銘文 『無銘』 種別 刀 日本美術刀剣保存会鑑定書付本作は潤うような大杢目の地肌が素晴らしく肌立ち地沸つき匂口締まりごころに小沸がつき、小足細かく良く入り、姿が美しく古調さを感じさる名刀です。 法華は備後国で三原派とは別系の備後国葦田郡の国分寺跡に於いて鍛刀した一派で、その祖を助国と伝えられ法華一派の鍛刀年代は南北朝時代より始まり在銘品では、一乗・兼安・行吉・重安・重家・信兼等の作が現存しています。 0円 (税込)

Hokke Ichijo (Bingo) · 備後 · 1352-1369頃
藤代 Chu-jo saku · 刀剣大鑑 上位31%
兼安の作で年代の確かな最も古い一点は、指表中央に五字を切る「備州住兼安」の銘を持ち、裏に応安二年三月の年紀をもつ平造の小脇指、すなわち一三六九年の作である。兼安は備後の刀工で、葦田郡に拠った法華一乗派の工であり、説明書はその系統を『古今銘尽大全』に拠って導き、三原物とは別系の備後国葦田郡物に属し、その流祖を助国としているとする。この区別こそ、彼を理解する第一の要である。名簿上の呼称にかかわらず、彼は三原派そのものの工ではなく、その指定の文中で繰り返し三原と対比される、隣接する法華の系統に属する。同派は南北朝期より室町期にかけて活躍し、一乗・行吉・重安・重家・信兼らと並んで、兼安は流祖格の一乗に次いで現存作中に挙げられる、この系統の有力な工の一人である。
彼の手は一派の手であり、しかも静かな手である。刃寄りで柾へ流れ、処々に杢を交える板目の上に、焼の低い穏やかな直刃を焼く。中直刃あるいは細直刃で、時に極く浅くのたれを帯び、小互の目が連れて添う。匂勝ちに小沸がつき、匂口は締まって、冴え立つよりはむしろ沈みごころとなり、細かな足・葉が入り、処々に刃縁のほつれを交える。説明書は一派の作風を、焼の低い穏やかな直刃か、直刃調に小互の目の連れたものと端的に述べ、兼安の刀身もほぼ例外なくこの基調を守る。彼は派手な見得によってではなく、乱れに作らぬ直刃の抑制と均しさによって判ぜられる工であり、小互の目はその静かな線に繰り返し打たれる句読点である。
地鉄こそ、彼の一派が最もよく己を標す処である。板目は平らに臥さず立ち、すなわち肌立ち、かねは白け、その上に淡く白け映りが立ち、かな色はやや黒みがかる。身幅広い刀では地沸がつき、立つ鍛えに太い地景が入る。この白く、ややねっとりとした地鉄に、柾へ転ずる流れ肌と、しばしば焼詰める帽子を併せたものこそ、評者が同派の作を大和気質の窺えるものと呼ぶ際に念頭に置くところであり、板目に流れ肌を交え、帽子は焼詰めることもあるなど、「帽子は焼詰めることもあるなど、大和気質の窺えるもの」[[c:3]]と総括される。帽子そのものは、一派が併せ持つ二態に読まれる。一つは直ぐに焼詰める大和の決め手であり、一つは先が尖って長く返るものであって、一口がいずれの態を見せるかでその所属がいくらか判ぜられる。
兼安の現存作は二つの作域に截然と分かれ、その稀なる方が在銘である。生ぶの在銘作は平造の小脇指・短刀に限られ、身幅広く重ね薄く、「備州住兼安」の銘と応安年紀を帯び、その数は極めて少ない。説明書は「兼安有銘の作は経眼したものは僅かに五指を掘するに過ぎず」[[c:4]]と記す。ある応安二年の脇指は「典型的な作風を示して、銘振りも極めてよい」[[c:5]]と賞され、一口の在銘の太刀は「すこぶる珍らしく貴重」[[c:6]]とされる。この手の太刀銘はほとんど聞かれぬからである。はるかに大きな作域は、伝法華兼安と極められた大磨上無銘の豪壮な南北朝姿の刀であり、鎬造で鎬やや高く、身幅広く大鋒あるいは中鋒に結ぶ。今日その名が主に拠るのはこれら無銘の大磨上の刀であって、極めは、彼と一派が共有する肌立つ白けた板目、白け映り、小互の目を交えた穏やかな直刃に拠る。銘鑑は、在銘の作に基づいて、その活躍を延文・至徳・応永と区々に比定するが、彼自身の刀身の応安年紀がこれを南北朝期に確と据える。
彼を分かつものは、他派との対比よりも、彼自身の特色によって述べるのが最も良い。ある大磨上無銘の刀は「一見備中青江物に似た作風を示している」[[c:7]]と評されながら、その造込みの鎬の高さと、大杢目を交えた鍛えによって兼安の作として留められ、評者はこれらを彼の作と看る特色とする。この一事に一派の本質が凝縮されている。白く、立ち、大和に焼かれた直刃の手は、備中・備後の隣派と見紛われやすく、焼の劇しさによってではなく地と造込みの細目によってそれらと分たれる。柾がかる白けた地の上の直刃調に焼詰めの帽子という彼の作風は、法華の系統が南北朝より室町へ伝える一派の手であり、その帽子と地に読まれる大和気質こそ、諸記録が葦田の系統を、常に比較される三原物から隔てるのに用いる特徴である。
