戦国の世、一派は第二の主家に仕えた。小田原の後北条氏である。その庇護のもと綱広系は打刀の時代の皆焼を鍛え続け、1590年の落城とともに新刀の時代へ散った。
頑強な造り込みながら、透彫と毛彫で雪華文を施して洒落た風情を漂わせる拵。柄と鞘の総体を藍鮫皮で包み、銀地金具で総覆輪としている。収められている短刀は、駿河国島田に鍛冶場を設け、今川家、武田家、北条家などの武家の信頼を得て栄えた義助と極められた作。
取扱店 銀座長州屋
「義助」は重要指定の作品がある名ですが、この品の現在有効な鑑定書は確認できませんでした。鑑定書で確かめられるまでは、その名は未確認とお考えください。 — Hoshi まずはご相談ください
販売中 1点
Shimada school of Suruga Province · 駿河 · 1455-1526頃
刀剣大鑑 上位26%
現在1点販売中
義助の名のもとに現存する最古の有年紀作は、「駿河国住義助作」と切り、永正二年八月日の年紀を添えた短刀である。その説明は「現存するものでは永正の年紀が最も古い」[[c:1]]と記す。義助は駿州島田派の主たる名で、説明はこの室町の一派を隣国相模の鍛えに強く影響されたものと読む。銘鑑は初代を康正に、二代を永正・大永の頃に置き、以後同名が相継いで新々刀期に及ぶとする。別の条は天正の義助を四代に挙げる。本間による御物台帳は一派の系図を補い、康正の頃に法名慶全と称した義助と、その弟助宗を記す。
義助を最もよく分かつ手は刀に見られる。大永の刀について説明は「相州物の影響を多く受けていることは間ちがいがない」[[c:2]]と記す。形状は鎬造、三つ棟、反り浅く大鋒となる。板目が流れて肌立ち、地沸つき地景が入る。刃文は湾れに箱がかりたる刃に尖り刃を交え、匂口しまりごころに小沸つき、砂流しがかかる。帽子は乱れ込み、先丸く長く返り、焼深い。表は棒樋を角止にして腰に倶利迦羅の浮彫、裏に三鈷剣を彫る。説明は地刃の出来よく彫物も上手とし、「これも末相州物に近い」[[c:3]]と評する。
静かなる一半は短刀と脇指にある。板目はよくつみ、処々流れ肌を交え、棟寄りに柾ごころが入り、やや白けごころとなって地沸がよくつく。刃文は短刀では浅いのたれに互の目を交え、脇指ではのたれ刃に沸がつく。永正の短刀では焼深く、大互の目に丁子風の刃を交える。匂口深く沸よくつき、砂流しがかかり、処々刃縁がほつれる。帽子は多くは直ぐに小丸で、永正の一口は一枚となる。彫物はこの手にも及び、短刀の一口は腰櫃の中に倶利迦羅を彫り、脇指は梵字に素剣、裏に菖蒲樋を彫る。
本間による御物台帳に所載の短刀は、この手を広げる。板目は柾がかって白けごころがあり、飛焼を交える。湾れに互の目を交えて砂流しが頻りにかかり、沸がつき、帽子は乱れ込んで尖って返る。台帳は「この義助は同名中時代が古く」[[c:4]]と判じつつ、義助・助宗は作銘の上からは俄かに時代を決し難いとする。遺例はかくして年代ではなく形によって二様に分かれる。一方は相州寄りの刀、他方は同派の短刀・脇指である。
これらを銘鑑の編年に対して支えるのが茎の年紀である。大永の刀の説明は、現存の有年紀作では大永が最も古いとし、「茎に見る大永年記は極めて貴重である」[[c:5]]と記した。のちに指定された永正の短刀が、その定点を一五〇五年まで遡らせた。天文以後かとされる短刀は「珍しく透し彫がある」[[c:6]]とされ、腰櫃の倶利迦羅を透し彫とし、地刃の出来もよい好資料とされる。年紀のない片切刃造の脇指は天文頃の作と見られ、彫物もまとまり上手とされる。これほど小さな記録では、一手を通じて後継の系を引くことはできない。説明はむしろこれらの初期作を、数代に亘る名の研究の資料として評価する。
指定を受けた作は五口で、重要刀剣四口と本間の台帳に所載の短刀一口、いずれも在銘である。国宝・重要文化財はなく、伝来や所蔵機関の記録もない。重要刀剣の四口は所在が記録されず、手放されることは少ないため、重要刀剣級の在銘の島田義助が市に現れるのは時折にとどまる。現れた時、その見どころは説明が示すところにある。すなわち一派の編年を支える茎の年紀、上手の彫物、そして刀に見る末相州の趣である。
