これを弟子の信国に伝えて」[[c:5]]と記される。
鍛えは板目に杢を交え、優品では地沸が微塵に厚くつき、地景が細かく頻りに入り、時に肌立ちごころとなる。刃文は浅いのたれに互の目・小互の目・小丁子を交え、足・葉入り、匂口深く、沸厚く明るく冴え、金筋・砂流しがかかり、刃縁にほつれ・湯走りを見せる。帽子は乱れ込みまたは直ぐに小丸、掃きかけて尖りごころとなるものが多い。「相州伝上位作特有の光美しい沸」[[c:6]]がその出来の標識として挙げられる。この主流の両極に二つの部類が立つ。「直刃は稀」であり、少数の直刃調の作は浅くのたれごころを帯びて小互の目が間遠に交じり、特別重要の短刀は国宝の名物伏見貞宗を思わせると評される。賑やかな極では互の目が目立ち、処々荒沸を交え、飛焼・湯走りが散って帽子は火焔状に掃きかけ、皆焼ごころに及ぶ作もあるが、「広光・秋広までには至らない」[[c:8]]と測られる。
姿は太刀・短刀ともに二様あり、いずれの体配かによって製作年代が読まれる。早い方は鎌倉末の「古調」で、身幅尋常・中鋒の刀と反りのほとんどない小振りの短刀があり、最も小振りの一口は名物太鼓鐘貞宗に共通すると評される。遅い方は現存の主流たる南北朝の大柄な姿で、身幅広く元先の幅差の開かない大磨上無銘の刀と、幅広で寸延び重ね薄い平造の短刀・小脇指があり、後者は多く生ぶ茎である。生ぶの作では茎自体が見どころとなり、舟形で先剣形、鑢目勝手下りの茎は「貞宗の掟通り」と評される。片切刃造も得意とした造込みで、紀州徳川家に伝来し南龍公頼宣の指料と伝える切刃貞宗が著名である。
正宗門中で最もよく師風を継承し、技倆もこれに次ぐとされ、上限では師との境が問われる。池田仲博旧蔵の重要美術品の刀について本間順治は、常の作より刃文に変化があり、火焔帽子と輝く沸を見せるとして「むしろ、正宗と見たいものである」[[c:10]]と談じた。下流では穏やかなのたれと彫物がそのまま信国に再現され、相州の彫技は貞宗を経て信国へ渡る。
藤代の格付けは最上作。指定を受けた作は八七口を数え、国宝四口、重要文化財一二口、戦前の重要美術品二口、特別重要刀剣二三口・重要刀剣四六口、上位二指定で六九口に上る。極めには名物が連なる。御堀出のほか、切刃、秀忠から前田利長に贈られた善得院、享保名物牒の氏家、太鼓鐘、二筋樋、そして豊太閤所蔵の大坂御物で大坂夏の陣に焼け、初代康継が再刃して家康遺品として頼宣に与えられた獅子貞宗があり、物吉・石田・国宝伏見貞宗に擬えられる作も記される。伝来は四一口に記録され、将軍家宣から家継に伝わった指料、元禄十年(一六九七)に綱吉から柳沢吉里へ下賜された刀のほか、尾張・紀州徳川家、前田・伊達・毛利・池田・佐竹・蜂須賀・成瀬・小笠原・鷹司の諸家に及ぶ。蒐集家にとってその大半は手の届かぬところにある。国宝・重要文化財は市場の外の文化財であり、所在の知られるものは東京国立博物館・徳川美術館・三井記念美術館・佐野美術館などに収まる。現実に出会いうるのは特別重要・重要の六九口で、その殆どが本阿弥の極めを拠り所とする大磨上無銘の刀か寸延びの脇指である。かかる一口が市場に現れることは稀で、得意の二筋樋や重ね彫を伴う一口であれば、出色の機会となる。
貞宗の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
相州伝 · 相模
時期区分: 相州· 1288–1385
現在46点販売中
板目に杢を交えた地鉄に地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに織りなされて明るく冴える鍛え、これが相州(鎌倉後期から南北朝期にかけての相州伝の古典的全盛期)を貫く核である。この区分は始祖新藤五国光が粟田口由来の精緻な小板目と直刃の基盤の上に、地刃ともに沸を主体とする鍛えを据えたところに始まる。国光の門から行光、正宗、則重が出て技術が大成し、続いて正宗の系から養子貞宗、越中の郷義弘が出て、伝統が頂点に達した。さらに南北朝期に入ると相模国にあって時代的にも技術的にも貞宗の次に位置する広光と秋広が現れ、十四世紀後半まで本流が続く。鎌倉幕府の府たる鎌倉を母体とし、その滅亡から南北朝の動乱という時代背景のなかで、姿は身幅広く寸延びた豪壮なものへと推移していった。 作風は説示にいう板目に杢交じり、地沸厚くつき、地景頻りに入る鍛えを土台とし、刃文はのたれを基調に互の目を交え、匂口深く沸厚くつき、金筋・沸筋・砂流しが頻りにかかって匂口明るく冴える点にある。郷義弘の作では、正宗・則重に比べて地景・金筋は穏やかながら、刃中に沸足がよく働き、地刃が一段と明るく冴え、肌合に柾ごころを交え、帽子を一枚風に深く焼くのが見どころとされる。広光・秋広に至ると、板目が肌立ちごころとなり、丁子に互の目を交え、飛焼・棟焼を交えて皆焼となり、頭の丸い団子丁子を交える刃文がこの時代に始まる。これらは母体である粟田口の抑制された直刃の源流からは遠く隔たり、沸の働きを前面に押し出した展開である。一方、後続の末相州(室町期の継続と衰退)が、こうした皆焼や帽子の一枚焼きといった形を継承しつつ地刃の冴えと沸の質を次第に薄めていくのに対し、本区分は地刃ともに明るく冴え、働きが豊富である点で截然と区別される。秋広の彫物が後の正広・広正、さらに室町末期の相州鍛冶の先駆となったことも、本区分が型を確立した側であることを示す。 収集家がこの区分を別格とするのは、正宗を頂点に、貞宗、そして正宗十哲の筆頭に挙げられる郷義弘という頂の刀工を擁するからである。鑑定上の要点は、郷義弘・貞宗ともに在銘作が皆無であるため、地刃の明るい冴え、沸足の働き、柾ごころ、一枚風に深く焼く帽子といった作域から極めることにある。代表作には金象嵌銘の兜切り江や名物中川江があり、宇和島伊達家、小田原藩大久保家、薩摩の島津家など大名家への伝来が説示に記される。秋広には延文二年から至徳四年に及ぶ年紀作があり、銘の切り方の変遷とともに資料的価値を支えている。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト刀剣、刀装具、骨董等1点ものにつきましては、キャンセル待ちのお客様がおられる場合がございますので、ご返品のご連絡は商品到着後3日以内、ご返送は8日以内にお願いいたします。ご返金は商品ご返送到着後即日に致します。