兼安は収集家の獲物というよりは鑑識家の名であり、その記録はその規模について率直である。藤代の評価は彼を中上作に置き、公の記録に載る彼の刀身は十二口を数え、そのいずれもが重要刀剣の位である。国宝も重要文化財も特別重要も無く、指定の記録には誇るべき伝来も著名な旧蔵者も記されない。これが収集家に提供するのは、著名なものというよりは明白で手の届くものである。在銘の兼安、すなわち五字銘と応安年紀をもつ生ぶの平造の小脇指・短刀は、より稀な出会いに属し、現存は五指に数えられ、在銘の太刀はさらに稀である。彼に極められた大磨上無銘の刀は、その作のより見出しやすい面であり、その数口は指定を受けて「同派極めの優品」と賞され、立つ白けた地と、静かに沈む直刃がよく示される。これらが市場に現れるのは時折に過ぎず、現れた折には、古刀諸派を学ぶ忍耐強い者に、備後の大和の影響を受けた手の、健全で典型的な一例を供する。著名な銘を得るというよりは、丁寧な鑑定を築くに足る、劇しさのない確かな一口である。
兼安の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
大和伝 · 備後
時期区分: 古三原· 1288–1393
現在12点販売中
備後国三原派は鎌倉時代末期に興り、室町時代末期に至るまで連綿と作刀を続けたが、その一派のうち鎌倉末期より南北朝期にかけてのものを古三原と汎称し、正家・正広を双璧として、ほかに正信・親次らの工が知られる。同派の繁栄した三原の地には、東寺・蓮華王院をはじめとする大和中央の大社寺の荘園が多く置かれ、畿内中央との交流が頻繁に行われていた。それゆえ三原派の作風には大和気質が色濃く窺われ、初期の工はこの大和の影響を受けて南北朝の動乱期に一派の基礎を築いた。一方で隣国備中の青江風を示した出来も見られ、地理的な交わりのなかから独自の作域を養った点に、この区分の成り立ちがある。 この区分の作は、大和伝を母胎としながらも清雅かつ精良な初期の持ち味を備えている。鍛えは板目に杢目や流れ肌が交じって柾がかり、総体に肌立ちごころとなり、地沸が微塵によくつき、地景が細かに入って、淡く白け映りが立つ。刃文は中直刃を基調に小互の目や小乱れを交え、小足・葉がよく入り、刃縁には細かなほつれ・喰違い刃を交えて、洗練された直刃に変化を見せる。匂口は締まりごころに小沸がよくつき、金筋・砂流しがかかり、帽子は直ぐ調に焼詰め風あるいは掃きかけとなって穏やかに返るのが常である。大和本国のものに比して地刃の沸がやや弱く、白けごころを帯びる点も見どころとなる。後代の末三原が次第に作域を狭め質を落としていくのに対し、古三原は地刃の働きが豊かで、匂口の冴えと地鉄の精良さにおいて一段と清雅・精良であり、ここに両区分の差がはっきりとあらわれる。 鑑定にあたっては、まず大和奈良の諸派との別が要点となる。鎬の高い造込みや直刃調の作風は手白沢や保昌などと紛れやすいが、地鉄に杢が一際目立ち、白け映りが立ち、匂口が締まって沈みごころとなる点に三原物の見どころが示される。あわせて末三原との見極めも肝要で、初期の清雅な地刃と後代のやや緩んだ出来との差を読むことになる。主要工は正家と正広で、正家には豪壮な大鋒の作例が多く、正広には中鋒の尋常なものが多いと伝える。同派は大和気質ゆえに在銘の遺例が乏しく、無銘の大磨上げを正家・正広と極めたものが多く伝わり、本阿弥光徳の金象嵌銘を施した一口など、後世の鑑識を経て価値を保ってきた作が知られる。伝来の面でも靖國神社の蔵刀や伊達家旧蔵の作、近衛家を経て陽明文庫に伝わったものなどがあり、古三原が長く重んじられてきた一派であることを物語っている。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト返品の意思を商品到着日の翌日までに必ずメールもしくはファックスでご連絡ください。返品送料及び保険金額、返金振込手数料はお客様のご負担とさせていただきます。