義助の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
相州伝 · 駿河
現在12点販売中
駿河国島田の地に興ったこの一派は、室町期を通じて東海道の一隅に栄えた相州系の鍛冶群である。その主たる名は義助と助宗の二大名跡にあり、説明は義助を島田物の主流をなすものとし、助宗をその弟として室町中期に置く。銘鑑は両家の代を丁寧に並べ、義助の初代を康正の頃とし、助宗を古く文安・文亀より天文に至る連なりに据え、以後同名相継ぎて江戸期に及ぶと記す。されどこの整然たる図式は答えではなく難所であり、現存最古の有年紀作は永正二年の短刀にして、永正より古い年紀の作は遺らず、銘振りもまた各代を分かたぬゆえ、在銘の作は代を付すより一口ごとの出来によって見られる。NBTHKがその年代を量るのは、銘鑑の編年よりは茎に切る年紀によってであり、この一国の鍛冶場は、隣国相模の鍛えに強く影響され、美濃の関や千手派とも縁を結んで、その間に座した。 本派の作風はまず末相州風の沸の乱れにある。肌立ちごころに地沸つき地景の入る、流れて柾に寄る板目の地に、互の目を交えたのたれを焼き、小丁子・尖り刃を交え、沸厚く飛焼・金筋・砂流しをかける。説明は島田の作風が末相州鍛冶と深い関連があって互いに影響しあうと記す。助宗の手には一門自身のものと呼ぶ連れた互の目があり、腰の辺で箱がかったのたれとなり、匂口明るく金筋・砂流しのよく現われたものを、その特色のよく現われた作と読む。帽子は乱れに従い、小乱れあるいは尖りごころの乱れ込みより小丸に返り、ときに焼詰め、ときに掃きかけかかる。この典型に対し別貌が立ち、義助には少ない細直刃や、助宗が志津の風をねらった直刃のごとく、流れる板目に小互の目を交えた静かなる手をも焼く。地鉄は締まった備前地ではなく、流れてやや肌立ち、ときに白け立つこの板目こそが目に島田の手を告げ、刃中の沸の働きを載せる地となる。造込みは多彩にして、鎬造の刀より平造の脇指、内反りの短刀、大身槍に及び、説明は島田一門には比較的に槍が多いと記す。彫物は一門の特色を巧みに伝え、幅広の樋中に梵字と摩利支天を浮彫にし、表裏に倶利迦羅を、短刀に素剣・護摩箸を掻き、ときに珍しく透し彫をなす。 鑑定の勘所は、対比によるよりその自らの確かな見どころから引くにある。すなわち末相州の影響を受けた沸の互の目交じり湾れに砂流し・金筋を交え、流れてやや肌立つ板目に焼く駿州の手であり、直刃はその意図された例外、目立つ彫物と槍は周囲の島田工房の印である。代の判定が成らぬところで、説明はやはり作そのものに向かう。助宗においては大阪の一刀を地刃健全にして助宗の最高作と思われるものとし、永正二年の系譜に連なる十二回の刀を、現存作中最も地刃の冴えて明るく出来優れた一口とする。義助においては二十回の生ぶ茎・平造内反りの短刀を同名中の出色の一口と称え、大永の刀に見る年紀を初期諸代の編年がこれに拠るがゆえ極めて貴重とする。主要工たる義助・助宗が一派の中核をなし、広助らこれに次いで群を支える。茎は生ぶに切り、二字あるいは三字に銘し、年紀は遺るところでは銘に成し得ぬことを成して、長き連なりの中に一手を据える縁となる。物打辺の棟に打たれた切込みは、これらが室町の一国の実用刀であったことを思わせる。伝来としては、義助・助宗ともに本間による御物台帳に所載の一口があり、島田の作が市に現れることは稀である。一名のもとに分かたれぬ数代の中で、最上の刀・短刀に説明書が称えるあの冴えと健全をそなえた確かな一口こそ待つに値し、現われればそれは末相州の伝に近き、堅実な一地方の名門の佳き代表となる。 詳しく見る →
室町時代の相州
戦国の世、一派は第二の主家に仕えた。小田原の後北条氏である。その庇護のもと綱広系は打刀の時代の皆焼を鍛え続け、1590年の落城とともに新刀の時代へ散った。
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