銘文 『無銘』 種別 刀 日本美術刀剣保存会鑑定書付本作は潤うような大杢目の地肌が素晴らしく肌立ち地沸つき匂口締まりごころに小沸がつき、小足細かく良く入り、姿が美しく古調さを感じさる名刀です。 法華は備後国で三原派とは別系の備後国葦田郡の国分寺跡に於いて鍛刀した一派で、その祖を助国と伝えられ法華一派の鍛刀年代は南北朝時代より始まり在銘品では、一乗・兼安・行吉・重安・重家・信兼等の作が現存しています。 0円 (税込)

Hokke Ichijo (Bingo) · 備後 · 1352-1369頃
藤代 Chu-jo saku · 刀剣大鑑 上位31%
兼安の作で年代の確かな最も古い一点は、指表中央に五字を切る「備州住兼安」の銘を持ち、裏に応安二年三月の年紀をもつ平造の小脇指、すなわち一三六九年の作である。兼安は備後の刀工で、葦田郡に拠った法華一乗派の工であり、説明書はその系統を『古今銘尽大全』に拠って導き、三原物とは別系の備後国葦田郡物に属し、その流祖を助国としているとする。この区別こそ、彼を理解する第一の要である。名簿上の呼称にかかわらず、彼は三原派そのものの工ではなく、その指定の文中で繰り返し三原と対比される、隣接する法華の系統に属する。同派は南北朝期より室町期にかけて活躍し、一乗・行吉・重安・重家・信兼らと並んで、兼安は流祖格の一乗に次いで現存作中に挙げられる、この系統の有力な工の一人である。
彼の手は一派の手であり、しかも静かな手である。刃寄りで柾へ流れ、処々に杢を交える板目の上に、焼の低い穏やかな直刃を焼く。中直刃あるいは細直刃で、時に極く浅くのたれを帯び、小互の目が連れて添う。匂勝ちに小沸がつき、匂口は締まって、冴え立つよりはむしろ沈みごころとなり、細かな足・葉が入り、処々に刃縁のほつれを交える。説明書は一派の作風を、焼の低い穏やかな直刃か、直刃調に小互の目の連れたものと端的に述べ、兼安の刀身もほぼ例外なくこの基調を守る。彼は派手な見得によってではなく、乱れに作らぬ直刃の抑制と均しさによって判ぜられる工であり、小互の目はその静かな線に繰り返し打たれる句読点である。
地鉄こそ、彼の一派が最もよく己を標す処である。板目は平らに臥さず立ち、すなわち肌立ち、かねは白け、その上に淡く白け映りが立ち、かな色はやや黒みがかる。身幅広い刀では地沸がつき、立つ鍛えに太い地景が入る。この白く、ややねっとりとした地鉄に、柾へ転ずる流れ肌と、しばしば焼詰める帽子を併せたものこそ、評者が同派の作を大和気質の窺えるものと呼ぶ際に念頭に置くところであり、板目に流れ肌を交え、帽子は焼詰めることもあるなど、「帽子は焼詰めることもあるなど、大和気質の窺えるもの」[[c:3]]と総括される。帽子そのものは、一派が併せ持つ二態に読まれる。一つは直ぐに焼詰める大和の決め手であり、一つは先が尖って長く返るものであって、一口がいずれの態を見せるかでその所属がいくらか判ぜられる。
兼安の現存作は二つの作域に截然と分かれ、その稀なる方が在銘である。生ぶの在銘作は平造の小脇指・短刀に限られ、身幅広く重ね薄く、「備州住兼安」の銘と応安年紀を帯び、その数は極めて少ない。説明書は「兼安有銘の作は経眼したものは僅かに五指を掘するに過ぎず」[[c:4]]と記す。ある応安二年の脇指は「典型的な作風を示して、銘振りも極めてよい」[[c:5]]と賞され、一口の在銘の太刀は「すこぶる珍らしく貴重」[[c:6]]とされる。この手の太刀銘はほとんど聞かれぬからである。はるかに大きな作域は、伝法華兼安と極められた大磨上無銘の豪壮な南北朝姿の刀であり、鎬造で鎬やや高く、身幅広く大鋒あるいは中鋒に結ぶ。今日その名が主に拠るのはこれら無銘の大磨上の刀であって、極めは、彼と一派が共有する肌立つ白けた板目、白け映り、小互の目を交えた穏やかな直刃に拠る。銘鑑は、在銘の作に基づいて、その活躍を延文・至徳・応永と区々に比定するが、彼自身の刀身の応安年紀がこれを南北朝期に確と据える。
彼を分かつものは、他派との対比よりも、彼自身の特色によって述べるのが最も良い。ある大磨上無銘の刀は「一見備中青江物に似た作風を示している」[[c:7]]と評されながら、その造込みの鎬の高さと、大杢目を交えた鍛えによって兼安の作として留められ、評者はこれらを彼の作と看る特色とする。この一事に一派の本質が凝縮されている。白く、立ち、大和に焼かれた直刃の手は、備中・備後の隣派と見紛われやすく、焼の劇しさによってではなく地と造込みの細目によってそれらと分たれる。柾がかる白けた地の上の直刃調に焼詰めの帽子という彼の作風は、法華の系統が南北朝より室町へ伝える一派の手であり、その帽子と地に読まれる大和気質こそ、諸記録が葦田の系統を、常に比較される三原物から隔てるのに用いる特徴である。
兼安は収集家の獲物というよりは鑑識家の名であり、その記録はその規模について率直である。藤代の評価は彼を中上作に置き、公の記録に載る彼の刀身は十二口を数え、そのいずれもが重要刀剣の位である。国宝も重要文化財も特別重要も無く、指定の記録には誇るべき伝来も著名な旧蔵者も記されない。これが収集家に提供するのは、著名なものというよりは明白で手の届くものである。在銘の兼安、すなわち五字銘と応安年紀をもつ生ぶの平造の小脇指・短刀は、より稀な出会いに属し、現存は五指に数えられ、在銘の太刀はさらに稀である。彼に極められた大磨上無銘の刀は、その作のより見出しやすい面であり、その数口は指定を受けて「同派極めの優品」と賞され、立つ白けた地と、静かに沈む直刃がよく示される。これらが市場に現れるのは時折に過ぎず、現れた折には、古刀諸派を学ぶ忍耐強い者に、備後の大和の影響を受けた手の、健全で典型的な一例を供する。著名な銘を得るというよりは、丁寧な鑑定を築くに足る、劇しさのない確かな一口である。
兼安の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
大和伝 · 備後
時期区分: 古三原· 1288–1393
現在12点販売中
備後国三原派は鎌倉時代末期に興り、室町時代末期に至るまで連綿と作刀を続けたが、その一派のうち鎌倉末期より南北朝期にかけてのものを古三原と汎称し、正家・正広を双璧として、ほかに正信・親次らの工が知られる。同派の繁栄した三原の地には、東寺・蓮華王院をはじめとする大和中央の大社寺の荘園が多く置かれ、畿内中央との交流が頻繁に行われていた。それゆえ三原派の作風には大和気質が色濃く窺われ、初期の工はこの大和の影響を受けて南北朝の動乱期に一派の基礎を築いた。一方で隣国備中の青江風を示した出来も見られ、地理的な交わりのなかから独自の作域を養った点に、この区分の成り立ちがある。 この区分の作は、大和伝を母胎としながらも清雅かつ精良な初期の持ち味を備えている。鍛えは板目に杢目や流れ肌が交じって柾がかり、総体に肌立ちごころとなり、地沸が微塵によくつき、地景が細かに入って、淡く白け映りが立つ。刃文は中直刃を基調に小互の目や小乱れを交え、小足・葉がよく入り、刃縁には細かなほつれ・喰違い刃を交えて、洗練された直刃に変化を見せる。匂口は締まりごころに小沸がよくつき、金筋・砂流しがかかり、帽子は直ぐ調に焼詰め風あるいは掃きかけとなって穏やかに返るのが常である。大和本国のものに比して地刃の沸がやや弱く、白けごころを帯びる点も見どころとなる。後代の末三原が次第に作域を狭め質を落としていくのに対し、古三原は地刃の働きが豊かで、匂口の冴えと地鉄の精良さにおいて一段と清雅・精良であり、ここに両区分の差がはっきりとあらわれる。 鑑定にあたっては、まず大和奈良の諸派との別が要点となる。鎬の高い造込みや直刃調の作風は手白沢や保昌などと紛れやすいが、地鉄に杢が一際目立ち、白け映りが立ち、匂口が締まって沈みごころとなる点に三原物の見どころが示される。あわせて末三原との見極めも肝要で、初期の清雅な地刃と後代のやや緩んだ出来との差を読むことになる。主要工は正家と正広で、正家には豪壮な大鋒の作例が多く、正広には中鋒の尋常なものが多いと伝える。同派は大和気質ゆえに在銘の遺例が乏しく、無銘の大磨上げを正家・正広と極めたものが多く伝わり、本阿弥光徳の金象嵌銘を施した一口など、後世の鑑識を経て価値を保ってきた作が知られる。伝来の面でも靖國神社の蔵刀や伊達家旧蔵の作、近衛家を経て陽明文庫に伝わったものなどがあり、古三原が長く重んじられてきた一派であることを物語っている。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト返品の意思を商品到着日の翌日までに必ずメールもしくはファックスでご連絡ください。返品送料及び保険金額、返金振込手数料はお客様のご負担とさせていただきます。